本多正純書状
(慶長十五年)九月三日 / 冊子 292~293頁
慶長十五年九月三日、本多正純が島津家久に、具志頭の葬送が立派に執行されて満足したとの意向を了承した書状。葬送に尽力した彦坂九兵衛への礼状を届け、返事を取り次いだことも伝える。
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(慶長十五年)九月三日 / 冊子 292~293頁
慶長十五年九月三日、本多正純が島津家久に、具志頭の葬送が立派に執行されて満足したとの意向を了承した書状。葬送に尽力した彦坂九兵衛への礼状を届け、返事を取り次いだことも伝える。
二月廿六日 / 冊子 36頁
町田久倍が、出米と人別銭の処理について大野将右衛門尉へ指示した書状。石見九兵衛尉へ担当させ、石高に応じた出米量を定め、来月二日に京へ上る船へ積み込むこと、人別銭を早急に送って当地の京上衆へ渡すことを求める。
慶長五年三月十三日 / 冊子 523~524頁
伊集院忠真の降伏後、島津豊久が都城方面から帰陣したことを記す。各地の戦闘で三原九兵衛・野村藤蔵・坂元半兵衛・富山次十郎・前田大膳兵衛・野田覚内ら多数の家臣が戦死し、負傷者も数多かった。軍功により野々三谷を与えられたが、豊久は辞退した。
(寛永十一年)七月十一日 / 冊子 435頁
入来院重高が、支配未決着のため使者を下し、公儀への多額の出銀に伴う領内配当、借銀増加と諸士知行の上地を遅滞なく調えるよう家臣へ命じた書状。
年月日未詳 / 冊子 372~373頁
京都で将軍をはじめ本多上野守・山口勘兵衛尉・片桐市正・福島左衛門太夫らへ贈る馬・太刀・生紙・銀子・緞子・袷・生絹帷子などの品目と数量、馬代を受取人別に記した島津氏の進物注文。
寛永廿一年九月二日 / 冊子 192~193頁/原整理番号 115
十月十五日付、加久藤から山奉行所への返書。命じられた御狩倉の書上と御用木留帳を調えて差し出したと報告する。御狩倉の書上は支配所からも必要と聞いて提出したと付け加える。
(明暦元年)八月八日 / 冊子 263~264頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0575
久茂が国元役人五人へ、綱久から太守光久への書状一通を送る。国元の静謐を察し当地も無事と報じる。綱久が鳥を拝領した礼使として三原九兵衛が到着したが、芝の姫の疱瘡により登城を遠慮したため、今月朔日の綱久登城に合わせ九兵衛も出して奉書が出たという。
年月日未詳 / 冊子 341頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0731
明暦三年六月五日、島津綱久の子・忠顕が玉利九兵衛の娘を母として誕生し、後に忠智・幸寿丸・権十郎・市右衛門・筑後と称し、家臣島津又助忠清の後嗣となったことを記す記事。
2月26日 / 冊子 375頁/原整理番号 188-11
二月二十六日、町田羽入久倍(存松)が大野将右衛門尉・蒲地伊賀入道へ、太守の田布施下向、出米、京上船、人別銭について指示した書状。太守は来月二日に田布施へ下向し、三、四日間は当地の八幡宮へ社参する予定なので心得ること、石見九兵衛尉へ命じて処理させることを伝える。出米について一石につき二升および一升五合の記載を示して確定内容を確認させ、来月二日に京上船が入る予定と通知する。さらに今回の人別銭を早々に送らせ、当地の行衆へ渡すよう命じる。
三月四日 / 冊子 364頁/原整理番号 430-1
天草出役に伴い、阿久根町浜の水手女房百十二人へ、延べ八千三百五十二日分の跡飯米として先掻粟三十四石六斗六升を渡すよう、廻文に従って田上九兵衛・小幡主膳正へ命じた寅三月四日付の手形。
明和二年二月十八日 / 冊子 63頁/原整理番号 181の17/整理ID 181-17
松平内蔵頭家の中村善右衛門・長谷川九兵衛と、松平大炊頭家の舟橋源太左衛門・笹生彦五郎が二月十八日、筒井大和守から届いた廻状と書付写一通を同席の諸家へ送る。内蔵頭・大炊頭へ申し聞かせたところ、各家へ伝達するよう命じられたため、写を廻すという。各家から個別に返答するには及ばず、通達が済んだ後に連署者らから筒井大和守へ届けると述べ、数通の廻状を作成して持廻りさせる。後書には、嫡子や隠居がいる家では、その附衆まで伝達するよう求める。宛先欄は留守居宛を列挙し、薩摩守・陸奥守については国元へ申し聞かせ、相模守については国元へ申し越す旨の注記がある。
安永二年十月二十五日(年・月日は朱) / 冊子 394~395頁/原整理番号 1108/整理ID 1108
