北郷時久日記(自天正二年正月至十二月)
天正二年正月~十二月 / 冊子 327~328頁
天正二年の軍事日程を記し、正月三日の茶園尾着陣、十九日の伊東・肝付勢による禰寝攻撃、二十日の牛根城開城、廻・市成両城の接収、伊地知氏の帰順、八月の宝繁寺を介した肝付氏との矢留め、十二月の平松陣撤収と役人交名を載せる。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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天正二年正月~十二月 / 冊子 327~328頁
天正二年の軍事日程を記し、正月三日の茶園尾着陣、十九日の伊東・肝付勢による禰寝攻撃、二十日の牛根城開城、廻・市成両城の接収、伊地知氏の帰順、八月の宝繁寺を介した肝付氏との矢留め、十二月の平松陣撤収と役人交名を載せる。
天正二年十月十七日条ほか / 冊子 265~266頁/原整理番号 24の14
『上井覚兼日記』天正二年十月十七日条から、高江・川辺間の地頭移動案と有田氏の所領事情を抄出する。猿渡越中の出生・父猿渡藤三郎の戦死、加世田の村給付と地頭就任を関連記録で照合し、越中が加世田に居住した由緒を考証する。
天正元年三月八日~天正二年十二月 / 冊子 303頁
天正元年三月八日、島津義久が大軍を率いて肝付氏攻撃へ向かうと、北郷時久も平松に陣を構えた。時久は翌天正二年十二月まで同地に在陣したと記す。
天正二年 / 冊子 324~326頁
天正二年の島津氏の動向を編年で記す。牛根城救援軍を茶園尾で退けて安楽備前守を降し、禰寝方面の伊東・肝付軍を撃退したほか、足利義昭からの援助要請、入来院重豊の献地、江月斎来訪、北郷時久への盟書、義虎・天草氏との交渉、菱刈氏の処分、肝付兼亮・伊地知重興の帰順などを載せる。
天正二年令月吉日 / 冊子 327頁
藤原忠元が武運長久と子孫繁栄を祈って大口の愛宕軍神を建立・勧請した棟札で、天正二年令月吉日の年紀を持つ。
天正二年正月十九日 / 冊子 327頁
天正二年正月十九日の禰寝方面の合戦で戦死した喜入季久の弟忠通・久績と、季久配下の武士らを列挙する。地下・足軽を含めて十五人が戦死したとする。
天正二年正月三日 / 冊子 329~330頁
天正二年正月三日、肝付兼続の軍勢が高隈山を越えて牛根城前の茶園尾に陣取ろうとしたため、島津忠長が疲労した敵を討つ好機として軍中を励まし、自ら後詰めを約した。川上久信も同様に指揮し、島津勢が敵軍を敗走させ茶園尾を占領した。
天正二年正月~二月二日 / 冊子 331頁
天正二年正月、肝付氏への加勢として日向勢が出発してから帰還するまでの日程を列挙する。飫肥・櫛間・志布志・内城を経て禰寝へ進撃し、村々を焼き、禰寝勢を破って塩入城を攻め落としたのち、高城へ進み、二月二日に飫肥へ戻ったと記す。
天正二年正月三日~十九日 / 冊子 331頁
天正二年正月に霧島山の神火が天地を動かしたこと、正月三日に茶園ヶ平へ着陣したこと、同十九日に牛根城が島津方へ渡されたことを簡潔に記す。
天正二年二月廿五日 / 冊子 336頁
下大隅の戦が終息した天正二年二月二十五日、伊地知重昌が鹿児島へ参上した経緯を記す。垂水の辺りまで老臣らの出迎えを受け、船元では川上意釣に迎えられ、その夜義久に謁見して縫殿助の名を与えられ、伊地知家が繁昌したとする。
