殉国名藪
年月日未詳 / 冊子 190頁
北郷讃岐守忠能が二月五日に死去した後、家臣の土屋七左衛門宗武が同月十七日に後を追って殉死し、紀藤丹波守光繁も同様であったことを記す。
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年月日未詳 / 冊子 190頁
北郷讃岐守忠能が二月五日に死去した後、家臣の土屋七左衛門宗武が同月十七日に後を追って殉死し、紀藤丹波守光繁も同様であったことを記す。
享保二十年十一月二十八日~二十九日 / 冊子 322頁/整理ID 774
近衛家久の娘森姫と徳川宗武の婚姻に際し、継豊・吉貴らが使者を派遣し進物を贈った経過を記す。
元禄十四年三月二十一日 / 冊子 284–285頁/整理ID 951
伊東祐秋・川崎祐昌・山田宗武が嶋津助之丞・喜入安房・種子嶋蔵人・肝付主殿へ、国絵図用務で先に派遣した松浦助右衛門への馳走と人馬の手配に重ねて謝した連署書状。再び絵図相談のため松浦と木脇小三郎を派遣するので、相手方絵図役人に遠慮なく指導するよう頼む。
元禄十四年三月二十一日 / 冊子 285頁/整理ID 952
伊東祐秋・川崎祐昌・山田宗武が嶋津主計へ、国絵図本図の調製を労い、先に派遣した松浦助右衛門への懇切な指示に謝した連署書状。再び絵図相談のため松浦と木脇小三郎を派遣するので、遠慮なく指導するよう頼む。
元禄十四年五月十七日 / 冊子 302–303頁/整理ID 997
伊東祐秋・川崎祐昌・山田宗武が嶋津主計へ、先の絵図担当者派遣時の指図に謝す。提出した大和守領分図の松永村・南方村・福嶋村は代官側との協議が整わず、除外する張紙を置いていたが、その後山木與惣左衛門の手代と絵図写しを照合し、村高等の書入れに相違はなかったとする。手代側が相手方へ断り、当方絵図への書入れを相談したい由なので、適切に相談し、判断を飛札で知らせてほしいと依頼する。
元禄十五年十一月二十七日 / 冊子 395–396頁/整理ID 1336
伊東祐秋・山田宗武・松岡信伴が連署して島津大蔵ら四名へ、領内絵図の控を当地で渡すとの通知を了承し、十二月九日か十日頃に受取人を派遣すると答えた書状。川崎大膳は江戸へ赴いていたため加判しなかったと付記する。
元禄十五年十二月七日 / 冊子 397–398頁/整理ID 1342
伊東祐秋・松岡信伴・山田宗武が島津久明ら四名へ、領内絵図控を十二月九日か十日頃に渡すとの通知に応じ、受取人の松浦助右衛門を派遣したと回答した。絵図方役人から松浦へ引き渡すよう頼み、委細は本人の口上に託す。
享保二十年十二月十九日 / 冊子 346頁/整理ID 814
徳川右衛門督宗武の婚姻が無事に済んだため、祝儀の鯛一折を献上した件を披露する。
享保二十年十二月十九日 / 冊子 346頁/整理ID 815
徳川右衛門督宗武の婚姻が無事に済んだため、祝儀の鯛一折を献上した件を披露する。
享保二十年十二月十九日 / 冊子 346頁/整理ID 816
徳川右衛門督宗武の婚姻が無事に済んだため、祝儀の鯛一折を献上した件を披露する。
享保二十年十二月十九日 / 冊子 346頁/整理ID 817
徳川右衛門督宗武の婚姻が無事に済んだため、祝儀の鯛一折を献上した件を披露する。
享保二十年十二月頃 / 冊子 347頁/整理ID 818
徳川宗武の婚礼が万事滞りなく済んだことを喜び、長年の奥向取次に礼を述べる。
享保二十年十二月頃 / 冊子 347頁/整理ID 819
徳川宗武の婚礼が無事に済み祝意が披露されたことを喜び、奥向取次への謝意を述べる。
享保二十一年二月二十六日 / 冊子 357頁/整理ID 854
将軍・大納言の機嫌を祝い、徳川右衛門督宗武の婚姻が無事に済んだことへの祝意を受け取った旨を返答する。
享保二十一年二月二十六日 / 冊子 357頁/整理ID 855
将軍・大納言の機嫌を祝い、徳川右衛門督宗武の婚姻が無事に済んだことへの祝意を受け取った旨を返答する。
