家久公御出の寺社知行に関する覚
元和5年7月3日(目録) / 冊子 488頁/原整理番号 2
家久公の時に寺社知行の三分一を召し上げて別紙に記したことを述べ、無縁の寺社、先祖以来の寺と知行、建立や祈願所に関する扱いを列挙する。末尾に元和五年七月三日とある。
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元和5年7月3日(目録) / 冊子 488頁/原整理番号 2
家久公の時に寺社知行の三分一を召し上げて別紙に記したことを述べ、無縁の寺社、先祖以来の寺と知行、建立や祈願所に関する扱いを列挙する。末尾に元和五年七月三日とある。
慶長三年十一月~十二月 / 冊子 270頁
慶長三年十一月から十二月までの年齢を記した覚書。島津義弘(維新公)を六十四歳、島津忠恒(家久公)を二十三歳とする。
年月日未詳 / 冊子 54頁/原整理番号 79
『北郷久加世別記』。二月二日に富岡へ着き、家久公の意向として、富岡番手奉行の労をねぎらい、大隅守の病状悪化で有馬へ渡れないこと、松平伊豆守の命により上津浦へ物頭・番手人数を送ったことを主税介・大和守の両所へ伝えた。両所は取次を介して返答した。
天文六年八月七日~慶長十七年四月二十六日(系譜中主要記事) / 冊子 483~487頁/原整理番号 20
桓武天皇―葛原親王―高望王から貞盛・維衡・正度・忠盛・清盛を経て、小松内大臣重盛の後裔を平田氏諸流へつなぐ庶流系図。平田安房助悦山を加世田龍徳院に葬ったこと、谷山吉幸城主・平田民部少輔宗秀が隅州平松の岩剣合戦で戦死したことを記し、宗貞・宗祐・宗位・宗如らの官途・没年・法名へ続く。宗清は天文六年八月七日に阿多宮崎本地河原で戦死し、宗張は天正十五年三月十五日に豊後坂梨で戦死、平田新七光宗は実父を宗秀とし、慶長十年十二月二十六日に七十七歳で没した。さらに妙谷寺・福昌寺住持となった宗徳、増宗まで続く家老役、宗次の野尻での被討、行宗の筑前航海中の船破損に際する切腹、宗親・宗朋・宗房らの没年と葬地を載せる。村田雅楽頭経宣の三男・宗敏は子のない宗房の猶子となり、九歳で義久の近習、十三歳で家久の幕下に奉仕し、十四歳の慶長四年には伊集院源次郎の庄内一揆に従軍したところまで記す。
年月日未詳 / 冊子 152頁
『家久公御譜中』所収文書。掲載箇所には「正文在鹿児島町仲馬七郎兵衛」とあるのみで、独立した本文・日付・発給者・宛所は記載されていない。
慶長十一年廿二日 / 冊子 102頁
慶長十一年十二月二十二日付の島津家久公帖案。本文はNo.245の文書と同文であるため省略された旨を記す。
明和六年丑十一月二十八日 / 冊子 230頁/原整理番号 610/整理ID 610
大龍寺の文書十通の写に関する証状で、白木御文書五番箱にある覚写として掲げる。列挙するのは、将軍義稙公の延徳三年二月二十二日付公文一通、将軍義澄公の文亀二年十一月二十日・同年十二月二十一日付公文二通、将軍義昭公の天正六年八月十六日・同年十月十七日付公文二通、家久公の寛永六年四月八日・同年四月二十二日付公文二通、光久公の慶安三年閏十月五日付公文二通、および貞享三年九月十日付公文一通である。これら大龍寺の文書が失われたため、写の作成を願い出たことについて、島津久金・亡菱刈實詮の相談を経て申し上げ、御記録所で臨写するよう命じられたので、後代まで格護すべき旨を伝える。明和六年丑十一月二十八日付、樺山左京久智の判、大龍寺宛を備える。付記は、包書に朱で四十八・大龍寺格護の文書とあること、同年十一月二十八日に左京から後年の見合せのため御記録所へ渡し置く旨で渡され、東郷次太夫が承知して納め置いたことを記す。
寛永廿年九月十五日 / 冊子 152頁/原整理番号 103
寛永二十年九月十五日の「初日一番四角之外」犬追物手組。家久公三疋、島津兵庫頭三疋、吉田長四郎一疋などを掲げ、検見を島津十郎左衛門尉、喚次を吉田休兵衛尉とする。
慶長十一年廿二日 / 冊子 83頁
