坪付
天正七年二月吉日 / 冊子 628頁
忠春が前田兵部左衛門尉へ、薩摩国加世田のうち船越迫の三反を記して示した坪付。
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天正七年二月吉日 / 冊子 628頁
忠春が前田兵部左衛門尉へ、薩摩国加世田のうち船越迫の三反を記して示した坪付。
天正八年二月吉日 / 冊子 646頁
加世田の御所之前・大坪・中島などにある田地を列記し、合計五反を前田兵部左衛門尉の知行として示した坪付。
二月十三日 / 冊子 756~757頁
島津勝久が肝付越前守に、舟での往来や所用、所持地の扱いについて述べ、佐藤兵部左衛門尉を派遣して相談を進めるよう求めた書状。
案文一〇九慶安四年十二月十八日 / 冊子 188~189頁/原整理番号 109
慶安四年の御狩に関する覚。十一月二十九日の四歳猪一頭は六十六人が参加し、鉄砲六十挺・弓六張、代銀八匁と記す。十二月七日の二歳猪一頭は六十四人、鉄砲五十八挺・弓六張、代銀三匁であった。前目山に獲物がいるため検者を申請せず狩ったとして、検者の任命を求める。季安は注で、狩猟用武器の鉄砲への移行を論じる。
七月日 / 冊子 473~474頁/原整理番号 608-2
長崎の情勢を記した前文書を所次で送り、山田土佐守へ届けるよう中馬兵部左衛門・清田右京亮・木原兵左衛門に命じる添状。目録年月日は『七月日』を維持し、本文の七月三日とは区別する。
系図全体は無年次(寛文11年・延宝6年・元禄6年などの没年を記載) / 冊子 599~601頁/原整理番号 103
前田兵部左衛門兼政の弟兼定を祖とする前田宇兵衛家の系図で、兼定が加世田から谷山へ召し移されたことを記す。家伝は、兼定が高麗出陣で本田六左衛門の手に付き、陣中に詰めて帰陣時に伏見へ上り、感状を受けたが、のち平田盛右衛門に文書を差し出して返却されたという。子孫の兼長・兼延・兼家・兼倍・兼貞・兼賢らには加世田居住、官職・法名・没年、藤崎・馬場・島田・岩切・吉井・有馬などへの婚姻を付し、寛文・延宝・元禄期の記事と末代の出生までたどる。前項の前田茂右衛門家系図とは、兼政の弟兼定から分かれた谷山移住系統である。
系図全体は無年次(正保2年・元禄6年の没年などを記載) / 冊子 601頁/原整理番号 104
加世田士前田軍八家の系図で、前田兵部左衛門兼政の三番目の弟兼長が加世田に住んだ系統をたどる。兼長の子兼高は主膳と称し、母を宮原吉兵衛の娘と記すほか、兼申・兼明・兼吉らの名乗り、正保二年の兼長と元禄六年の兼明の没年・法名を載せる。後代には医師となって元養と改名した兼周、兼貞・兼西・兼次郎らをつなぎ、河崎・加藤・樋渡・河野・堀之内の家との女子の婚姻も記す。前項の兼定から谷山へ移った前田宇兵衛家とは、兼政の別の弟を起点とする加世田居住の枝筋である。
七月五日 / 冊子 459頁/原整理番号 578
多田崎の遠見番衆から、げずみ沖に大船が見えるとの報告があったと知らせる。船は遠く詳細不明だが帆二つが見え、船首は南へ向いているようだといい、変化があれば追って報告するとする。七月五日戌初刻付。
系図全体は無年次(天正7年の飫肥移住・同14年7月27日の戦死を記載) / 冊子 598~599頁/原整理番号 102
加世田士前田茂右衛門家の系図。祖先の前田兵部左衛門尉兼政が加世田に住み、天正七年に日州飫肥へ召し移され、同十四年七月二十七日に飫肥で戦死したと伝える。家伝では三代前まで肝付を称したが、家が盛んでなかったため前田を名乗ったといい、兼政の弟兼定は谷山へ移り、弟兼長は加世田に住んだと分けて記す。後続の兼昌・兼逸・兼通・兼明・兼治らの系線には、日向から母と姉妹が加世田へ移った話、幼くして知行を受けた記事、宮原・若松・河野・相徳武などへの女子の婚姻と早世も添える。
年月日未詳 / 冊子 75頁
天正十三年八月の肥後戦線における島津方の戦没者を、日付・戦場・戦死状況とともに列挙した「殉国名薮」。花山城を守って戦死した鎌田政虎、堅志田城攻めで倒れた木脇祐昌・西俣七郎・村山源太らを記し、矢部兵部左衛門尉が三人に囲まれて戦死したことなど、個別の譜では見えにくい損害の広がりを伝える。
延宝六年五月十四日 / 冊子 168~169頁/原整理番号 125
延宝六年五月十四日の稽古犬追物「一番闌次第」。犬十五疋を放つ手組で、島津内匠一疋、島津大學三疋、種子島藏人二疋などを記し、検見を川上十郎左衛門、喚次を平山兵部左衛門とする。