伊勢貞成署判領知目録
慶長五年十二月十一日 / 冊子 722-723頁
伊勢貞成が、大隅国菱刈横邊村内の田畠について、地名・面積・分米や耕作者を列記し、合計分米・大豆三十石を本田勝次郎の領知として示した目録。
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慶長五年十二月十一日 / 冊子 722-723頁
伊勢貞成が、大隅国菱刈横邊村内の田畠について、地名・面積・分米や耕作者を列記し、合計分米・大豆三十石を本田勝次郎の領知として示した目録。
年月日未詳 / 冊子 723頁
島津義久の譜に、本田勝次郎へ大隅国菱刈横邊村内の領知を宛行ったことを掲げる記事。前掲の伊勢貞成署判領知目録に対応する。
(慶長六年) / 冊子 740-741頁
本田助允(元親)が自身の知行内訳と加増約束を記した案文。本箇所はNo.1453と同文のため本文省略。永吉村など計百八十石、勝次郎の次男分の新地、京都への領国安堵使節の功による加増二百石の約束を内容とする。
慶長六年正月十九日 / 冊子 743-744頁
本田助允(元親)が自身の知行を整理した覚書。永吉村・入来裏名村・帖佐舟津村・蒲生久徳村・馬越徳満村など計百八十石の内訳と、勝次郎の次男分としての新地、京都への領国安堵使節を重ねた功による加増二百石の約束などを記す。
明和二年四月二十七日(廻状。前置覚は四月十三日等) / 冊子 91~92頁/原整理番号 181の80/整理ID 181-80
前置する経費覚は、日光の宿料金三十五両から五両減、諸小屋掛代銀七百二十八匁四分、金換算欄の十一両貳部と六匁六分、減銀五百九十一匁、合金十四両壱部と十匁一分減、小判金一両に銀六十二匁八分の換算を記す。四月十三日の小判金四十六両・壱部金二切・銭三百八十文も載せる。宿料・小屋掛等は差し越された金と用心金から払い、帳一冊を添え、御国足軽二人・外足軽二人へ壱部金一切ずつを渡す。不足した旅込賃も用心金から上納方の方法に従って渡す。金子五百・三百・二百・百疋と、宿主武井岡右衛門・遊城院同宿・町人及び家来・案内世話の記載があり、朱注には岩下を取次とする東郷の申出と酉六月十三日の日付もある。続く廻状は法会終了後の能見物の規則を定める。初度・二度目は万石以下の下供・刀持・草履取を中之口から入れ、供部屋のない者を寺澤御門辺に置き、退散時に繰り入れる。三度目は四品以上の刀持・草履取を玄関前や冠木御門外の壹部屋脇御門内に置き、その他の供の入場・待機と四品以上の退散後の繰入を区別する。留守居は主人の登城後速やかに供廻籠の場所へ退き、御座敷向に留まらず、御徒目付・御小人目付の指図を守り、同席中にも通達する。四月二十七日、新庄織部に続き夏目藤四郎・松平縫殿頭・松平庄九郎・曲淵勝次郎が連署し、順達後、末尾から本丸御徒目付当番所へ返すよう追啓する。
明和二年四月二十七日 / 冊子 92~93頁/原整理番号 181の81/整理ID 181-81
曲淵勝次郎・松平庄九郎・松平縫殿頭・夏目藤四郎・新庄織部から別紙一通を受けたため、大膳大夫・相模守へ申し聞かせたところ、同席の各家から通達するよう命じられたとして、写しを順に廻す。各家からの返答は不要ではないかと思うと述べ、通達が済んだ後は差出側から届ける予定とし、廻状を確認したうえで返すよう求める。嫡子がいる家には御付の家衆へも知らせるよう追記する。四月二十七日、池田家の塩見幸左衛門と、毛利家側の嶋田市三郎・吉田半兵衛・都野彌右衛門・有福庄右衛門の記載に続き、順不同の宛名を載せる。朱書には、昨夜中に大膳大夫の家から届いたものを書写して差し上げた旨を、翌二十八日に有川勇馬が左中様へ報告したとある。本文の順達と朱書の到来・書写報告を区別する。
