島津帯刀覚書
十月廿八日 / 冊子 508頁
大坂の唐物屋伏見屋作兵衛・金兵衛が所持していた、朝鮮での軍功に関する豊臣秀吉政権五奉行の感状らしき文書を譲り受けた経緯を記す。島津家の重宝になるとして内見を経て御記録所へ納めるよう命じた島津帯刀覚書。
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十月廿八日 / 冊子 508頁
大坂の唐物屋伏見屋作兵衛・金兵衛が所持していた、朝鮮での軍功に関する豊臣秀吉政権五奉行の感状らしき文書を譲り受けた経緯を記す。島津家の重宝になるとして内見を経て御記録所へ納めるよう命じた島津帯刀覚書。
延享三年三月廿日 / 冊子 902~903頁/整理ID 2430
三月二十一・二十二日の登城に関し、御手紙拝見後の登城・席次と装束を伝える。西丸から差し出された書付による旨を述べ、居席は明日御同席の方が残西丸に登城し、能登守の伝達を受ける見込み、御衣服は御熨斗目・御半袴、御座敷や御揃刻限についても示す。森総右衛門・犬丸権太夫・斎藤右衛門が谷田・藤本へ送った書状。
寛政7年6月29日生・寛政9年3月7日夭亡(5日を諱辰とする注)、母の卒日は文化11年5月20日 / 冊子 92頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0304
近秘野帥の重豪公御子の記事から乗之助の出生・母・夭亡と法名を記す系譜抄。寛政7年乙卯6月29日に芝邸で生まれ、母は杉浦作兵衛政信の娘とする。母の名は於曽美で年寄上席、文化11年甲戌5月20日卒、法名柏寿院殿貞節如純大姉、今は殿字を用いる旨の注を伴う。乗之助は寛政9年丁巳3月7日に夭亡し、5日を諱辰とする注、法名天苗院殿玉質潤光大禅童子と惠燈院の注を記す。No.303より母の人物注を詳しく載せ、母と子の卒年・法名を混同しない。母父の作兵衛と前記事の作左衛門は別表記として保持する。
〈宝暦元年〉十二月二十二日 / 冊子 341~342頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0999
小根占地頭横目の料木五兵衛・島濱作兵衛が十二月廿二日、水施行者迫田源右衛門七十歳、妻五十七歳、嫡子迫田茂右衛門三十八歳について報告する。源右衛門は極貧のため亡親の菩提供養をする資力がなく、孝志から水を施してきた。去る子四月から施行を始め、当年まで二十年ほど続けたと隣人の話も確認し、現在も継続しているとする。居所から水汲み場は五町余で、一町余の坂を含み、五月時には三町余の所へ汲みに行き、こちらにも難所の坂があると記す。褒賞に関わる事実確認の報告である。
明和二年二月廿四日 / 冊子 63~64頁/原整理番号 181の20/整理ID 181-20
五家の家臣が二月廿四日、松平右近将監から受け取った書付の写を同席の諸家へ廻す。右近将監に召し出され、御用人小堀十太夫を介して書付一通を渡され、同席各家へ通達するよう命じられたと述べる。内容を承知して署名し、右近将監への御請使者を出すこと、在国・在邑の家でも承知のうえ御請を行い、その方法は先例どおりに取り計らうことを求め、数通を作成して持廻りさせる。嫡子がいる家では附衆にも伝達するよう後書する。署名は細川越中守家の中川郡兵衛、松平陸奥守家の谷田作兵衛、松平出羽守家の布施源兵衛、藤堂和泉守家の金谷三郎左衛門、松平薩摩守家の東郷源五。続く一覧は伝達先を四つの経路に分け、上杉大炊頭・松平大膳大夫等へ通達する分、藤堂和泉守家から通達する分、松平出羽守家から通達する分、松平陸奥守家から通達する分として諸家を列挙する。
寛政十一年四月九日(年次朱書) / 冊子 1049頁/原整理番号 2822の9/整理ID 2822-9
若殿の母は浪人鈴木甚五郎の娘とし、甚五郎の家跡は断絶したと注記する。乗之助・蓬之進の母は浪人杉浦作兵衛の娘、操姫の母は浪人須山和太夫の娘、於隣殿・剛之進の母は島津仲の妹と記す。張紙は杉浦作兵衛政信・須山和太夫則勝の実名を補う。実名が分からなかったため留守居へ問い合わせ、右のとおり回答を得たので、心得として書付を送ると述べる。四月九日、御記録奉行から御記録奉行衆へ。
年月記載なし(御母付書。4月9日の奉行添書を伴う) / 冊子 166~167頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0534
白木御文書六番箱73号の母附書。若殿様(斉興注)の母は浪人鈴木甚五郎娘、甚五郎家跡断絶と注す。乗之助・蓬之進の母は浪人杉浦作兵衛娘、操姫の母は浪人須山和太夫娘、於隣・剛之進の母は島津仲の妹、久建と女カの注を付す。貼紙は杉浦作兵衛政信・須山和太夫則勝という実名を留守居方に照会し、返答を心得書として送ったことを記す。4月9日御記録奉行署、奉行衆宛。包紙は六人の母付1通とし、年月記載なし、74号の前に綴じ置くと注記する。父子・母子関係と姓名の原記、訂正候補を区別し、妹を無説明で女へ置換しない。
末尾卯10月15日/八・九・十二日の参内等の記事(各原記載保持) / 冊子 419~420頁/原整理番号 595/整理ID 595
太守は八日の参内を不快で断り、翌九日九ツ頃に参内、土州老公も同様だったとする。堂上や尾越老公・松平紀伊守の八日の参内、摂政らの参内取止、有栖川帥宮の総裁、太守・仁和寺宮・山階宮らの議定、長州・三條公らの入洛、太守の九門・六門警衛と藝・土・大村・大洲の加勢を記す。慶喜の将軍職辞退、官位降等や領地減を含む協議と、十二日まで未決着との報告も収める。次に取止・参与分、総裁・議定・参与の名書を掲げ、藩ごとの三人の表示と、別掲の参与個名を区分する。末尾は王政復古の趣意を聞き、重大事・外夷は衆議、通常の諸大名命令は両役、残りは諸侯上京後に決め、慶喜領地・京都取締を当分従前どおりとする命令。末日は卯十月十五日。参内報告、協議の見込、名書の区分と命令を分け、日付を推測で変更せず、名書を全員の任命完了や総人数に換算しない。
年月日未詳 / 冊子 94~95頁/原整理番号 65
戦場御供之人数として67名分の項目を列記し、うち御道具衆6名・御小者2名・御馬取3名を区分する。鳴海覚右衛門尉と松下喜左衛門尉は御道具衆の人名である。末尾の貼紙は、慶長五年の関ヶ原退却時に道中を供した人数とみられる、と推定する。
寛政7年6月29日生・寛政9年3月7日夭亡(5日を忌日とする注) / 冊子 92頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0303
大信公の八男乗之助の出生・母・夭亡・法号・墓所を記す系譜抄。寛政7年乙卯6月29日に江府で生まれ、母は浪人杉浦作左衛門政信の娘とする。寛政9年丁巳3月7日に夭亡し、5日を忌日とする注を伴う。法号は天苗院殿玉質潤光大禅童子、墓は惠燈院と江府大圓寺に建てたと記す。目録は乗之助重豪男系譜抄で、独立宛名はない。次の系譜では母の父を杉浦作兵衛政信と記すため、呼称差を区別して残す。