享保二十一年二月二十六日 / 冊子 357頁/整理ID 856
将軍・大納言の機嫌を祝い、徳川右衛門督宗武の婚姻が無事に済んだことへの祝意を受け取った旨を返答する。
享保二十一年二月二十六日 / 冊子 357頁/整理ID 857
将軍・大納言の機嫌を祝い、徳川右衛門督宗武の婚姻が無事に済んだことへの祝意を受け取った旨を返答する。
元文二年五月二十二日 / 冊子 439頁/整理ID 1041
徳川宗武の嗣君竹千代誕生を祝い、島津吉貴が使者を遣わして白銀・衣服・産衣などを贈ったことを記す。
元文二年五月二十二日 / 冊子 440頁/整理ID 1044
徳川宗武の嗣君竹千代誕生を祝い、島津継豊が使者を遣わして白銀・巻物・太刀・産衣などを贈ったことを記す。
元文二年六月二十五日~二十六日 / 冊子 444~445頁/整理ID 1060
越前家再興後の忠紀が江戸城で将軍への献上と拝領、竹姫・徳川宗武方への祝賀・贈答を行った経緯を記す。
延享四年五月十一日 / 冊子 3~4頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0009
本多正珍が松平上総介に対し、三御所の機嫌がよいとの報せを喜び、三月十二日の竹姫入輿時に菊姫への懇意、三御所への拝領物、徳川宗武・万次郎への遺物、さらに松平上総介の拝領物があったことを伝えた書状。拝領品の具体は別紙に列挙したとする。
延享四年五月十二日 / 冊子 4頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0010
西尾忠尚が松平上総介に対し、三御所の機嫌がよいとの報せを喜び、三月十二日の竹姫入輿時に菊姫への懇意、三御所への拝領物、徳川宗武・万次郎への遺物、さらに松平上総介の拝領物があったことを伝えた書状。拝領品の具体は別紙に列挙したとする。
明和八年六月二十五日 / 冊子 291頁/原整理番号 769/整理ID 769
御札を披見し、田安中納言殿(徳川宗武)の逝去を聞いて言葉もないとの意向を理解したと述べ、それに伴う公方の安否の伺いには、変わったことはないので安心するよう伝える。紙面の趣旨を各々申し談じて上聞したと知らせる。六月二十五日付、年は明和八年の朱注、松平周防守康福の判と松平薩摩守殿宛を備える。正文は文庫にある。
元禄十五年十二月十六日 / 冊子 403–404頁/整理ID 1362
伊東祐秋ら四名が島津久明ら四名へ、松浦助右衛門の来訪と、大和守領分の絵図・郷帳などの控を鹿児島の絵図役人から引き渡されたことを報告した連署書状。念入りな取扱いへの謝意を示し、江戸の大和守方へ伝えるとする。
享保二十一年正月頃 / 冊子 358~359頁/整理ID 860
徳川右衛門督の婚礼祝儀と竹姫への贈物が進められ、奥向で礼を披露した旨を返答する。
享保十四年十二月十五日 / 冊子 28~30頁/整理ID 13
吉宗が島津継豊の婚儀を祝し、上使を通じて銀・縮緬・綿・美酒・鯛などを贈り、継豊側も太刀・馬代・巻物などで謝礼した記事。忠利・忠就・久實らが黒書院で拝謁し、家重・宗武らにも進物を献じ、婚儀後の祝賀と返礼の全体像を記す。
年月日未詳 / 冊子 40頁/原整理番号 133/整理ID 133
中山王の信使読谷山が儀礼を終え、尾張宗睦・紀伊宗将・水戸宗翰・徳川宗武・宗尹・重好、台老、京都所司代、大坂城代、若年寄以下の諸官から、それぞれ謝礼への贈物を受けた。十二月十一日に琉使が江府を発ち、川田伊織国福・島津登久運・関山新左衛門金郷・本田六左衛門親相を護送に付けた。東海道・美濃路を通り、閏十二月四日に大坂へ到着、九日に大坂を発って舟で西海へ向かった。翌年正月廿八日に薩州久見崎港へ入港し、二月四日に薩府へ着いた。その後、琉人は順風を待ち、舟で南帰した。琉球への到着日は記さない。目録は記事、出典は全御譜中。
明応7年~宝暦年間(系中) / 冊子 518~528頁/原整理番号 27-4
