平家高譲状
正平元年三月廿八日 / 冊子 766頁
平家高が薩摩国山門院三百五十町を山門六郎へ限永代譲与し、末代まで子孫が相違なく知行するよう定めた譲状。
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正平元年三月廿八日 / 冊子 766頁
平家高が薩摩国山門院三百五十町を山門六郎へ限永代譲与し、末代まで子孫が相違なく知行するよう定めた譲状。
文和四年二月廿九日 / 冊子 869-870頁
家高が山門内などの所領を譲り、田地・屋敷・山野の範囲、受領者、子孫への相伝、違乱禁止を仮名書きで定めた譲状。複数の所領箇所と境界を挙げ、家高の新開所領を含めて将来の知行を保障する。
文和四年四月八日 / 冊子 870-871頁
家高が弥藤四郎へ、薩摩国入来院清色名内南方の祖父致重跡を譲る譲状。屋敷、小薗、水田、山野、河川などの境界を東西南北の目印で詳記し、地頭・領家への年貢・公事負担を守ること、子孫への重代相伝、違乱禁止を定める。
文和4年2月29日 / 冊子 657頁/原整理番号 131
文和四年二月二十九日、家高・家重が、市来崎彦七郎に、薩摩国山門院東方高橋名の新開田三段を永代に譲った譲状。家高は父道恵から譲られて相違なく知行してきた田地と述べ、彦七郎との親しい関係と深い志を譲与の理由に挙げる。万雑公事・臨時課役を止め、子孫まで相違なく知行できるよう定め、家高・家重がともに花押を据える。
正平元年3月28日 / 冊子 661頁/原整理番号 142
正平元年三月二十八日、平家高が山門六郎に薩摩国山門院三百五十丁を永代に譲り、相違なく知行させると記した譲状。末代までの譲与とし、山門六郎の子孫の地であると定める。家高が花押を据える。
建久3年 / 冊子 175~176頁/原整理番号 55
鮫島宗家流の系図。工藤四郎家光の子・宗家(鮫島四郎)が駿河国鮫島郷を領し、源頼朝に属して石橋山合戦で功を挙げ、建久三年に薩州阿多地頭職を与えられたことを起点とする。宗家・長家と女子・山門郡司秀忠の婚姻関係を図示し、その系譜説には宗家と秀忠が同時代人であることから誤りであろうとの考証注を付す。二代家高は刑部允・入道行願、三代家景(景家とも)は弥二郎で、妻を山門郡司忠秀の女とする。兼家の九代孫宗喬は日新公に仕え、彦次郎・入道蓮道は貞久公に仕えて加世田・知覧・指宿を領した。蓮性は師久公に仕え、民部忠宗は伊作家のため阿多へ落ち久豊公に仕えたと記す。後半は宗吉―宗満、宗遊―宗秀(実は弟)、宗秋―宗昌の系線を掲げ、宗秋を日新公に仕えた備後守・泊地頭、宗昌を『人物志』所載とする。
年月日未詳 / 冊子 126~127頁/原整理番号 467
武蔵国に発する野辺氏の諸系統を示した系図。武蔵守隆泰―好隆―資秀の系統、木部次郎行兼・尾薗野五郎家高・野部六郎広兼から盛行・盛秀へ続く系統、横山介三郎時資・猪俣野五郎時範の系統などを掲げ、野辺太郎左衛門入道成願、久盛、盛忠、愛寿丸らへつなぐ。元弘三年五月の捕縛・赦免、深河院下向、義兵・凶徒鎮圧などの事績も傍注する。
文書本文の日付:貞永元年十一月廿八日 / 冊子 552~553頁/原整理番号 二四/整理ID TMP-P03-NIKAIDO-D0024
薩摩國阿多郡南北境をめぐる相論を停止し、絵圖に判形を加えて沙汰する下知状案。 南方の時景と北方の家高が挙げる道・松木・譲状等の主張を記す。 時景を召問した際に申證人を立てないことを記し、問注での悪口・虚言等の罪科に言及して、家高の申すことにも理がないわけではないとする。 観音寺大門前は南路を境とし、その西は宗家法師の譲状の境を用い、判形を加えた絵圖を両方へ下して領掌させる。
