北郷忠亮譜
年月日未詳 / 冊子 397頁
寛永十年十一月、北郷忠亮が太守家久の質として江戸へ赴き、家老北郷久永・旅家老北郷久孝が随行したこと、翌年二月十日に江戸で二十一歳で死去したことを記す。
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年月日未詳 / 冊子 397頁
寛永十年十一月、北郷忠亮が太守家久の質として江戸へ赴き、家老北郷久永・旅家老北郷久孝が随行したこと、翌年二月十日に江戸で二十一歳で死去したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 139頁
忠亮が都城から江戸へ赴き、寛永七年四月十八日の家光による家久桜田邸御成で拝謁し、太刀・袷を献上して白銀を拝領したこと、六月に暇を得て帰国したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 663頁
島津光久譜に、光久・忠朗・久直・岩松丸・又十郎・式部大輔の名を掲げ、元和三年十一月二十六日の出生、北郷忠亮の養子となったこと、寛永十八年十一月六日に二十五歳で死去したことを記す記事。
寛永八年三月廿八日 / 冊子 195~196頁
北郷忠亮に、聖賢の道を学び賞罰を明らかにして家を長く保つこと、北郷家が島津家にとって重要であることを説く。忠能代の悪行に加担した者の追放・処罰、死罪・知行没収時の鹿児島への報告、鹿児島屋敷への移住などを命じた家久袖判の条書写。
年月日未詳 / 冊子 225頁
北郷忠亮の家老・北郷源左衛門忠俊が、忠亮と亡父忠能の代から一家の権勢を握り、上を軽んじ下を苦しめたとして、家久は八月六日に忠俊を処刑し、翌七日には父忠泰と弟平左衛門も都城で処刑したと記す。
年月日未詳 / 冊子 427頁
北郷忠亮の死後、島津家久が三男久直を忠亮の姉に配して後嗣としたこと、家久が暇を得て江戸から上洛する際の動向や久元の召し寄せを記す。
年月日未詳 / 冊子 819頁
寛永元年八月二十二日、島津家久が鹿児島城で長千代丸と弟虎菊丸を元服させ、翁久・忠亮の名を与えたことを記す。理髪役はそれぞれ島津久元・伊勢貞昌が務め、両名が太刀・鎧・弓矢・鞍馬を献上し、家久から刀・太刀・馬代などを賜った北郷翁久譜の記事。
(寛永八年)三月廿八日 / 冊子 193~194頁
北郷出雲守忠亮への使者となる両名に、家久の意向を伝えるよう命じた久元・貞昌の連署状。若年の忠亮による家督相続を認めつつ、忠能代の家臣殺害・追放や悪政を戒め、家老・役人の意見を聞き、悪行者を処罰して家を安定させるよう諭す手順を詳述する。
年月日未詳 / 冊子 194~195頁
北郷時久入道一雲から忠虎・忠能・忠亮へ続く北郷家の系統と、その周辺の式部太輔久直・次郎左衛門久定・外記忠長・筑後忠顕らについて、生没年・年齢・光久との続柄などを付記した系図。
年月日未詳 / 冊子 195頁
三月二十二日に秀忠から使者を通じて御鷹の雁二羽を賜り、家久が謝した記事に続き、北郷忠能の人物と都城支配を論評する。忠能が幼くして孤児となり専横に育ち、賞罰を誤り忠臣を殺害・追放して北郷家を傾けたため、死後、家久が嗣子忠亮へ数条の教訓を川上久国・仁礼景親を介して示した経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 732頁
北郷忠能以下の嫡流系図。忠能の死に紀藤丹波・土屋七左衛門が殉死したこと、翁久・忠亮の早世、島津家久の第三子久直が北郷家へ入ったこと、島津光久の子久定・忠長・忠智へ続く相続を記す。
寛永9年8月19日 / 冊子 25~32頁/原整理番号 31
東表出陣時の一番から五番・御旗本まで、各大将と諸所衆の乗馬、鉄炮、弓、鑓、手明、夫丸を知行高とともに列挙する。江戸へ提出する目録として、総人数二千八百四十五人、乗馬衆六百七十四人、鉄炮千八百六挺、弓六百四十七張、鑓六百五十三本、昇四百二十本を集計する。
(寛永八年)三月十七日 / 冊子 192頁
北郷讃岐守忠能が死去したとの早打ちの知らせに驚き、長く患っていたとの知らせもなかったため不慮の出来事であるとして、北郷出雲守の落胆を察し弔意を伝えた島津家久の書状。