大隅国郡智尾権現の社家・丸氏について、明応7年の智尾権現上棟文に見える建部弟子丸宗弘(治部左衛門尉)を起点とし、宗元・源次・宗益・宗辰・宗重・宗武・弘之・弘中・弘充・宗方・宗時・宗意・宗茂・宗信・宗祐・宗門・宗安・盈隆らへ続く系譜。備前守らが島津忠隆・貴久期の志布志城・蒲生城などの戦いで討死したこと、宗益が日向福島警衛、河辺野間名三百斛など合計六百斛余の領知と地頭職を得たこと、宗辰が朝鮮出兵で軍功を挙げたことを記す。宗重以後は綱久・綱貴らへの奉公、京都御蔵奉行、琉球在番、江戸供奉・茶屋勤、智尾権現社殿の修造、各村の地頭職・御目付役・小姓役などを詳細に列挙する。宝暦年間には琉球在番からの帰帆が暴風で損傷しながら帰着して賞された記事があり、別系には肥前島原の一揆時の動員、日向国真幸院吉田地頭職六百斛、家久看病、朝鮮軍功感状などが見える。鹿児島の大火で宗茂宅と家伝・武具が焼失した際、宗茂が官庫へ納めていた模写を根拠に証判・感状を再下付された経緯も記す。各人の生没年・年齢・法名、母・妻の出自、女子の婚姻、養子、分家、無嗣断絶を併記し、盈隆と養子・後裔までを収める。
享保二十一年正月頃 / 冊子 358頁/整理ID 859
御簾中の婚礼が無事に済んだことを祝い、長久を祈り、奥向で祝意を披露した旨を伝える。
享保二十一年正月頃 / 冊子 359頁/整理ID 861
御簾中の婚礼が無事に済んだことを祝い、祝意と礼を奥向で披露した旨を返答する。
享保二十一年正月頃 / 冊子 359~360頁/整理ID 862
御簾中の婚礼が無事に済み、祝儀目録が披露されたことを喜び、今後も奥向への取次を願う。
享保二十一年正月頃 / 冊子 360頁/整理ID 863
婚礼祝儀への謝意を述べ、奥向での披露と今後の変わらぬ取次を願う。
享保二十一年正月頃 / 冊子 360頁/整理ID 864
正月十七日付書状を受け、婚礼が無事に済んだことを祝い、祝儀・目録を奥向で披露した旨を返答する。
安永五年丙申七月十九日・二十一日・二十七日の経過 / 冊子 464~465~466頁/原整理番号 1275の8/整理ID 1275-8
安永五年丙申、太守が在府している七月十九日、登城して白書院で縁組の御書付を受けた。老中が列座し、板倉佐渡守から直に渡され、浄岸院が在世中に世話した、薩摩守の娘と豊千代の縁組について、その心得で取り扱うよう命じる内容で、宛所は松平薩摩守。御用番松平右京太夫は不快のため板倉が代わり、引進の目付は山川下総守とする。西丸へ登城して大広間で奏者番秋元摂津守に礼を述べ、老中方へ回勤した。於篤の名を公方から一橋を通じて拝領し、一橋からは壽賀宮の持つ品である緋襷・日傘を於篤へ進めた。帰館後、新庄が芝の屋敷へ来て、名の目録と緋襷・日傘の目録を渡し、於篤を即日より茂姫と称する旨を付す。続いて名の順として太守・茂姫・虎寿丸を掲げる。七月二十一日、茂姫の名拝領につき、内証から女使をもって公方・大納言・種姫へ太守の礼を述べた。七月二十七日は十九日の縁組仰出・名拝領の礼の贈答を記す。太守から比志嶋要人を使者とし、本丸檜間で秋元へ目録を差し上げ、御用番松平右京太夫へ口上を直に述べ、公方へ二種一荷を献じた。同件で茂姫からは市田喜内を使者として公方へ鯛一折を献じた。太守から比志嶋要人を使者として大納言へ一種一荷を献じ、茂姫から市田を使者として大納言へ鯛一折を献じた。太守から嶋津登を使者として西丸檜間で米倉丹後守へ目録を差し上げ、御用番阿部豊後守へ口上を述べ、大納言へ干鯛一箱を献じた。同件で茂姫から長野筑右衛門を使者として御献上を行ったとし、使者勤方も同断と記す。別項として名拝領の礼では、太守から嶋津登を使者として大納言へ鯛一折を献じ、茂姫から長野を使者とする御献上も同断と記す。さらに種姫の部屋へ太守と茂姫から肴一折ずつを献じ、礼を述べた。さらに、この日の内証から女使をもって公方・大納言へ太守の礼を述べ、種姫の部屋へは太守・茂姫からの献上に伴う礼を述べたと記す。末尾は、この縁組一巻を後年の記録に照合できるよう記しておき、江戸で直に仰せ付けられたため、家老座の帳から大綱を書き抜き、家老座の帳面には始末を詳しく記したので、国元の記録方へ送るよう山本傳蔵に命じ、送った帳によるとする。