島津家久の帖として掲げられた項目だが、本文は収録されず、「御文庫三番箱中」とする所蔵注記のみを記す。
年月日未詳 / 冊子 166頁
島津家久の母・実窓芳真大姉の没後、家久が不断光院に阿弥陀如来像と位牌を建立するよう命じ、三原諸右衛門・細工奉行森喜右衛門を通じて京都七条の大仏師康厳法印に彫刻させ、慶長十三年四月九日に家久自筆の証書を像内へ納めた記事。
年月日未詳 / 冊子 727~728頁
家久の病気見舞いと島原一揆鎮圧への協力のため、江戸にいた光久が帰国を命じられた経緯を記す。光久は有馬で松平信綱に幕命を伝えたが、父家久の重病を理由に帰国を勧められ、二月十六日夜に鹿児島へ到着した。
(慶長十六年)正月十一日 / 冊子 310頁
慶長十六年正月十一日、中山王尚寧が島津家久に、長い薩摩滞在中の厚遇と帰国後の安堵を感謝した書状。楮紙三百帖と茶壺一箇を拝受したことを喜び、島津家への謝意を重ねて述べる。
(元和三年)三月廿六日 / 冊子 641頁
中山王が島津家久家の繁栄を祝い、遠路のため祝儀が遅れたことを詫び、佐敷王子の上国に際して琉球の政務指導を願い、別紙記載の祝物を贈った書状。
年月日未詳 / 冊子 155~157頁/原整理番号 43-1
御関狩・御馬追に関する諸調書の書抜。天正四年の近衛前久滞在時に春山の御関狩が行われた記録を挙げ、関狩が出陣、馬追が帰陣の儀式だという古老の伝承を検討する。膳・三献などの作法と照らして単純には認められないとし、吉野の御牧と馬追の開始年代も旧記の記載を比較して確定を避ける。
年月日未詳 / 冊子 312~313頁/原整理番号 14
島津運久が日新を養子に迎えたことから説き起こす一族の由緒。後に生まれた実子とその子孫の家督・奉公の経緯、所領を離れて諸国を転々とし、播磨国に移った家系を述べる。
年月日未詳 / 冊子 325~326頁/原整理番号 38
種子島左近から家久に進上した「種子茄子」の茶入についての記録。名物茶入の伝来を、秀吉・信長の所持品や大坂落城・本能寺焼失の伝承と比べ、関係する家の由緒を付記する。
寛永六年二月七日 / 冊子 82頁
島津家久が、日向国大慈寺の住職職について先例どおり執務するよう命じた判物。阿久根蓮華寺文書として伝わる。
寛永六年四月八日 / 冊子 93頁
島津家久が玄碩西堂に、大隅国正興寺の住持職を先例どおり執務するよう命じた公帖。
寛永六年四月廿二日 / 冊子 94頁
島津家久が玄碩西堂に、建長寺の住持職を先例どおり執務するよう命じた公帖。
年月日未詳 / 冊子 823頁
原資料には「家久公御譜中」という出典表示のみがあり、対応する記事本文は記載されていない。 本文の脱落、または編纂上の空白である可能性があるため、内容を推測せず出典情報だけを記録する。
文禄4年5月7日 / 冊子 879頁
標題と所収情報のみが掲げられ、この箇所には書状本文が収録されていない。 宛先・用件は確定できないため、同じ箱・家久公御譜中の関連史料との照合を要する。
(慶長七年)八月十日 / 冊子 835頁
島津龍伯が島津忠恒(又八郎)へ、出立の際に贈るつもりで細工屋へ仕立てを命じた長刀が遅れて完成したため、改めて一腰を贈ると伝えた書状。原典には「家久公御譜中」とある。
(慶長十年)十一月十一日 / 冊子 37頁
本文は『御文庫二番箱家久公十三巻中』『家久公御譜中ニ在リ』との所在・参照注記だけで、犬の所望や鷹の所持に関する本文記述はない。
(寛永十四年)十一月十七日 / 冊子 693~694頁
「覚」として『家久公御譜中』に収められた島原・天草の戦況記事。島原城から一里ほどの米蔵へ侍十二人・鉄砲二百挺を遣わしたところ、千本村の一揆勢に襲われ、鉄砲頭の高橋弥次右衛門・入江与右衛門・高畠次郎太夫とほか四、五人が討死し、城へ退いたこと、城近辺の村々も焼かれたことを記す。唐津勢は十一月十日に天草本戸へ着き、先手四、五百人が島子村で約三千人の一揆勢に攻められて本戸へ退却、本戸の在家を焼かれ、三宅藤兵衛のいる富岡へ移ったという。これらは天草からの未確定情報であり、上使の下向・隣国加勢の続報はなく、御横目衆が高瀬へ来たとも記す。本文日付は寛永十四年十一月十七日。差出人・宛所のない覚書・譜記事で、索引の「文書・某書状」と形式が相違する。