天正二年四月一日 / 冊子 338頁
島津義久が坊津の宮一丸船頭渡遣三郎五郎に発給した琉球渡海の朱印状で、天正二年四月一日の年紀を持つ。
天正二年四月十四日~八月廿七日 / 冊子 339頁
天正二年八月二十七日、上使江月斎が義久の私宅を訪れ、同年四月十四日付の足利義昭御内書を披露したことを記す。
天正二年七月廿日 / 冊子 342頁
天正二年七月二十日に催された『賦何船連歌』の連衆交名で、義久をはじめ僧俗の参加者と役・句数を列挙する。発句『ふく風やこ与ろの秋のま莱右』を掲げる。
天正二年九月六日 / 冊子 343頁
天正二年九月六日、島津義久が上使江月斎を私宅へ招き、堂上の礼を尽くして饗応し、酉刻から戌刻まで宴を催したことを記す。
天正二年八月~十二月 / 冊子 349~350頁
上井覚兼日記の天正二年八月から十二月までの各月の範囲と花押を示し、覚兼が当時三十歳であったことを注記する。覚兼は天文十四年生まれ、天正四年から家老役、天正十七年に伊集院で四十五歳で没し妙円寺に葬られたこと、日記は天正二年八月から天正十四年十月まで十四冊あることを記す。
天正二年八月~十二月 / 冊子 350~391頁
天正二年八月から十二月までの上井覚兼の日記。年始太刀献上の席次問題、入来院重豊の所領献上・所替えと血判、肝付・庄内の和平交渉、菱刈氏への譴責、江月斎の饗応、伊地知氏の移住・所領願、琉球・天草・志岐・義虎との外交、犬追物稽古、寺社争論と所領配当、福昌寺での犯人斬殺と代賢和尚慰留など、政務・軍事・儀礼・寺社・日常を日次で詳述する。
天正二年〔異本三年〕三月十七日 / 冊子 144~145頁/原整理番号 79
天正二年三月十七日の犬追物手組。年号には「三年」の異文が付く。島津兵庫頭十二疋、島津下総守十疋、本田紀伊守七疋などの配当を記し、検見を義久、喚次を本田信濃守とする。
年月日未詳 / 冊子 387~389頁/原整理番号 110
比良床への出陣と牛根城攻略を述べる自記。天正二年正月三日の攻撃では諸将が競って先陣を務め、軍勢を出した。義久が牛根を詠んだ戯歌を城へ射込む一方、大口の住民二人が夜に岸を掘り崩して城内を攻めた。軍神へ誓った新納武蔵守が下城を取り、諸城の地頭を置いた。浄光明寺の僧を介して肝付方へ和睦を勧め、諸所を与えて赦免すると、敵は兵船で退去した。重興らへの所領付与と、忠節を尽くした者への恩賞も記す。
年月日未詳 / 冊子 390頁/原整理番号 114
忠元が使衆として麑府にいた天正二年八月の記事。鹿籠と川辺の争論が収まらなかったため、十四日に上井覚兼らを遣わし、忠元と鎌田尾州のもとで裁決させたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 393頁/原整理番号 116
忠元が天正二年に大口里村へ十體愛岩の軍神を創建したことを記す棟札。神祇の名を配した図と、十累頭領・十職の第一である軍神の神力を述べる文を掲げ、義久の武運長久を祈る。六月吉日の銘を持ち、貴明公の康寧を述べる前書と、六月二十四日を例祭とする注記がある。
年月日未詳 / 冊子 393~394頁/原整理番号 118
大口麓の愛宕について、天正二年に地頭忠元が建立したと伝える由緒帳の抄録。私家代として名寄高に加えた四石分の務米を祭米に用い、毎年六月二十四日に茶を立ててきたという。検地などの際にも妨げられなかったとし、宝殿・石櫃籠所の寸法と村中の修理、愛宕山勝軍院薬師寺の山号寺号を記す。萬延元年二月に別当が御郷士年寄衆へ届けた内容で、他の条項は省略している。