天明四年十二月(日付なし) / 冊子 779頁/原整理番号 2177/整理ID 2177
当日の登城時、礼前に大目付松平対馬守から居残るよう伝えられ、例年どおり歳暮の礼を述べた後、目付藤郷右衛門・曲淵勝次郎の案内で白書院黒鷲杉戸前の老中列座へ進んだ経緯を記す。田沼主殿頭から別紙どおりの達しを受け、西丸でも成瀬安次郎の案内により白書院縁頬に出席した鳥居丹波守へ歳暮祝儀と達しへの礼を述べた。以後の御礼席は年始・五節句・八朔を白書院、月次を黒書院とする旨を記録する。
宝暦十一年六月十五日(目録、本文に十三日を含む) / 冊子 851~853頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2531-6
六月十三日の機嫌伺いの総出仕に際し、老中が寺社奉行太田摂津守・毛利讃岐守、大目付筒井大和守、勘定奉行石井備後守、作事奉行安藤弾正少弼、大目付大田三郎兵衛・曲淵勝次郎・松平庄九郎へ、家重の出棺・葬送・法事の用を命じ、若年寄が侍座した。十五日の総出仕では小姓組の松平左太夫と書院番の京都使者を掲げ、贈位・院号の用命を但馬守が右筆部屋で、暇と拝領物を摂津守が申し渡したと記す。金二枚の記載と、勘定組頭・代官・漆奉行・勘定・大工頭・作事奉行・支配勘定らの名簿を載せる。増上寺での葬送・法事の用は、酒井左衛門尉が右筆部屋で申し渡し、信濃守が侍座し、村山長右が差し出したと記す。
宝暦十二年八月九日 / 冊子 924頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2714
山澤小左衛門が八月九日、島津左中へ、家老の御目見登城時に刀持の手替を伴う件の照会結果を報告する。去月二十七日に關口兵太夫へ書付を渡して相談し、二十八日(原文「昨廿八日」)に参上したところ、翌朝の登城に際し万石以下の家老も下馬の内まで刀持・手替の士二人を伴って差し支えないと松平右近将監が述べたと伝える。手寄りの目付方へ書面一通を提出すればよいとされ、御用頼の目付三枝帯刀と曲淵勝次郎へ、それぞれの用人を通じて届け出たので、首尾を知らせると述べる。
文政元年10月(10月15日は引渡・保管注記) / 冊子 538~540頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1632
目録は脇坂安董続書とする。本文の表紙は文政元年寅十月、御續書壱通、御記録所。脇坂の親族の続柄を、御娘・御妹・御弟・御孫・御孫女・御甥・御姪・御従弟・御従弟女・御分知と列記する。娘は秋月筑前守種任の奥、妹は北條相摸守の母正岸院と田村右京大夫の養母寶壽院、弟は六角桂ひ(原注ママ)、孫は秋月松之助、孫女はお貴。甥・姪には板倉甲斐守、田村右京大夫、北條氏庸、京極修理、田村右京大夫奥、津田壮之助奥、田村石見・主馬、西尾小六、北條惠吉・雪江、永井信濃守奥、六角頼母・銓三郎、大澤造酒助、氏名を示さない御同所御姉、お鐵を記す。御父方の姪に堀田方畏。従弟・従弟女にはお幸、土屋代阿波守、室賀惠次郎、本多大學の叔母、佐野主水奥、本金十郎、赤松左衛門不熟奥、秋元左衛門佐、了智院、毛利大和守奥、森川下總守・主膳奥を記し、分知は脇坂主計とする。養方の妹・弟、聟養子、養父・養母、叔父・叔母などの関係注記を伴い、血縁だけの一覧ではない。末尾の朱注は十月十五日に伊豆殿から渡され、御記録所に帳留めする旨を五代孫次郎が承知し、白木御文書八番箱へ入れたとする。一冊となり、箱中二十五番。十月十五日は引渡・保管注記である。原表記・親族の起点の比定は留保する。