長寿院盛淳外二名連署領知目録
文禄2年2月7日 / 冊子 668~669頁
薩州隈城内の城岡之門をはじめ、屋敷・田畠・山畑などの所在と面積を列挙して長谷場越前守へ与えた領知目録。 新知三十石に九石一斗を加え、先知行と合わせて六十石の役を勤める条件で付与したことを明記する。三奉行が連署し、給付地の内訳と軍役負担を結び付けた家臣知行文書。
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文禄2年2月7日 / 冊子 668~669頁
薩州隈城内の城岡之門をはじめ、屋敷・田畠・山畑などの所在と面積を列挙して長谷場越前守へ与えた領知目録。 新知三十石に九石一斗を加え、先知行と合わせて六十石の役を勤める条件で付与したことを明記する。三奉行が連署し、給付地の内訳と軍役負担を結び付けた家臣知行文書。
年月日未詳 / 冊子 559~560頁
神戸久五郎が、八月朔日の伏見落城時、松丸口で父松岡勝兵衛が五代舎人と先頭に立ち、矢狭間を開いて槍で戦ったことを記す。勝兵衛は草摺を鉄砲で撃ち抜かれて瀕死の深手を負い、財部傳内は門内で敵と組み討死した。勝兵衛は島津義弘(惟新)の毎日の見舞いと薬により助かり、大柿への供を望んだが歩けず、のち大坂で米六十石を与えられたという。
慶長六年二月廿六日 / 冊子 750頁
伊集院抱節久信と山田理安有信が、薩摩・大隅国内の知行地と浮免を合計六十石、安楽大炊助へ加増として配分した連署目録。
慶長十三「二」年閏四月廿八日 / 冊子 115頁
慶長十二年閏四月二十八日、川上忠兄と伊勢貞成が薩州阿多新山村内の御祓田之門、高六十石余を蒔絵屋彦七に与えた連署知行目録。
慶長十九年六月晦日 / 冊子 530~531頁
慶長十九年六月晦日、島津久元の領地について、山崎村・湯田村・舟木村・屋地村など多数の村別石高を列挙し、合計一万三千六百六十石八斗二升とした頴娃久政・川上久好連署の知行目録。
慶長十九年七月十三日 / 冊子 531~532頁
慶長十九年七月十三日、薩摩国伊作中里村・中原村内の名原門・小原門など合計六十石を伊集院氏へ知行として宛行い、公役を勤めるよう命じた町田久幸ら四名連署の知行目録。
慶長十九年九月十一日 / 冊子 547頁
庄内加治山富吉村内の中本吉之門三十七石余と同村内の浮免二十二石余、合計六十石を彦山政所坊へ宛行う四名連署知行目録。知行の儀を守り、祈念に励むよう命じる。
(寛永十五年)二月三日 / 冊子 749~751頁
阿久根宿泊に際し、地頭衆の滞在で不自由が予想されるため、四郎左衛門を帰すか地頭衆を戻すか相談するよう指示し、出水までの宿泊・昼休みの割付を別紙で送る。黄門様の容体がこの三日軽快していること、薩州様の船が大雨で遅れていること、迎えの者を順次派遣したことを伝える。天草在番衆に油断なく警戒させ、富岡の状況を詳しく注進するよう求める。軍衆の祈念として六十六本の御神舞を行ったこと、兵粮を積めないため二千余人を召し戻す相談、天草番手を五、六千人とし江戸から三千人を遣わす案、百石につき三人の軍役を記す。さらに琉球船が米二百六十石・上布・焼酎などを積んで山川へ来たため、出水へ回航するよう岩切六右衛門へ指示した。川上久国・三原重庸の連署で、山田民部少輔・島津下野守宛。寛永十五年二月三日付。
寛永十五年二月三日 / 冊子 58~60頁/原整理番号 88
川上久国・三原重庸が山田有栄・島津久元へ、黄門様の快方と薩州様の着船遅延を報じる。天草番手・兵糧の措置、富岡で没収された物資の扱い、百石につき三人の軍役、鍋島・飛騨守からの書状、山川から来た琉球船の米二百六十石・上布・焼酎を出水へ回す手配を伝える。追而書では阿久根の宿泊・休息割を指示する。
年月日未詳 / 冊子 88頁/原整理番号 145-5