天正二年六月十二日 / 冊子 340~341頁
河上経久が島津家一流の犬追物の秘説を残らず義久へ伝授したと誓い、失念は偽りと見なさないよう求める一方、違反した場合は梵天帝釈以下の諸神の罰を受けると記す起請文。
天正二年六月十三日 / 冊子 341頁
島津義久が河上経久から当家一流の射御秘説を余すところなく伝授されたことを神名にかけて承知し、今後も疎略にしないと返答する書状案。
天正二年九月十日 / 冊子 343頁
島津義久が北郷時久に対し、伊東氏との戦について一味して親密に協力し、島津方と北郷方の庄内・肝付をめぐって讒言があれば双方へ知らせて腹蔵なく説明すると誓う起請文。違反時には新田八幡・諏訪上下大明神などの神罰を受けるとする。
天正二年 / 冊子 326~327頁
天正二年正月、牛根城攻めで新納忠元が逆瀬川武安らに切岸を掘らせ、守将安楽兼寛を降伏させて互いに人質を交換し、二十二日に入城した経緯を記す。さらに親族関係を利用して其阿上人を使僧とし、伊地知重興・肝付兼亮の帰順と所領献上を仲介した功績、大口里村に十躰愛宕を建立したことを述べる。
天正二年・慶安五年 / 冊子 327頁
篠原普賢院の系譜と愛宕坊普賢院の由緒を記す。慶安五年に大口愛宕座主の開基として小院号を定めたこと、当時の大口地頭が新納忠清であったこと、天正二年に忠元が愛宕像を建立・勧請した旧事を載せる。
天正二年正月三日 / 冊子 328~329頁
天正元年十二月以来の平床対陣を承け、天正二年正月三日に肝付軍が高隈山を越えて牛根城前の茶園尾へ陣取ろうとした際、島津忠長と川上久信が軍を励まして撃退した。島津方は茶園尾を占領して牛根城に迫り、城方へ安楽備前守の名を詠み込んだ狂歌を矢で射送った。
天正二年正月十八日~廿七日 / 冊子 329頁
天正二年正月十八日から牛根城の切岸を昼夜掘り進め、城内まで道を通したため、守兵が降伏を請うた経緯を記す。十九日夜に停戦し、翌日人質を交換、二十二日に新納忠元が入城、二十七日に義久が早崎陣から帰還した。続いて伊東・肝付・伊地知勢の禰寝侵攻と喜入季久らの迎撃も記す。
天正二年正月三日 / 冊子 330頁
天正二年正月三日、肝付兼続の軍勢が高隈山を越えて茶園尾へ陣取ろうとしたが敗走し、島津勢が同地を占領したと記す。早崎城兵が安楽備前守の姓氏を題に狂歌を作り、矢に書いて敵陣へ送った逸話を載せる。底本欠損のため鹿児島県立図書館本で補われた記事である。
天正二年正月~二月 / 冊子 330~331頁
肝付賀州が日向へ赴いて伊東氏の援軍を求め、天正二年正月に伊東軍が肝付へ進出した経緯を記す。島津方の配置により牛根口へ進めず禰寝を攻撃し、塩入城を落としたが、その後帰国した。牛根城は島津方へ渡り、肝付氏が廻・市成両城を譲って和睦したこと、佐土原の新町造営も載せる。
天正二年正月三日以後 / 冊子 331~332頁
天正二年正月三日の茶園尾合戦から牛根城開城までを詳述する。島津軍の進撃に肝付勢が敗走し、義久が狂歌を矢に付けて城内へ送り、逆瀬川奉膳兵衛らが切岸を掘って降伏を促した。新納忠元の入城後、其阿上人を使僧として肝付・伊地知両氏の帰順と城地の献上・再配分が実現した経緯を記す。
