萬鶴(光久女)誕生
年月日未詳 / 冊子 436頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0926
『綱久公御譜中』は、寛文元年三月九日に女子萬鶴が家の女房を母として誕生し、のち家臣北郷宗次郎忠昭の室となったと記す記事。
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年月日未詳 / 冊子 436頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0926
『綱久公御譜中』は、寛文元年三月九日に女子萬鶴が家の女房を母として誕生し、のち家臣北郷宗次郎忠昭の室となったと記す記事。
年月日未詳 / 冊子 438頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0932
寛文元年を中心に、朝倉六兵衛・藤井四郎兵衛らの殉死、長谷場十郎兵衛純堯・山内七右衛門・関田次郎右衛門らの戦傷・死亡について、日付や主家関係を付して列挙した記事。
年月日未詳 / 冊子 439頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0938
綱久公御譜中の同胞系図で、綱久と女子を横列に置き、男女十五人略とした後に千亀を掲げる。千亀は寛文元年七月八日生まれ、母は家の女房で、家臣伊勢兵部貞顕の室となったと記す。
年月日未詳 / 冊子 440頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0941
寛文元年八月六日、将軍家が禁裏造営の助役を島津久雄に命じ、久雄は人夫を動員して翌寛文二年十一月五日に完成させた。その後、寛文三年十二月二日に江戸で三十一歳で没したと記す記事。
年月日未詳 / 冊子 442頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0946
『北郷作左衛門久精譜中』は、寛文元年八月十八日に江戸芝邸で島津綱久の男子が誕生した際、北郷久精が命を受けて鳴弦・蟇目の役を勤めたと記す。男子は後に島津兵庫久薫の猶子となり、兵庫久住と称した。
年月日未詳 / 冊子 442頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0947
兵庫忠朗一流系図は、久住(虎助・内匠・兵庫)が寛文元年八月十八日に江戸芝邸で誕生し、太守中将綱貴の弟であると記す。母は松平河内守定行女とし、定行に定頼カという校注がある。
年月日未詳 / 冊子 442頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0949
綱久公御譜中の同胞系図は、綱久と女子を横列に置き、男女十六人とした後に於長を掲げる。於長は寛文元年八月二十七日生まれ、母は家臣有馬新左衛門純実の娘で、家臣島津図書久洪の室となったと記す。
年月日未詳 / 冊子 446頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0961
系譜は、島津綱久の男子久寛が寛文元年十月二十日に誕生し、母は家の女房で、のち島津又六家の後嗣となったと記す。久寛には久當・松千代丸・權七・伊賀・縫殿・勘解由・将監の称が掲げられる。
(寛文元年) / 冊子 438頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0933
寛文元年四月二十九日、稲葉正則を上使として島津綱久に帰国許可と先例どおりの賜品が伝えられ、登城時には馬一匹も与えられた。綱久は五月四日に江戸を発ち、家老鎌田蔵人政直を伴って六月十九日に鹿児島へ入り、樺山長門忠則を江戸へ派遣して帰国許可を謝し、先例どおり献上したと記す記事。
寛文元年八月廿五日 / 冊子 453~454頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0984
羽地の口上覚と各条回答。琉球の田富高御前帳の写し、城火事の焼失・迷惑、假屋原口吉兵衛、鳩目銭の免除・城普請資金、材木用の荷船三艘、苦労米、百姓出米と労役、国上地方の城材木輸送等を問い、許可・不許可や具体的指図を付す。苦労米免除は鹿児島衆も過半受け取らないことから難しいとし、百姓出米の一節は免除を認める。本文途中に寛文二年八月二十五日、末の追加条に寛文元年九月十五日の日付を記す。
