三月28日に御対面所で予定していた戦亡者招魂祭を延期する
明治2年三月26日知政所、28日予定の戦亡者招魂祭を延期 / 冊子 656頁/原整理番号 847の3/整理ID 847-3
明後28日に御対面所で戦亡者の招魂祭を命じた旨を既に伝えていたが、御前の逝去により延期することになったので、その旨を伝えるよう求める。明治二年己三月廿六日、知政所。従来の予定と延期を区別し、新たな実施日、戦亡者の人数や祭の実施完了は記されていない。
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明治2年三月26日知政所、28日予定の戦亡者招魂祭を延期 / 冊子 656頁/原整理番号 847の3/整理ID 847-3
明後28日に御対面所で戦亡者の招魂祭を命じた旨を既に伝えていたが、御前の逝去により延期することになったので、その旨を伝えるよう求める。明治二年己三月廿六日、知政所。従来の予定と延期を区別し、新たな実施日、戦亡者の人数や祭の実施完了は記されていない。
明治2年三月26日知政所(年は朱書) / 冊子 657頁/原整理番号 850の4/整理ID 851
明後28日に御対面所で戦亡者の招魂祭を行う旨を既に伝えていたが、御前の逝去に伴い延期することになったので伝えるよう求める。朱明治二年己三月廿六日、知政所。No.847の3と同趣旨の別原領域掲載を保持し、別の祭や別々の延期実績として合算しない。延期後の日程と具体戦亡者数は記されていない。
明治2年四月(日不記)知政所、招魂祭は来る25日 / 冊子 661頁/原整理番号 857の4/整理ID 857-4
延期していた戦亡者の招魂祭を来る25日に行うよう命じられたので、伝えるよう求める。朱明治二年己四月、知政所で発給日は記さない。No.847の3・850の4の延期通知と関連し、ここで新たな予定日が示される。発給日と予定25日を区別し、実祭礼完了や戦亡者数・具体会場は本条から補わない。
文化8年(朱年注。月日なし) / 冊子 369頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1152
全上・写正文在右筆所。松平修理大夫殿の実母が死去したことを御臺様が聞き、痛ましく感じ、悲傷のことであると思し召すので、その旨を心得て伝えるよう申し付けられたと知らせる。かしくと結び、文化8年朱注、まつ平榮翁様・人々御中宛。正文署名は花町・花その・梅その・花崎の四人。目録標題は花崎外二名なので人数差を留保し、本文の一署を削らない。御臺からの弔慰の伝達と、差出人四署・取次宛を分け、香奠等の贈品は本文にないため補わない。
朱明治元辰十月(日不記) / 冊子 610~611頁/原整理番号 784の3/整理ID 784-3
医学院教授その他の役名を設けることに伴う達。医道は人命を救う軽くない職務で、大信院公以来の取組みをさらに厚くして人民の養育に努めるとの趣旨を述べる。洋学医・漢医の両方から才能に応じて役を命じ、教授らの不在時は人柄を吟味して代役を選び、両道の長短を補って救済の志を失わないよう求める。本科と外科を区別せず学生を教導し、鍼科も軍事方の手伝を命じるとする。西洋医法では解体実験等を行い、土地の寒熱・気候・風土と病根を吟味するよう求め、特に急を要する外科について西洋医を取り立て、志ある者は当分洋学局で学ぶよう命じる。漢医も今後の外科は西洋法を学ぶよう告げ、医学院助教らへ伝達を求める。朱明治元辰十月、右衛門。教育・任用の方針として記す。
明治3年午12月札明局 / 冊子 779~780頁/原整理番号 996の2/整理ID 996-2
近来盗賊が盛んで、夜更けに人の寝静まる隙をうかがい、倉・店棚・箱を破る盗難が多い。倉・物置、塀垣、門戸の防備不足も被害につながるため、道路・市中の夜回りと捕縛の手続きを設け、職役・町内職等を配置する。盗難時は姓名・人相・持参武器等を届け、捜索と役筋への申出を徹底し、諸郷にも同様に知らせる。明治三年午十二月札明局。
