鹿屋兼長由緒書上
年月日未詳 / 冊子 214~218頁/原整理番号 549
鹿屋壱岐守兼長が子孫へ残した家の由緒・軍功書上。兼秀が肝付祓川から帖佐を経て球磨へ移った経緯、父恒治の早世と墓所、薩摩・肥後・川内・筑前・高麗などでの合戦・使者役・城務、島津義久・義弘のもとでの奉公、知行や証文・道具の伝来を列挙する。末尾で後代の奥書継承を命じ、鹿屋二右衛門尉兼慶へ附属する。
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年月日未詳 / 冊子 214~218頁/原整理番号 549
鹿屋壱岐守兼長が子孫へ残した家の由緒・軍功書上。兼秀が肝付祓川から帖佐を経て球磨へ移った経緯、父恒治の早世と墓所、薩摩・肥後・川内・筑前・高麗などでの合戦・使者役・城務、島津義久・義弘のもとでの奉公、知行や証文・道具の伝来を列挙する。末尾で後代の奥書継承を命じ、鹿屋二右衛門尉兼慶へ附属する。
慶長八年七月晦日ほか / 冊子 47~48頁/原整理番号 3
伊地知季安が、川上久園から島津家譜編纂者への寛文二年書状を引き、伊集院小伝次の罪科記録が評定所にあったことと、家譜に採録されたか疑わしいことを考察する。続いて鹿屋兼長日記に見える関ヶ原後の伊集院側の肥後工作を紹介する。
宝永4年5月25日改訂・御記録所提出(系譜記事は天文~享保年間に及ぶ) / 冊子 585~593頁/原整理番号 100
伴家肝属氏の近代の家系を兼続以下の枝筋までたどり、子女・養子・婚姻、家督、官途・法名、所領、戦死や寺院関係を記した長大な系図。冒頭に宝永四年五月二十五日、改訂して御記録所へ差し出したと記し、兼続の弘治二年の口宣、良兼らの志布志大慈寺・日州の寺院や位牌をめぐる記事、兼長らの地頭職・知行、兼道らの島津家との関係や慶長五年の戦死を載せる。後段には享保年間の太刀・銀馬代や家格に関する願い、僧籍に入った者、女性の婚姻・離別も記し、宝永四年の提出後にあたる年次の記事も含む。単なる直系表ではなく、分家・養子筋と後年の由緒主張を併記した点に特徴がある。
系図全体は無年次(天正7年の飫肥移住・同14年7月27日の戦死を記載) / 冊子 598~599頁/原整理番号 102
加世田士前田茂右衛門家の系図。祖先の前田兵部左衛門尉兼政が加世田に住み、天正七年に日州飫肥へ召し移され、同十四年七月二十七日に飫肥で戦死したと伝える。家伝では三代前まで肝付を称したが、家が盛んでなかったため前田を名乗ったといい、兼政の弟兼定は谷山へ移り、弟兼長は加世田に住んだと分けて記す。後続の兼昌・兼逸・兼通・兼明・兼治らの系線には、日向から母と姉妹が加世田へ移った話、幼くして知行を受けた記事、宮原・若松・河野・相徳武などへの女子の婚姻と早世も添える。
系図全体は無年次(寛文11年・延宝6年・元禄6年などの没年を記載) / 冊子 599~601頁/原整理番号 103
前田兵部左衛門兼政の弟兼定を祖とする前田宇兵衛家の系図で、兼定が加世田から谷山へ召し移されたことを記す。家伝は、兼定が高麗出陣で本田六左衛門の手に付き、陣中に詰めて帰陣時に伏見へ上り、感状を受けたが、のち平田盛右衛門に文書を差し出して返却されたという。子孫の兼長・兼延・兼家・兼倍・兼貞・兼賢らには加世田居住、官職・法名・没年、藤崎・馬場・島田・岩切・吉井・有馬などへの婚姻を付し、寛文・延宝・元禄期の記事と末代の出生までたどる。前項の前田茂右衛門家系図とは、兼政の弟兼定から分かれた谷山移住系統である。