寛文元年十二月廿五日 / 冊子 75~76頁/原整理番号 5
島津光久は、忠久以来の年中儀式を伊地知家が受け継いできた由来を述べる。参勤などで旧式をすべて行うのは難しいため、煩雑な部分を省いて要点を採り、新たな一巻を旧本の後に付したという。正月と五節供の供具に一定の型を定め、子孫の規範とするための寛文元年十二月二十五日付の跋。
寛文二年六月十三日 / 冊子 104頁
市来次左衛門尉惟宗家賀が正宮へ鎧一領、甲一頭、籠手・佩楯一具を奉納し、現病平癒、息災延命、武運長久、如意成就を祈願した寄進状。本文の日付は「寛文元年辛丑六月十三日」だが、巻末目録は「寛文二年六月十三日」とする。
慶長11年正月19日ほか / 冊子 343~346頁/原整理番号 130-33
慶長十一年正月十九日付の切紙名寄帳抄。〔日か〕州久津良村の浮免坪付を省略し、合計一石四斗四合を衆中屋敷として返地したと記し、高岡御支配所印を据える。付随系譜の十四代忠辰は天正十三年生まれで、島津光久から三河守の名を賜り、家久の出馬に十八歳で馬廻として供奉し、寛永三年に上京した。光久の御題「春の雪」・菊・清見関の梅に応じた和歌を載せ、江戸で奏者番、日州代官役、与頭役を務め、寛文元年十二月十七日に七十七歳で没したとする。十五代久堅は元和六年生まれで光久の扈従となり、笹右衛門の名を賜って援役・与頭役を務め、元禄二年十一月十九日に七十歳で没し、子女・養子・婚姻・法名を列記する。十六代家寛は慶安三年生まれで、元禄八年に曾祖父忠宅が改めた源姓川上を上野守久尚へ返進して大蔵姓を再び継承し、援役・与頭役を務め、享保十一年正月二十四日に七十七歳で没したと記す。
万治2年8月18日(1659)の覚書・慶長6年(1601)~明和4年7月(1767)の系譜記事 / 冊子 437~445頁/原整理番号 13-7
冒頭に『高麗人諸事問条記一通、但十五ヶ条』と掲げ、平田清右衛門が淵辺量右衛門へ、ほかにも覚えている事柄を詳しく書き付けて提出するよう求めた万治二年八月十八日付覚書。御記録方で使用するための聞取であり、朝鮮軍記の提出控えは別紙にあると注記する。続いて元貞以下の淵辺家系譜を収め、元貞が寛文元年に七十九歳で没して柿本寺へ葬られ、元辰・元隆・元智・元錦・元能・元苗・元儀・元詮・元長・元彬・元甫・元休・元堅・元伴・元次・元敏らの出生、幼名・通称・法名、母方・婚姻、早世・没年・墓所を各代ごとに記す。元辰は六歳で家久に召し出されて仲兵衛の名を受け、元隆は太守光久の目見を得て加治木の花堂・藤原重俊女を妻とし、元錦は太守光久への御目見、武州品川稲荷大明神への祈願成就、家督勤役と知行百壱石余を記す。元詮は天和三年に太守綱貴の初参勤供を務め、元苗は元文四年の清女産神・太田大明神参詣、元儀は綱貴・吉貴への御目見と町田・川上両家への奉公、元堅は太守継豊の初参勤供、元甫は島津小平太の供、元休は太守綱貴・重年への奉公、元詮系では太守吉貴・継豊の家督礼や島津家諸役を伝える。末尾は明和四年七月朔日、太守重豪への初而奉拝記事まで続き、近世淵辺家の奉公・婚姻・家督・墓所を世代順にまとめる。
寛文元年六月十三日 / 冊子 438頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0931
市来次十郎惟宗家賀が、病気平癒・息災延命・武運長久・諸願成就を願い、正宮へ鎧一領、甲一、籠手・佩楯一具を奉納した寄進状。
(寛文元年)六月十七日 / 冊子 438頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0934
島津綱久が北郷次郎左衛門久定へ、海陸とも無事に前日着船したとの知らせを喜び、その祝儀として遠路使者と書状を寄せた心遣いに謝意を伝えた返書。
(寛文元年)六月廿三日 / 冊子 438~439頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0935
稲葉正則が松平大隅守へ、琉球布十巻・御肴一種・泡盛二壺を献じた件を披露し、入念の段は御喜色と知らせる。
(寛文元年)七月十二日 / 冊子 439頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0939
島津久茂と島津久頼が鎌田政有ら五名へ、将軍の機嫌伺いの使者には岩元清左衛門を差し出すので国元から別に召し上げる必要はなく、冬の機嫌伺い使者は頃合いを見て命じ、時期は追って知らせると達した連署書。
(寛文元年)八月二日 / 冊子 439~440頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0940