天智8年10月、養老4年8月3日、天平9年4月17日、天長3年7月24日、貞観14年、寛平3年、天暦3年8月、天徳4年5月、延久2年、元弘3年、延文3年、貞治元年9月、応安4年・7年、文明11年 / 冊子 181~186頁/原整理番号 63
冒頭に『大河平系図ニハ』として、冬嗣以下の長良・良房・良相・基経の系線と養子関係に関する異伝を掲げ、続いて『藤原氏菊地系図』を展開する。天津児屋根命二十一世の藤原鎌足から、不比等・房前・真楯・内麻呂・冬嗣・良房・基経・忠平・師輔・兼家・道隆・隆家へ至る祖系を、官位・贈位・諡号・没年とともに記す。隆家の後裔では政則・則隆以下を掲げ、則隆を菊池領主とし、後三条院の延久二年に初めて菊池へ下向したとする。政隆・隆基・隆房以下から、保隆・経隆・経政、原田・天草・薩摩・村田・大河平・八代・佐野・赤星・西郷・平山・蛇塚・若宮などの諸流を分岐させ、官途・通称・婚姻・養子・家の継承を系線で示す。隆直の系では鷹羽を幕紋として『自是始大河平』と注記し、隆俊を大河平祖とする。武時は元弘三年に博多で戦死したとし、武光は南朝皇子良懐親王を将軍に奉じて少弐・大友らと戦い九州に勢力を振るい、貞治元年には九州惣司として下向した越前高経の二男氏経を撃退したと記す。武政は良懐親王を奉じて大明の聘使を通さず、今川了俊・大内義弘・足利義満らとの戦いを経て幸府へ退き、応安七年に降伏したとする。末尾は武朝・兼朝・持朝以下、為邦・為安・為光・為重らの近世前段の諸系線を掲げ、安光が文明十一年の重朝との筑後合戦で田尾美作守を討ち取って賞を受けたとの記事で終わる。
年月日未詳 / 冊子 121~124頁/原整理番号 457
『高城名勝志方留』から、高城麓の寺社・城跡・墓碑・伝承を抜萃した記録。桃花山多楽院は前代十二坊・寺領八町余を有したが天正年中の兵乱で焼失し、当時は寺高二十三石とする。信興寺末寺永学寺の寺跡、古城と水引、高城三社権現・鐘守堂・天満天神宮の由緒、石塔・仏像・社殿の寸法や銘、湯田村の大石飛来伝説と天神図などを収める。
文書本文の日付:嘉元三年六月 日 / 冊子 552頁/原整理番号 二三/整理ID TMP-P03-NIKAIDO-D0023
薩摩國阿多郡南方地頭の鮫嶋孫次郎光家法師蓮覺が、北方地頭隠岐三郎左衛門入道々忍の南方内田畠・在家等への押領を訴える。 宗家による宗景への譲状と貞永元年の関東御下知状を証文として挙げ、南北の分領・知行の経緯を述べる。 観音寺大門前では南路を境とするなど、御下知に記された境と沙汰を引く。 同人の押領を訴えようとしたが死去したためその跡を相手とし、証文に任せて押領を止め、年々の得分物を返すよう求める。
明治2年五月12日知政所(年は朱書) / 冊子 668頁/原整理番号 867の2/整理ID 867-2
諸士の分地別立は、これまで本家に高二十石余を残し、十石以上を分地する扱いであった。しかし、家がむやみに増え、本家も零落するおそれがあるという達の判断から、今後は本家に三十五石以上を残し、十五石以上を分地する条件へ改める旨を関係先へ伝えるよう求める。朱明治二年己五月十二日、知政所。本家に残す高と分地の高を別の条件として保持し、石高を実収穫・土地面積・通貨に換算せず、全分家の禁止や実際の許可件数は補わない。