天正二年正月三日~廿七日 / 冊子 333頁
天正二年正月三日の茶園ヶ尾合戦、牛根城切岸の掘削と開城、同十九日の禰寝方面の戦闘を詳述する。家久・忠長らの追撃、霧島山神火の瑞兆、喜入季久の奮戦と弟二人の戦死、人質交換、新納忠元の入城を記し、切岸を掘り抜いた三名の働きを高く評価する。
天正二年八月一日 / 冊子 342頁
天正二年八月一日、入来院重豊の使者村尾蔵人が祝詞と太刀を東郷氏に次いで献上しようとしたところ、島津家老衆が東郷・祁答院・入来院は同姓で序列に上下を付けるべきでなく、東郷氏の次は禰寝氏とすべきだとしたため、使者が承服せず帰った経緯を記す。
天正二年 / 冊子 343頁
天正二年、肝付氏が伊東氏と結び、伊東軍が下大隅へ侵入したため、島津義久・義弘が北郷時久へ盟書を与え、さらに島津家老らの連署誓紙も送ったことを記す。
天正二年九月廿八日 / 冊子 345頁
天正二年九月二十八日、天草氏の使僧来迎寺が太刀・厚板物・馬代を携えて来訪し、先代以来の隣好回復を求めた。義虎の使者伊勢守も滞在していたため、島津側は義虎と天草氏の和睦を提案したが、義虎方が天草領一所の割譲を条件とし、天草方が拒否して双方は帰国後に復命することとなった。
天正二年十月二日~五日 / 冊子 345~346頁
天正二年十月二日、大乗院法印に法華経一千部を百十人の僧と十日間で読誦させたことを記す。続いて五日、菱刈氏の使者へ、蒲生救援、横川城・三山城・馬越城をめぐる過去の背反や義弘暗殺未遂を列挙して責め、再度の叛逆なら滅亡は免れないとして居所を替えるよう求めた。
天正二年十一月廿日~閏十一月十九日 / 冊子 347頁
天正二年十一月二十日、義弘の旅館で重臣らに肝付氏への使者、下大隅の所替え、市成城の保持を評議させた。閏十一月十八日には上井為兼を江月斎の宿所へ遣わして滞在中の不行届を詫び、薩隅日三州の支配確認を求め、翌十九日には伊地知重興が南林寺を通じて下城から他所または鹿児島港への移住を願ったことを記す。
天正二年閏十一月十二日 / 冊子 347~348頁
米良重直が、野心があるとの風聞を面談で直接聞いたことに対し、伊東方に縁者・親類・老母を残しているため疑われるのはもっともだが、野心はないと諸神に誓う。本文年紀は天正二年閏十一月十二日と読める。
天正二年閏十一月廿二日 / 冊子 348頁
飯野剣大明神の十一面阿弥陀・薬師尊像を新造した際の裏書で、大檀那藤原朝臣忠平(島津義弘)夫妻の息災延命、子孫繁昌、院内安全、諸人快楽を祈る。本文年紀は天正二年閏十一月二十二日と読める。
天正二年十二月 / 冊子 348~349頁
天正二年十二月、志岐氏が肝付氏帰順の祝詞と進物を届け、義虎・天草氏の和平を仲介した。同行者が吉野で殺害され、犯人二人が福昌寺に逃げ込むと、捕縛の際に坂本吉右衛門が刺されて犯人を斬殺した。代賢和尚が寺の災厄を嘆いて退去したため義久らが慰留し、のち志岐氏へ和平方針を返答して馬・鉄砲を贈った経緯を記す。
天正二年正月中旬~廿日 / 冊子 392頁
天正二年正月中旬に肝付大勢が牛根へ来攻した際の従軍者と役割を記す。島津家久以下の守備・戦功者、牛根城攻めの先陣大将島津忠長、後陣の島津歳久、侍大将上原長門守、切岸を掘って降伏へ導いた逆瀬川喜兵衛尉・伴五左衛門らを列挙する。
天正二年九月十日 / 冊子 504~505頁