妻木彦右衛門頼熊が島津図書・鎌田蔵人へ、先年琉球国八重山の与那国で破損した阿蘭陀船荷物について、阿蘭陀人の帰帆時には積渡しが間に合わず、琉球人が八重山から薩摩へ運び、役人家来四人のうち琉球人二人が荷物を長崎まで護送した旨を報じる。無事着岸し、目録どおり請け取ったこと、琉球人への配慮と阿蘭陀人の残荷受取・帰帆、礼の伝達等を述べ、詳細は使者が口上するとする。別段で島津図書へ今晩報を認め明日使者へ渡す旨も記す。
(寛文元年)八月十日 / 冊子 440頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0942
阿部忠秋が島津光久へ、国元産の青毛の牧馬を献上した件を将軍へ披露し、丁重な心遣いを喜ばれたと通知した書状。
(寛文元年)八月十日 / 冊子 440~441頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0943
酒井忠清ら老中四名が島津綱久へ、将軍が健勝であることを知らせ、綱久が暇を得て無事鹿児島へ到着したことを喜び、帰国礼の使者と樽一荷の献上を承知して将軍へ披露したと通知した連署状。
(寛文元年)八月十四日 / 冊子 441頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0944
酒井忠清ら老中四名が島津綱久へ、将軍の病状を案じた書状を受け、将軍は早く快復し七夕には表へ出て諸礼を受け、その後も健勝であるため安心するよう通知し、綱久の心遣いを将軍へ披露すると伝えた連署状。
(寛文元年)八月十八日 / 冊子 441頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0945
酒井忠清ら老中四名が島津綱久へ、将軍が少々病んだものの早く快復し、七夕には表へ出て諸礼を受けたことを綱久が喜んだ旨を承知し、その心遣いを将軍へ披露すると伝えた連署状。
(寛文元年)八月廿四日 / 冊子 442頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0948
酒井忠清ら老中四名が島津光久へ、端午の将軍内書を渡すため、翌日の四つ時頃に家来一人を江戸城へ差し越すよう命じた連署状。
(寛文元年)閏八月九日 / 冊子 442頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0950
井上正貞が島津光久へ、将軍の病気を見舞う書状を受け、将軍は快復して七月十日に本丸へ移徙したと知らせ、光久の心遣いに謝意を述べた返書。
(寛文元年)閏八月十一日 / 冊子 442~443頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0951
設楽貞政が島津光久へ、先月九日付の書状を受け、将軍が健勝で七月十日に本丸へ移徙したことを喜び、光久の心遣いに謝意を述べた返書。
(寛文元年)閏八月廿四日 / 冊子 443頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0952
町田久則・伊勢貞昭・鎌田政直の三名が阿谷屋親方へ、少将から宇治茶一壺・鰹節一匣・樽一荷を拝領するので、ありがたく頂戴するよう伝えた家老中連署書状。
(寛文元年)閏八月廿四日 / 冊子 443頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0953
町田久則・伊勢貞昭・鎌田政直の三名が饒波親雲上へ、少将から茶碗十、宇治茶一壺、鰹節一箱、樽一荷を拝領するので、ありがたく頂戴するよう伝えた家老中連署書状。
(寛文元年)閏八月廿五日 / 冊子 443頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0954
稲葉正則・阿部忠秋・松平信綱・酒井忠清が松平薩摩守へ、水戸中納言徳川頼房の死去を聞いて驚き、公方の様子を伺う使者を遣わした旨の書状を受けたと返答する。入念の段は上聞すると伝える。
(寛文元年)閏八月廿九日 / 冊子 443~444頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0955
島津光久が、寛永十一年以来未決着の伊東氏との領分境「牛之峠」をめぐる経緯を整理した覚書。禁裏再建用材として日向領内の槻之河内・板屋之河内の材木を差し出そうとしたところ伊東家が境目裁定を求めたため、境界主張を損なわず公儀の用材命令へ対応する方法と、日向領からの材木召上げ免除の可否について酒井忠清の内意を求めた。