系図全体は無年次(正保2年・元禄6年の没年などを記載) / 冊子 601頁/原整理番号 104
加世田士前田軍八家の系図で、前田兵部左衛門兼政の三番目の弟兼長が加世田に住んだ系統をたどる。兼長の子兼高は主膳と称し、母を宮原吉兵衛の娘と記すほか、兼申・兼明・兼吉らの名乗り、正保二年の兼長と元禄六年の兼明の没年・法名を載せる。後代には医師となって元養と改名した兼周、兼貞・兼西・兼次郎らをつなぎ、河崎・加藤・樋渡・河野・堀之内の家との女子の婚姻も記す。前項の兼定から谷山へ移った前田宇兵衛家とは、兼政の別の弟を起点とする加世田居住の枝筋である。
年月日未詳 / 冊子 213~214頁/原整理番号 546
鹿屋仁右衛門家の系図。鹿屋周防介兼詮を起点に、天文元年に二十九歳で没し肝付祓川に墓を置く兼貞、兼秀・兼長・兼慶を経て、仁右衛門尉兼信・兼記・兼次らに至る系統を記す。各人の没年、法名、婚姻・養子、帖佐・加治木での出生や居住を示す。
年月日未詳 / 冊子 142~144頁/原整理番号 486
肝付清左衛門家の系図。肝付庶流の津曲家が後に肝付伴氏を称したとし、肝付四代嫡兼員の四男兼行を津曲の祖とする。系図・文書焼失のため中間の先祖を詳記できない旨を断り、津曲但馬以下の諸代を記す。肥後・江戸・大坂・琉球などでの奉公、婚姻・養子、出生死亡、法名を列記し、兼明・兼戴らの分岐に至る。
元文二年九月十五日 / 冊子 468頁/整理ID 1123
越前島津家で祖先忠綱らの牌を浄光明寺に安置して開眼供養し、家臣の席次・礼式などの格式を定める。
年月日未詳 / 冊子 105~111頁/原整理番号 21-1
冒頭に大原・平野・住吉三社を御姓神として本地仏と祖先下向以来の守護祈願を掲げ、兼経以下の肝付・萩原諸流を展開する神名書上兼系図。中世部では兼元の応永十七年島津元久上洛供奉・足利義持拝謁・河内守任官・加治木陣没、萩原城・萩原館・萩原庄主、高崇寺・帝釈寺などを記す。近世部では兼隆・兼義の川辺から加世田への移住と島津忠良への奉公、島津義弘の飯野移住への供奉・七十三石拝領、兼通の飯野から出水・軸谷外城への移住と物主役、禁制宗旨を理由とする宝暦五年の出水から高山への移住を述べる。末尾は高山新留村・下之門・宮下村の居住を経て、甚五左衛門が寛政十年十一月十三日に三十四歳で高山を出奔し、家系が断絶したことを記す。
本文年紀:長禄四年七月五日 / 冊子 502頁/原整理番号 七八五/整理ID TMP-P03-TOKUGAWA-NENE-SAKAGUCHI-D0785
正八幡宮の補任状は冒頭に「正八幡宮御寶前」と掲げる。 夏越御拔饗膳并酒頭職事を「明年六月晦日」に差定する。 「貫首祢寝郡司建部男」と記すが、役割と宛所の関係は保留する。 長禄四年七月五日付で修理執行・検校・政所別当等の署判が並ぶ。
慶長四~五年 / 冊子 48~50頁/原整理番号 4
鹿屋兼長の記録を抜き、関ヶ原合戦後に肥後八代の川田村庄屋から加藤清正らの薩摩攻めの評定を聞き、山道を急ぎ帰って出水・帖佐の島津方へ報告した経緯を示す。伊集院源次郎が肥後へ給地・地頭衆の情報を送っていたことも記す。