至徳元年11月26日~慶安元年9月28日(犬追物記録)/後続系譜は元文4年まで / 冊子 469~479頁/原整理番号 15-1
島津氏久・忠国・立久・忠昌ら歴代当主の時代から、至徳元年十一月二十六日以降に行われた犬追物について、実施日、飫肥・福島・志布志・鹿屋・江戸王子などの会場、平田氏と伊地知・島津・北郷・本田・種子島氏らの手組を年代順に列挙し、慶安元年九月二十八日までを記録する。平田家が本名字『小松』を称さなかった事情、丸内二つ引を陰陽に見立てた陣幕紋として太郎左衛門代まで用いた由緒も付す。後半は平田氏諸流の系譜で、渋谷勢退治・平松岩剣・新納山城・高麗陣などでの戦死・戦功、知行・地頭職、婚姻・養子、没年・法名を記し、御記録所の照会に応じて旧記・系図・聞書を突き合わせた系図改訂記事を経て元文四年まで続く。
天文六年八月七日~慶長十七年四月二十六日(系譜中主要記事) / 冊子 483~487頁/原整理番号 20
桓武天皇―葛原親王―高望王から貞盛・維衡・正度・忠盛・清盛を経て、小松内大臣重盛の後裔を平田氏諸流へつなぐ庶流系図。平田安房助悦山を加世田龍徳院に葬ったこと、谷山吉幸城主・平田民部少輔宗秀が隅州平松の岩剣合戦で戦死したことを記し、宗貞・宗祐・宗位・宗如らの官途・没年・法名へ続く。宗清は天文六年八月七日に阿多宮崎本地河原で戦死し、宗張は天正十五年三月十五日に豊後坂梨で戦死、平田新七光宗は実父を宗秀とし、慶長十年十二月二十六日に七十七歳で没した。さらに妙谷寺・福昌寺住持となった宗徳、増宗まで続く家老役、宗次の野尻での被討、行宗の筑前航海中の船破損に際する切腹、宗親・宗朋・宗房らの没年と葬地を載せる。村田雅楽頭経宣の三男・宗敏は子のない宗房の猶子となり、九歳で義久の近習、十三歳で家久の幕下に奉仕し、十四歳の慶長四年には伊集院源次郎の庄内一揆に従軍したところまで記す。
元禄十四年三月二十八日 / 冊子 286頁/整理ID 956
喜入久亮・種子島久時・肝付久兼が伊東権左衛門・川崎大膳・山田次郎左衛門へ、絵図相談のため松浦助右衛門・木脇小三郎を派遣し、当方役人と遠慮なく相談させるとの通知を了承する。先の松浦派遣時には十分な馳走ができなかったという謙辞を述べ、謝礼を受けたことに恐縮する。嶋津助之丞はその場にいないため連署できないと付記する。
〈宝暦三年〉十一月十一日付来信への返書(返書日不記) / 冊子 426~427頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1320
松しま・岩はし・うら尾・たきつ・さえたの五名が薩摩守方人々御中へ返答する。十一月十一日付来信を受け、公方・大納言の安否への祝意と、先月十五日の竹姫大奥登城に際する菊姫方への厚遇に対する謝意を承知したと述べる。公方・大納言・姫宮からの拝領物、右衛門督・刑部卿・萬次郎からの遣物、家来への料理と拝領物、女中の御目見、春井・山野を通じた送別、さらに大納言から家来女中への拝領を列記する。右衛門督には田安宗武、刑部卿には一橋宗尹、萬次郎には清水重好の補注がある。返書日は記さない。十一月十一日は来信日である。
〈宝暦四年〉二月十一日 / 冊子 460頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1396
堀田相模守正亮が宝暦四年二月十一日、松平大隅守継豊へ返答する。小次郎殿の逝去を継豊が聞き、言葉に尽くせない思いを寄せた書状の趣旨を承知する。行間注は小次郎を徳川宗武の長子と記す。機嫌を伺う旨に対し、被為替御儀無之の文言をもって心を安んじるよう伝え、書面の趣旨は各々申し談じたうえで上聞したと知らせる。継豊公御譜中・正文在文庫の注を持つ。登城予定、献上品、使者は記さない。同日・同件のNo.1397は秋元が言上した旨を伝える返書である。