延久2年1月10日、永保元年8月7日、天文23年9月27日、慶長18年、元和6年、寛永9年、万治2年12月6日、元禄6年ほか / 冊子 290~293頁/原整理番号 113
三原氏の系譜を、藤原鎌足・不比等・房前以下の藤原北家から、道隆・隆家・経輔・政則を経て菊池則隆へつなぎ、菊池氏から分かれた経隆・経俊・経重以下の諸流として示す。経俊は筑後国三原城に居して三原を氏とし、経重は源頼朝から鞍馬と長光の御剣を賜ったのち筑後国三原城へ移住したと記す。後代には伊作・高城・曾於郡・大口・川辺・伊集院・加世田などの地頭歴、日新公・貴久公・義久公への歴仕、加判役・家久公家老への就任、国分移住後の三百石から元和六年四百五十石・寛永九年五百七十六石への石高推移を載せる。重次(一名重尚、平田左房介宗茂の二男)は天文二十三年九月二十七日に岩剣城で戦死し、重宗は朝鮮で病没、重種は朝鮮出陣・大坂役を経て神祖に謁し家久公の家老となったとする。婚姻・養子・法名・没年のほか、慶長十八年の知行高、万治二年の御勘定奉行記事、元禄六年生まれの重次までを収める。
(天正20年)5月24日 / 冊子 563頁
島津忠恒が、出陣以来便りがないことを案じ、近日中に引陣するとの情報が確かなら、武庫様父子の動静を直ちに知らせてほしいと抽斎へ求める。 帰陣をめぐる不確かな情報のなかで、父子の安否と軍の動向を急いで確認しようとする短い陣中書状である。
(慶長六年)十一月廿六日 / 冊子 788頁
山口直友の書状。本文はNo.2578文書と同文であるため原本掲載では省略され、同文書を参照する旨のみが注記される。
(慶長七年)正月十五日 / 冊子 804頁
山口直友書状の正文が存在することを示すが、本文は後掲No.2600文書と同文であるため省略されている。
(慶長七年)五月一日 / 冊子 816頁
山口直友書状の正文が存在することを示すが、本文は別掲文書と同文であるため省略されている。
年月日未詳 / 冊子 100頁
犬追物の式日に北郷次郎忠能が進退の礼を時宜にかなって行い、佳例を整えたため、島津家久がその志を深く感じて賞したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 834頁
由緒書にいう市正殿を、家久公の御子忠廣で後に萬山殿と称した人物と比定する伊地知季安の考証。
慶長三年十月朔日 / 冊子 250~252頁
『家久公御譜』が、慶長三年十月朔日の新寨決戦を島津忠恒(家久)の働きを中心に記す記事。忠恒は明軍を城壁近くまで引きつけて鉄炮を撃たせ、白狐・赤狐の出現を稲荷明神の加護と受け止めて出撃した。自ら敵中へ進み、肩に千戈の傷を負いながら首級を得た後、義弘の援兵と合流して明軍を晋州川方面へ追撃する。戦後は父子の首実検と勝利の儀礼、十月二日の敵首集計を記す。
(慶長十一年)六月廿四日 / 冊子 79頁
島津家久の書状として掲げられた項目だが、本文は収録されず、「家久公御譜中」と正文が東郷八左衛門方にある旨の所在注記のみを記す。
(寛永四年)十二月廿七日 / 冊子 50頁
本文には「家久公御譜中ニ在リ」との所在注記だけが掲げられ、インデックス標題の袖加判条書に相当する本文はこの箇所では確認できない。
(寛永十三年)正月五日 / 冊子 522頁
現ページには「家久公御譜中」「正文在島津市之助忠紀」とあるのみで、書状本文・宛所・署名は掲出されていないため、内容を確定できない島津家久書状。
(寛永十五年)正月十三日 / 冊子 730頁
薩摩勢が有馬表へ向かうとの注進が上聞に達したため、手前の軍勢の事情により薩摩守に暇を与える旨を伝えた連署奉書。No.1177と同内容で、家久公譜中に再録されたものとみられる。