伊地知季安の記事。前条の三十一人に三人を加え、正月十七日晩に米之津へ着いた時は三十五人と記されること、四百六十石余に対する軍役人数を考証する。二十一日に米之津から帰した三人を内蔵右衛門・助六・拾郎兵衛とするが、目録年月日欄は空欄。
文禄5年12月2日 / 冊子 77頁/原整理番号 17-3
文禄五年十二月二日、伊集院右衛門入道幸侃が松崎采女正へ与えた領知目録。薩摩国伊佐郡大口のうち北柿原村五十石、栗野稲葉崎村九石、曽於郡姫城村一石、合計六十石を記し、このうち五十九石を加増とする。続く経歴記事は、松崎采女正が慶長二年に島津義久の上洛へ供奉して伏見で眼鏡を拝領し、慶長十年の国分移居に伴って国分へ移され、慶長十六年の義久死去時に剃髪して宗泉と号し、同年十一月に鹿児島へ移されたことを記す。
慶長期、元和年間・元和8年9月ほか / 冊子 280頁/原整理番号 110
横川士上原氏の祖・上原少監物(のち奉膳兵衛か)から藤右衛門・藤左衛門へ続く系図。少監物は龍伯公が国分にいた時期に慶長高帳で食禄六十石、元和年間には七十五石七斗六升三合を食み、元和八年九月に東郷重位の秘訣書を受けたほか、龍伯がその宅を訪れて刀を与え、その刀を八幡宮へ寄進したと記す。藤右衛門は光久公から名を与えられ、喜入丹波が国分地頭であった時に関わる由緒を持ち、のち横川へ移ったという。藤左衛門は綱久公に従って芝邸へ上り、藤左衛門の名を賜り、二十四歳で横川の役人となった。
慶長八年十一月廿八日 / 冊子 32頁/原整理番号 247
米良備前入道に、隅州曽於郡下財部村内の西大河原之門ほか合計六十石を加増として配分した知行目録。伊集院抱節久信と山田理安有信が連署する。慶長八年十一月廿八日付。
天正20年9月3日 / 冊子 602~603頁
福昌寺領として、田方五十二町七段余・分米五百二十七石余、畠方九町余・大豆四十五石余、山畠二十四町八畝余・大豆六十石余を列挙する。合計は田畠・山畠九十五町八段余、分米・大豆六百三十四石余とする。 町田久倍が署名し、島津義久が袖判を加えた寺領目録で、豊臣政権期の検地後に福昌寺領の規模を確定した数量史料である。
文禄五年正月廿日 / 冊子 3頁
島津忠恒が源七郎へ、薩州鹿籠内の別府村百六十石九斗九升を含む合計五百石の加増を示した目録。太閤の命による分国検地・改易で旧領を離れることへの配慮として、知行について龍伯・武庫と相談し、特に念を入れて取り計らうと伝える。
慶長五年十月卅日 / 冊子 607頁
島津忠長ら四名が源七郎へ、薩州鹿籠の別府村百六十石六斗九升と、庄内末吉の深川村三百三十九石三斗一升、合計五百石を加増として宛行う。
六月廿日 / 冊子 90頁
朝鮮情勢が固まる前に龍伯が速やかに渡海すべきと促し、後発兵の乗馬準備が不足していることを叱責し、毛利家では五、六十石の家臣も騎乗すると例示して、供衆の馬と指物を整えるよう命じた書状。
年月日未詳 / 冊子 524~525頁
伊集院久教の後裔久武、その妹で町田伊賀久則の妻となった女子、久則二男から伊集院家を継いだ忠鏡らの婚姻・所領継承・役職を記した伊集院氏支流系図。女子が島津龍伯の三女に仕え、化粧料六十石を与えられた経緯も載せる。
天保5年7月24日 / 冊子 71~77頁/原整理番号 17-1
天保五年七月二十四日、伊地知季安が松崎采女貞悦の自撰系図を整理・書写した覚書と系図。原系図は貞悦が延宝四年九月から同五年十二月まで、山田聖栄の自記二冊をもとに作成し、延宝二年までの記事を収めたものと説明する。季安は横長の小冊をいったん解体して順番を付け、本来の形へ継ぎ直した。系図本文は輪の内違鷹羽紋を掲げ、清和天皇・貞純親王・源経基以下の清和源氏祖系から頼光・頼政らを経て松崎氏諸流へつなぐ。後半は島津元久上洛への供奉、島津忠昌の飫肥攻め、日向国福島・肥前国島原などでの戦死、婚姻、出家、没年・法名を記し、秀吉から召し出された快真大和尚ら僧侶の履歴も収める。末尾では文禄四年、島津義久の富隈移居に伴い、貞悦が阿多から浜市へ移され六十石を加増されたことを記す。