島津義弘書状案
(文禄2年)5月27日 / 冊子 700頁
泉又太郎が軍役を果たさなかったため、本来は成敗すべきところ命を助け、知行を没収して小西行長に預けるという秀吉の朱印状を受け取ったと報告する。 島津義弘が処分命令を謹んで承知し、秀吉へ謝意を伝えてほしいと両使へ依頼した返書案。
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(文禄2年)5月27日 / 冊子 700頁
泉又太郎が軍役を果たさなかったため、本来は成敗すべきところ命を助け、知行を没収して小西行長に預けるという秀吉の朱印状を受け取ったと報告する。 島津義弘が処分命令を謹んで承知し、秀吉へ謝意を伝えてほしいと両使へ依頼した返書案。
(文禄2年)3月28日 / 冊子 680頁
石田三成・大谷吉継から派遣される両使が御朱印を携えて諸大名のもとへ向かうため、宿継ぎと道中の安全に念を入れるよう島津義弘へ依頼する。 さらに桑嶋左近の宿を手配し、小荷駄が続かない場合には一、二疋の馬を宛てがうよう求めた、使者の移動・宿泊・輸送を具体的に調整する書状。
文禄2年5月25日 / 冊子 699頁
秀吉から拝領した帷子二つと御朱印一通を送り、受領後に請状を返すよう求める。 あわせて朝鮮在陣地の「御仕置」に関する朱印状と、処罰条項を記した三人連署の朱印状も同封した、複数の重要文書と拝領品の送達を知らせる連署状。
(文禄2年)5月朔日 / 冊子 690頁
長期在陣の辛労をねぎらい、使者二人を派遣したので、引き続き朝鮮での任務に励むよう島津義弘へ命じる。 現地の「御仕置」に関する詳細は別の書面と熊谷半次・水野久右衛門が伝えるとした、在陣慰労と軍令伝達の朱印状。
(文禄2年)5月2日 / 冊子 690~691頁
都への軍勢進入と城内の処置について知らせ、秀吉が現地の配置に不満を抱いているため、熊谷半次・水野久右衛門を改めて派遣したと島津義弘へ伝える。 秀吉の機嫌に異状はなく、義弘の早い帰朝を待っているとも述べた、朝鮮の戦後処理と使者派遣を知らせる書状。
年月日未詳 / 冊子 719~720頁
熊谷半次・垣見弥五郎を帰朝させるにあたり、各城の絵図・城主の受取札・在番割を確認し、帳面に基づいて交替を処理するよう命じる。 金山浦などの兵糧、船・武具の残置と引継ぎも定め、朝鮮沿岸の城郭・兵站を記録によって管理した朱印状。
寛政5年正月(本文正月。年次は同一件による) / 冊子 111~112頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0021
清七の身分を内々に調べるため、小野半次が本人・妻きんを訪ねて聞いた内容を桑山へ報告する。清七によれば、亡父代は土井周防守家来であったが暇を得て浪人し、兄甚五郎は江戸に住んだ。清七は三州刈屋の土井兵庫頭家の伯父に実子がないため養子となったが、兄の病中世話で江戸へ出た後、伯父に子が生まれて離縁となり、甚五郎の妻きんへ入夫したという。きんもこれに同意し、嘉代は亡夫甚五郎の娘、りんは清七との娘で14歳と説明した。きんの出身は川崎宿いさこ町百姓六右衛門の娘とする。家の転居・当夏類焼後に吉兵衛店へ仮住まいした経緯も聴取する。正月、御留守居組小頭小野半次、桑山宛。夫妻から得た由緒説明として記す。
(文禄2年)5月朔日 / 冊子 688頁
泉又太郎が島津豊久の与力に命じられながら、仮病を装って船に留まり、軍役に加わらなかったことを秀吉が「前代未聞」の違反と断じる。 本来は成敗すべきところ命は助け、知行を没収して小西行長に預けるよう命じた、朝鮮在陣中の軍役忌避に対する具体的な処分状。
3月8日知政所(年は目録明治3年) / 冊子 744頁/原整理番号 966の3/整理ID 966-3
中村半次郎を大隊長に任じた旨を関係向々へ伝える。三月八日知政所、年は目録の明治三年による。部隊番号や具体的な任務は記されない。
寛政5年正月21日(本文。目録は19日) / 冊子 112頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0022
小野半次の直前の身分調査を受け、清七の身分について御見合のため内々に承り合せたことを、桑山甚助が橋口與三次へ届ける短い書。正月21日付、桑山署名、橋口宛。朱注には、本文を橋口から岩下佐次右衛門へ差し出したとある。清七の由緒を新たに裁定する書ではなく、調査結果の取次である。年次は同一件の寛政5年による。目録345の14の日付は正月19日で本文の21日と相違するため、本文日付を採り差を留保する。
7月(軍賞申渡群、年・日不記) / 冊子 306~309頁/原整理番号 435/整理ID 435
全七頁の軍賞申渡群を十四内容に分ける。祇園洲で敵艦を引き受けた島津權五郎に鉄炮一挺・陣羽織一枚、川上右膳ら四名と物主二名に陣羽織の賞を記す。税所清太は砲の損傷後に加勢し手傷で即死したとし、切米八石・祭祀料金三十両を命じる。祇園洲・沖小島守衛の八名には各十五両、さらに七名には各十両。弁天波戸・砂揚場・水軍隊・新波戸・大門口の戦兵に各二両とするが人数は記さない。川上十郎太に十両、陣中死去の重久甚五郎に弔料二十両、祇園洲と沖小島の惣人数に各八両、青山愚知に切米四石・鉄炮一挺、櫻島三ヶ所の戦兵に各二両を記す。末尾は姓名不知の始羅郡山田郷士二人に切米四石宛(十五ヶ年)・十五両宛を与えた由とし、詳しい書付は不知で追って記すとする。人数不記の隊は総額を作らず、切米・金銭・品物と弔料祭祀料を分ける。各条は七月帯刀。
延享四年二月廿九日 / 冊子 980~981頁/整理ID 2629
延享四年二月二十九日付の書状。隠居した上総入道吉貴と薩摩守宗信について、幕府へ差し出す御明細書の提出を求められた経緯を記す。先例を参照し、二月十一日に美濃守へ相良弥一兵衛・松田半次郎を差し向けて取次を受け、吉貴の隠居と家督相続後の宗信の官位・所領などを記した書上二通を提出したと報告する。宛先は樺山主計・嶋津右平太・北條織部・鎌田太郎右衛門の四人。
正月25日 / 冊子 785頁/原整理番号 867
三原が肥前で弓を用いて類のない働きをしたことを喜び、家の弓の名誉になると称える。赤羽の矢は矢師の都合などですぐに調わず、当面は半次と山鳥の矢を送り、不要なら戻してよいと述べる。大納言・松平伊豆守の用で来る子三右衛門との対面を依頼し、うつぼは平内が調達に赴いているので出来次第送ると伝える。