年月日未詳 / 冊子 431~432頁
飯野士壱岐七右衛門家に伝来した写本をもとに、飯野衆中の諸士名を列挙した別系統の名書上。 冊子431~432頁にわたり、No.562と重なる家名を含みつつ人名の配列・収録範囲が異なる。飯野家臣団名簿の異本比較、同名人物の識別、系譜調査に利用できるが、細字のため個々の人名は要照合。
安永四年閏十二月二十七日(年は朱、原廿七日) / 冊子 483頁/原整理番号 1337/整理ID 1337
歳暮の祝儀として小袖一重が到来したことを喜び、詳しいことは田沼主殿頭が述べる旨を伝える。末尾は閏十二月二十七日、薩摩中将殿宛、年は朱に安永四年。円形内に家治公墨印との文字表示がある。家治からの御内書として、薩摩側の小袖奉献の到来に対する返答と、田沼による詳しい伝達を分ける。小袖一重の原単位を保ち、重豪が小袖を下賜されたことや、小袖一枚という別の数量表現へ読み替えない。円形と家治公墨印の表示を、実際の印影の字を判読した記載に改めない。田沼をこの御内書の署名人や宛所に取り替えない。
年月日未詳 / 冊子 760頁/原整理番号 807
元日夜、上使が薩摩には昔から忍びの名人がいると聞いたとして召寄せを求め、左衛門佐が山田民部少輔へ連絡した経緯を記す。出水から五、六人が来て城近くへ忍び入り紙を付けたが、他大名から薩摩の召寄せを控えるよう訴えが出た。自分たちの人数で一攻めするという話に上使が立腹して城と陣の間の柵を結わせ、薩摩衆が天草上津浦方面へ陣を取り、落城後に帰陣したと伝える。
宝亀年間、暦応4年7月27日・8月14日 / 冊子 319~320頁/原整理番号 121
市来氏を後漢霊帝の流れ・阿知王の苗裔とし、大蔵政房から維房・三郎太夫・家房へ続く祖系と、河原・川上・上下角・中村・来迎寺・田口・櫨村・川崎・山野田・南・厚地などの一族諸流を示す系図。大蔵政房は宝亀年間に薩州へ下向し、市来郡司として鍋ヶ城に居住したとする。家房に実子がなかったため国分友成の二男政宗を養子としたとの説には『非ナリ』と傍注する。時宗(法名道尊)の代には、暦応四年七月二十七日に守護道鑑が市来へ出陣して城を攻め、道尊が降伏し、同年八月十四日夜に又五郎家郷・川上又次郎ら親類五人が戦死した。氏家(法名観意隆家)は蹴鞠の名人で禁中と将軍家の鞠会に列したといい、後段には守護忠国が市来を攻めて御手に入れた記事を記す。
文書日付:建武二年八月十八日 / 冊子 324頁/原整理番号 四七三/整理ID TMP-P02-NENE4-D0473
祢寝九郎入道日念の子息八郎清通の訴えを受けた書下。 佐氣岩村田地で刈田狼藉があったとの申立てに関し、訴状の副具書を示す。 去年の牧五郎・田部上総房らから清通へ渡した経緯を記し、交名人らとともに近く対面して説明すべきと伝える。
文書日付:りやくおう五ねん九月二日 補記(正文と別層):暦応(小字) / 冊子 466~467頁/原整理番号 七二一/整理ID TMP-P03-IKEHATA-JOJO-D0721
ねんほうが、ねしめのいや二郎殿へ、さた村内のはま田七反・屋敷・やまのくらの薗を避り渡す。 本文は、まつしゆまろが今のいや二郎きよてるであり、永代の譲渡を受けた所領をねんほうが預かっていたと記す。 ねんほうには御公事を充分に沙汰できないことを理由として挙げる。 本文はいけはた殿をきよてるの親と記し、諸方の御公事勤仕と、きよてるへの永代相伝知行を求める。同名人物の外部比定は行わない。
文書本文の日付:□三年十二月 日 補記(正文と別層):元弘(刊本小字) / 冊子 488頁/原整理番号 七六六/整理ID TMP-P03-NENE-KAGODAI-KENMU-ASHIKAGA-D0766
祢寝九郎入道日念の申状は、伊佐敷又四郎親篤らによる刈田狼籍を訴える。 佐下和村の百姓作等一丁五段について、作毛と狼籍の経緯を述べる。 御徳政を号した多人数の押寄、家中からの追放、罪科・御沙汰を求める。 副進に「一通 交名人等注文」を掲げ、元弘三年十二月の日は欠字。