石清水八幡宮善法寺法印完清の命により、正執印紀景親を大口国正八幡宮の留守職に補任し、神事祭礼に専念するよう命じた執達状。確定版は天正四年だが、本文年紀は天正二年九月十日と読める。
天正二年十一月十一日 / 冊子 475頁/原整理番号 4
新田八幡宮の権執印・座主が、五箇条のうち第四条の写しを添えて言上する。忠久が十八歳で社参したとする記事と朝慶の就職から、天正二年まで三百五十四年になる沿革を述べる。後の鹿児島殿の代に両社家惣登が権執印・座主などを奪い、神官の役田を横領したとして訴える。末尾に良慶・宗盛の名がある。
永禄五年十二月十九日 / 冊子 119~120頁
島津良久が永禄五年十二月十九日に日向国広原で生まれ、母は伊東義祐家臣福永入道月甫の長女であったことを記す。天正二年、十三歳で広原八幡宮において元服し、又三郎良久と称した。
年月日未詳 / 冊子 214~215頁
島津忠栄の譜記事。天正二年に忠清の弟として生まれ、豊臣秀吉の西征時に人質となって細川幽斎に預けられ、小倉に滞在した。忠辰改易後は佐土原で島津豊久を頼り、その姉を妻としたが、関ヶ原後の家臣一揆を逃れて国府へ移り、龍伯公から母の領地を与えられた。高原・飯野・牛根などの地頭を務め、寛永十九年九月晦日に牛根で六十九歳で没した。
月 / 冊子 170頁/原整理番号 66
『上井伊勢守覚兼日記』天正二年九月の記事。春山の御狩に夜まで供奉し、その後帰ったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 219~220頁/原整理番号 155
『上井覚兼日記』天正二年の記事。九月一日、瀬崎野で馬追があり、捕えた駒を進上するとの報告を受けた。馬追と取駒をめぐる連絡のほか、関係者の使者・返答を記す。
年月日未詳 / 冊子 389~390頁/原整理番号 111
天正二年の牛根城攻略と肝付方の和睦を記す勲功記。安樂兼寛の守る牛根城を攻める際、忠元は逆瀬川らに岸を掘って道を通すよう指示し、幼い忠堯を城へ入れて兼寛の弟兼貫を人質として得た。十二日に城内へ入り四百三十余人を討ち、牛根領の獲得を忠元の功績とする。肝付方の当主らが没して勢力が弱まる中、忠元は兼純との親族関係や其阿上人を通じて和睦を勧め、二月に下城と五ヶ所を譲らせた。市成・廻・福山・恒吉の取得、先功の賞賛、愛岩建立と六月十四日の例祭も伝える。
年月日未詳 / 冊子 390頁/原整理番号 112
天正二年正月の牛根城降伏について玄佐が記す自記。二十日に忠元の子刑部太輔が人質として城内へ入り、安樂備前守の弟彦八郎が城外へ出た。二十二日に下大隅が譲渡され、二十七日に忠元が城内へ入ったとする。岸を掘って道を作る奇計は古今に例がないとして、本村・逆瀬川・久富伴の三人を調達した忠元の才覚を称える。末尾は太守の慈悲と神慮、諸人の奉公を述べる。
年月日未詳 / 冊子 390~393頁/原整理番号 115
天正二年八月以後の出仕・交渉・接待を記す日記の抄録。川辺で盗人孫左衛門をめぐって起きた鹿籠との争論を忠元・鎌田らと相談し、中書の内議を使者の忠元から聞く。隈城の四十町、山田三十町、天辰・田崎を交換する所領調整や、弓箭の談合、江月斎・和泉の使者への対応を続けて記す。頴娃や唐口の座席と接待、諸役と参加者、雑説をめぐる義虎や中書への報告も記録する。天草の使僧の太刀・厚板物・馬代などの進献、和泉・天草の和平交渉と所領の一部譲渡、使僧の返事についても述べる。