殉国名藪
年月日未詳 / 冊子 295頁
応永二十三年正月十三日、千手堂で久世方の侍中太郎らが自害・殉死し、本田伊賀守、小田原弾正、天辰助次郎らを含む二十一人が殉死したと伝える戦死者名記事。姓名不詳者がいることも注記する。
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年月日未詳 / 冊子 295頁
応永二十三年正月十三日、千手堂で久世方の侍中太郎らが自害・殉死し、本田伊賀守、小田原弾正、天辰助次郎らを含む二十一人が殉死したと伝える戦死者名記事。姓名不詳者がいることも注記する。
年月日未詳 / 冊子 677頁
大永七年、加治木・野首原・帖佐などの戦いで戦死した山野助次郎、湯田仁右衛門、上井筑前守方秋、伊地知左近将監重貞らの没日と戦場を記す。
年月日未詳 / 冊子 293~294頁
河邊・伊作勢との和睦と久豊の帰還をめぐる交渉の後、輪千手堂坊を舞台に家臣団の謀議と自害・討死が続いたことを記す。久世の調停が進まないなか、本田・小田原・柳田らを含む近臣の対立が深まり、多数の死者を出した経過を叙述する。
年月日未詳 / 冊子 294~295頁
応永二十三年正月、柳田大膳の策で小田原弾正が輪千手堂坊へ誘い出され、自害したことから家臣同士の戦闘となり、本田伊賀守ら多数が死んだ事件を記す。久豊の対応、伊集院方との関係、遺族・家臣団の動向も続けて叙述する。
正中二年四月三日 / 冊子 532頁
安楽寺雑掌が訴える薩摩国国分寺下地について、三月十八日付御教書の趣旨に従い、到来後ただちに国分助次郎を召し出して事情を明らかにするよう命じた書下。
建武五年三月日 / 冊子 710頁
本田次郎左衛門尉久兼が八幡・天王寺方面の合戦で軍忠を尽くした軍忠状。三月十三日の八幡合戦に大隅助次郎入道・東郷小三郎らと参加し、同十六日の天王寺合戦で高橋中務丞が見知したとして証判を求める。
正月29日(写) / 冊子 337~338頁/原整理番号 130-22
河上氏文書のうちから正月二十九日に写した別紙の某覚書。大隅国の吉内左衛門尉家長に関わる山城守の許可、松山地頭となった人物が和泉から日新斎へ供奉して中村に居住した由緒、羽月居住者と貴島常陸一族、南郷氏との争い・永吉での討死、薩州時代に小湊を領した人物、市来助次郎の曾祖父山城守の妹婿にあたる和泉の市来氏など、一族・姻族の関係を伝える。付随系譜は九代家政が次郎左衛門尉・山城守を称し、法名を長盛としたことを記す。
建武五年三月日 / 冊子 10頁/原整理番号 183
本田久兼が八幡・天王寺方面での軍忠を申告した文書。三月十三日に八幡で合戦し、大隅助次郎入道・東郷小三郎が見知、同十六日には天王寺安部野で敵二人を生捕り、高橋中務丞が確認したとして、後代の証拠となる一見状を求める。建武五年三月付。
大永6年11月7日、同年某月28日 / 冊子 340~341頁/原整理番号 130-27
樺山玄佐の自記から、大永六年の島津忠兼・本田氏関係と河上氏系譜記事を抄出した記録。十一月七日、金吾様に同行した忠兼が鹿児島へ帰陣し、本田因幡守兼親と父三河守親安の無二の奉公により本田氏へ曽於郡を与えたが、ほどなく河上次郎左衛門の姉に関わる事情から召し返したため、本田氏が恨んで出仕を止め、新納殿を頼ったと記す。さらに新納殿が本田氏へ内通した時、大永六年某月二十八日に宮内の社頭が天火かによって全焼したとする。付随記事は、市来氏へ嫁いだ女子の年代矛盾、僧一人、源左衛門の坂元氏養子、厚地吉内左衛門家長の曾祖父が家林から厚地名字を許された由来を記す。
正中二年閏正月廿九日 / 冊子 529頁
安楽寺雑掌静祐の重申状に基づき、薩摩国分寺下地相論へ日限を定めて参決するよう国分助次郎友貞へ命じた鎮西御教書。
嘉永四年正月廿七日~二月十五日 / 冊子 110~111頁/原整理番号 168/整理ID 168
正月二十七日、大家が上使戸川助次郎を通じて斉興へ御鷹の鶴を賜った記事。二十九日に斉興が告老を請い、世子斉彬へ譲封することを述べる。二月朔日、老中連署の奉書で斉興・斉彬を召し、翌二日に南部遠江守信順が斉興の名代として斉彬とともに登城した。白書院縁頬の老中列座で御用番松平和泉守乗全から台命を伝えられ、斉興の告老と斉彬の襲封を告げられた。十五日には再び信順が斉興に代わって登城し家慶へ拝謁、御太刀一腰・馬代金十両・縮緬十巻を献じ、御老への恩を謝したと記す。最後の品物は斉興側から家慶への献上であり、拝領品ではない。
年月日未詳 / 冊子 302~303頁/原整理番号 139
『応永記』が、応永二十二年乙未、河辺と鹿児島が合躰し、匠作は河辺へ、久世は匠作を伴って帰院したと記す。久世は年内に河辺城を受け取ることを求め、支える者の子孫を見離さないでほしいとも述べた。翌二十三年正月十三日には侍中太郎、本田伊賀守、天辰助次郎らが切腹し、平等寺から退いた時に匠作が泣いて発した言葉を取り上げ、多くが恐れを抱いたという。
元亨四年十二月十六日 / 冊子 525~526頁
安楽寺雑掌と国分寺領主国分友貞が、国分寺領下地・年貢および荒野・石上村の境界を争った鎮西下知状。訴陳状、絵図、永和状、検見・証人の申状を照合し、石上村南境、馬渡路、北公田、西草帳、東石神島などの境を裁定する。相論地の帰属、年貢・公事、違乱者の処分を定め、絵図に基づく境界確定を命じる。
正中二年三月日 / 冊子 530~531頁
安楽寺雑掌静祐が、国分友貞による薩摩国国分寺領の押領を重ねて訴えた申状。友貞が召符に応じず陳状も出さない経緯、前年の綸旨・御教書、領家方の知行根拠を掲げ、友貞を召し出して下地・年貢を回復させる裁許を求める。
宝暦十二年二月(日付不記) / 冊子 910頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2670
幕府の勘定吟味役らが元方御金奉行衆へ、表書に記された金二万両を渡すよう指示する。二月付で担当者の署名と印形が記され、出座しなかった者、公事方で印形を付さない者、大坂御用により印形を付した者についても注記する。
11月27日 / 冊子 425~426頁/原整理番号 396の4
十一月二十七日、串木野から立てた水手五十五人を列記し、三原源右衛門・永山覚右衛門へ受取りを命ずる。助兵衛尉・吉兵衛・惣右衛門から作左衛門・孫市までの五十五記載が本文の合計と一致する。助七・太郎作・次兵衛尉など同名が重複する箇所も名簿上の別記として保持し、推定で統合しない。
年月日未詳 / 冊子 532頁
国分助次郎宛の御下文・御教書・奉書、国分寺領の寄進状や領家方文書など、関東・鎮西関係文書を仮名書きで一通ずつ列挙した文庫目録。文書の年月・宛所・内容を簡略に記し、所蔵文書群の構成を伝える。