(寛文元年)九月朔日 / 冊子 445頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0956
島津綱久が琉球国司へ、当年の賀礼として使者と書状を送った旨を江戸で承知し、太平布二十疋・蕉布二十端・焼酎三壺の祝物を贈られたことを喜んだ返書。
(寛文元年)九月廿五日 / 冊子 445頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0957
島津綱久が琉球国司へ、当年の賀礼として使者を派遣し、目録どおりの祝物を贈られたことを喜び、詳しくは使者が述べると伝えた返書。
(寛文元年)九月廿七日 / 冊子 445頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0958
松平信綱が島津光久へ、翌二十八日に紀伊宰相徳川光貞との対顔があるため例月の御礼はなく、登城する必要はないと通知した書状。
(寛文元年)十月三日 / 冊子 445頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0959
酒井忠清ら老中四名が島津光久へ、重陽の将軍内書を渡すため、翌四日の四つ時頃に家来一人を江戸城へ差し越すよう命じた連署状。四名とも判はない。
(寛文元年)十月十一日 / 冊子 445~446頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0960
稲葉正則・阿部忠秋・松平信綱・酒井忠清が松平薩摩守へ、公方の機嫌がよいことを喜び、その様子を伺う使者を遣わした旨を承知したと伝える。公方はますます勇健なので安心するよう告げ、御肴一種を献じた件を披露して一段の御仕合と返答する。
(寛文元年)十一月廿一日 / 冊子 446頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0962
稲葉正則が、国許の蜜柑二箱と御肴一種を献じた件を披露し、一段の御仕合と返答する。
(寛文元年)十二月廿五日 / 冊子 446頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0963
家綱黒印の御内書が薩摩少将へ、歳暮の嘉祥として小袖五が到来して喜ばしく思うと伝え、詳しくは酒井雅楽頭が述べるとする。
寛文元年後八月十二日 / 冊子 30頁/原整理番号 6-48
鎌田政直は、朝鮮在陣者の名乗りを廻文で集めた分を先に送り、義弘の時代の御記録草案の進捗を尋ねる。以前に本城や外城から集めた文書と御家の系図を分けて御文書方へ渡し、奉行に受領させ、従来の草案も大切に扱うよう平田清右衛門へ指示する。
寛文元年後八月十二日 / 冊子 30頁/原整理番号 6-49
鎌田政直は、諸外城から提出された文書、御家の系図、御記録草案を平田清右衛門から引き継ぎ、御文書倉に収めるよう日高主膳と川上彦左衛門へ命じた覚。受取と保管の対象を三種に分けて列記する。
寛文元年後八月十二日 / 冊子 57頁/原整理番号 22-5
伊地知季安は、周山から示された御船手関係の引付三通を写し置いた事情を記す。周山が季安の論史中の疑問点を相良甚太夫へ尋ねた際の返答に添えられた書付であるという。文政九年五月十三日付。
寛文元年後八月十二日 / 冊子 57~59頁/原整理番号 23
伊地知季安は、相良甚太夫の御文書奉行・平田清右衛門に関する説明を受け、旧来の御文書奉行の候補者と職掌を検討する。また平田が歴代の記録編纂に着手した時期を考え、寛永初年とする説には疑問を示し、正保二年着手という平田家の伝えを重視する。幕府が諸家の系図提出を命じた時期や川上久国の書状を手掛かりに、島津家の系図作成・提出の経過を追うが、推測を含むことも明示する。
寛文元年十二月廿五日 / 冊子 112頁/原整理番号 25
慶長二年十二月二十七日の朝鮮在陣記事。島津義弘・忠恒らが泗川の新城へ移り、祝言の寄合を開いたことを記す。続いて蔚山の加藤清正の城へ明軍が大軍で押し寄せたとの注進を受け、陣中の諸大名や野村・毛利・伊東・秋月・高橋らに使者と書状を送った次第を伝える。末尾に年越しの年男の任命を記す。
5寛文元年十一月 / 冊子 518~520頁/原整理番号 327-5
佐多休次郎家の普写。家臣や関係者の氏名と役目を列挙し、戦死・討死の状況、馬や武具の備えなどを記録する。