南山巡狩録巻九抜書・御旗考証
目録年月日記載なし / 冊子 131頁/原整理番号 4-8
「南山巡狩録巻九」の記載を引き、山名氏に伝わる錦の御旗の由緒を検討する。季安は神柱社・梅北家の伝承と照らして、御旗が伊勢から贈られたとの説や、梅北大宮司の職掌・居所に関する言い伝えを考証する。
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目録年月日記載なし / 冊子 131頁/原整理番号 4-8
「南山巡狩録巻九」の記載を引き、山名氏に伝わる錦の御旗の由緒を検討する。季安は神柱社・梅北家の伝承と照らして、御旗が伊勢から贈られたとの説や、梅北大宮司の職掌・居所に関する言い伝えを考証する。
永仁五年十月廿八日 / 冊子 383頁
薩摩郡串木野村内冠嶽南山の神領田畠・山野等を奉免し、権利を承認した大江景遠・沙弥道意らの連署奉書。
年月日未詳 / 冊子 708頁
千葉貞胤が鎮西将軍として九州へ下向し、肥前国を知行して余勢を率いたこと、のちに越前府へ帰陣したことを記す南山巡狩録の記事。
年月日未詳 / 冊子 82頁
南山巡狩録として、天授元年・永和元年八月二十六日に少弐冬資が肥後国で今川了俊と戦って討死し、二十九日に島津氏久が筑後守護となったこと、氏久が了俊に武家故実を尋ねたことを記す記事。
天授元年・永和元年八月 / 冊子 228頁/原整理番号 3
永和元年、島津越後守が錦の直垂と白旗の使用を今川了俊に尋ねた経緯を『南山巡狩録』から引く。先祖以来の軍旗の由来を確認するため、続く今川書状の前提を示す。
年月日未詳 / 冊子 274頁/原整理番号 65
『南山巡狩録』が、天授元年八月二十六日、肥後で少弐冬資が今川了俊と戦って討死したと記し、『花営三代記』の筑後守護任命記事を引く。続いて了俊が島津に武家の古実を尋ね、錦の直垂は先祖一代の許しなら子孫も用い、白旗はその陣で一流に限ると返答した逸話を載せる。伝存する今川の『大草紙』との関係は詳らかでないとする。
貞和五年八月八日 / 冊子 790頁
後掲No.2391と同文であるため本文を省略し、『南山巡狩録追加』所載であることだけを掲げた文書。
天保3年春(米寿祝賀作品群。作品に月日なし) / 冊子 901頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2534
源保興が薩州三位榮翁源老公こと島津重豪の八十八歳を祝って奉った漢詩。「奉壽」を掲げ、南山の佳気が庭へ続き、白鷺が和して九天へ飛ぶ景を詠む。老いを退けた千歳の寿を末永く結び、この場で群仙を引き連れる重豪を称える。七言四句で、署名は源保興拜、朱注は松平造酒正。朱印と落款の表示を伴い、上段の詩から下段の署名へ続く。天保三年の米寿祝賀作品群に属し、作品に具体的な月日はない。
天保3年春(米寿祝賀作品群。作品に月日なし) / 冊子 903頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2546
源里顕が榮翁こと島津重豪の八十八歳を祝って奉った漢詩。「奉壽」「榮翁君八十八」と掲げ、麒麟の足を思わせる瑞祥をもつ人々が高台へ集まり、南山の万寿の杯を共に唱える景を詠む。さらに九天で舞う仙鶴を挙げて、重豪の千秋の寿を祝う七言四句の作品。末尾は源里顕拜稿、朱注は柳沢信濃守で、朱印と落款の表示を伴う。正文所在は「全上」。天保三年の米寿祝賀作品群に属し、作品に具体的な月日はない。
万治二年十月十五日 / 冊子 27頁/原整理番号 31
加久藤行司の竹之内志丞・岩崎藤左衛門尉が、南山・北山の御狩倉を山ごとに書き上げ、合計九狩倉として山奉行所へ提出する。ほかに御狩倉はないと記す十月十五日付差出。
「応永二年」八月十六日 / 冊子 283頁/原整理番号 88-2
大友親世が鳴津殿へ、今川殿の上洛と博多滞留は実現しにくいとの報を受け、千葉方を介して肥前小城に集まり、少弐・菊池らと近く出陣する予定を知らせる。九州の大事は一人では果たせないので大内方にも書状を送ったが、返札はまだなく、落髪の報を聞いたと述べる。播磨守と奥州の陣が合戦したとの知らせにも触れ、指示を求める。後に『南山巡狩録』の大友・大内の働きかけと了俊召還に関する記事を添える。
慶長三年八月十八日 / 冊子 228頁
『島津義久譜』が、豊臣秀吉の病状が危急となり、徳川家康に天下の政務と幼い秀頼の補佐を委ねたことを記す記事。南山北嶺の高僧による祈祷や医師の薬餌・針灸も効かず、慶長三年八月十八日に没して東山に葬られ、天下が悲嘆するなか畿内の諸侯と島津義久(竜伯)も在洛していたとする。
年月日未詳 / 冊子 49~50頁/原整理番号 49の2
伊地知季安が永正頃の清水城の年中御式五十九ヶ条と役人の由緒を考証する。評議に加わる老臣や下向役人、愛甲から左近への旗役継承を、聖栄自記などの記録と比較し、永禄三年の書付の年代には考え難い点があるとする。さらに藤野家伝来の錦直垂・御旗に関する今川了俊書状について、肝付譜の水島説や南山巡狩録の記述を検討し、天授元年・永和元年八月二十九日の記事とあわせて掲げる。
年月日未詳 / 冊子 179頁/原整理番号 86
寛永二十一年の吉田・飯野での御狩の検者書上。吉田には薗田刑部左衛門尉と松岡長右衛門尉、飯野には奥神介と上野半兵衛を挙げる。飯野の御狩場は南山と記す。
寛永廿一年八月九日 / 冊子 192頁/原整理番号 114
万治二年十月十五日付、加久藤の行司による御狩倉の書上。南山に飯森山・黒ヶ山・大谷山など六か所、北山に黒原・飯田川地・山ヶ城の三か所、計九か所の狩倉を挙げる。このほかに御狩倉はないとし、山奉行所へ報告する。