師範を日順に列記する。冒頭の剣術は、初日に川上庄八郎、二日に川田彦七と菱刈新五兵衛、三日に川上庄八郎、四日に町田佐次右衛門。鎗は梅田九左衛門、長刀は佐久間勘左衛門で、両家は隔日とする。馬は初日に東郷長左衛門と平田平右衛門、二日に高田茂太夫、三日に伊集院理安。弓は初日に東郷藤右衛門、二日に田由喜助、三日に大山角四郎、四日に木藤太郎右衛門と和田源太兵衛。ここまでを「右人数剣術并居相前稽古所」と記す。続く剣術并居相後稽古所は、初日に大脇主右衛門・野崎次郎左衛門・小野郷右衛門、二日に東次郎左衛門、三日に有川彦左衛門、四日に加藤九兵衛、五日に鈴木彌藤次とする。同じ日の括りにある師範は同日担当として並べる。末尾は別紙三通のとおり命じられたので通達する旨、朱の安永二年十月二十五日、藤野休左衛門に良記の注。前後の稽古所、武芸の別、日順と隔日の安排を記す。
年月日未詳 / 冊子 722~724頁/原整理番号 749の2
天草への御供人数を肝付九兵衛以下、各人・御馬・御中間衆・小者・加子に分けて列記する。原頁の続きには五枚帆船・四枚帆船と船頭室田利左衛門、久玉参着・天草への回船を記す。編者は今数えると94人で、本月十一日指出の主従106人に対して12人不足し、原書の切断で氏名が見えないか脱漏した可能性を注記する。目録749の2に対応する。
万治二年十月十五日 / 冊子 27~28頁/原整理番号 32
加久藤側の三名が山奉行の三原九兵衛へ、飛札を受けて御狩倉付と御用木留帳を調べ、書付を差し出したことを報じる。御狩倉付は御支配所の用向きでもあると添える十月十五日付書状。
八月 / 冊子 287頁
大川平久兵衛が八月付で松下為右衛門へ出した書状。図書老・出雲守父子の命で高麗の軍記が編纂されていることを知り、高柳好左衛門行文に大川平源太左衛門の戦死記事を書いてもらった経緯を説明する。先の書状へ写して送るよう命じられたため、老眼で見苦しいながらも書写して送付すると述べる。
年月日未詳 / 冊子 335~341頁/原整理番号 310
十四日、島原・天草一揆勢と唐津勢が小嶋子・本渡・富岡周辺で交戦した経過を、渡海、鉄砲戦、追撃、敗走、城への退却の順に詳述する。双方の組頭・侍・足軽、討死者、鉄砲・武器配当を列挙し、富岡籠城の防備と戦闘の被害を総括する。
年月日未詳 / 冊子 346~347頁/原整理番号 314
十四日未明、一揆勢が小島子へ押し寄せ、油断していた唐津勢が敗走した戦況を記す。富岡へ退いた残兵と筒城を守った人数、三宅藤兵衛以下の討死者・守備者を列挙する。
年月日未詳 / 冊子 407~408頁/原整理番号 371
『平田宗直船賦留』所収の出船指示。十三端帆三艘・十一端帆二艘・十端帆一艘・六端帆一艘の船頭・水手数と上乗を列記する。鹿児島町太兵衛尉の六端帆船は大坂への商買帰りに片浦へ来ており、他の運賃船も上米の積込を終えながら順風がなく滞在していると説明する。天草出兵の人衆乗船として米を積んだまま出水へ出すこと、残る運賃船にも同様に出船を命ずることを記す。
天文7年、天正7年、慶長5年、承応3年、万治2年12月、天和3年7月18日、宝永2年、正徳5年、享保13年7月1日、元文元年10月2日、文化2年ほか / 冊子 293~296頁/原整理番号 114
上祖不詳で直重の裔族とする三原藤次流の系図。三原藤次は日新公に仕え、天文七年、日新公と島津実久の抗争時に加世田城で戦死し、その後の伊豆守は貴久公の納殿役を務めた。重長は貴久公の御荷内役・御納戸奉行を経て本府へ移り、牛根地頭職と三百石を与えられ、天正七年に家久が佐土原へ移封されると家久の家臣・家老となった。重長の二子は一人が山田城で、藤七が慶長五年に豊久へ従って関ヶ原で戦死したため、垂水の川崎内膳良光の嫡子・重正を後嗣に迎えた。重吉は山奉行となり万治二年に二百九石を知行し、般若院行者堂造営では普請奉行を務め、重時は御納戸奉行・物奉行、重矩(後の経明)は高奉行・御普請奉行寄役・小番を歴任した。後代は重共・経儔・経福・経豊・経載へ続き、児玉家への養子、長崎・入江・児玉各家との婚姻、出生・初見・分家時の四十八石などを記す。
万治二年十月七日 / 冊子 27頁/原整理番号 30
山奉行方が横川から穆佐までの曖衆・行司衆へ、各見廻の山鹿倉数について六月十九日の廻文で報告を命じたのに未提出であるとして、急ぎ差し出すよう催促する。あわせて御用木改留帳の提出も求め、遅延を戒める。
文書日付:慶長貳丁酉年三月廿一日 / 冊子 366~367頁/原整理番号 五九二/整理ID TMP-P02-NENE4F-D0592
田畠・屋敷などの知行地と、御加扶持の分を列挙する。 田方五段九畝十五分・八石一斗七升二合、畠方一町貳反三せ一分・十一石八斗九升四合と記す。 惣合一町八反貳畝十六分、分米廿斛六升六合の知行を村山源兵衛尉へ遣わしたことを証する。 野久尾加賀右衛門尉重忠と根占掃部助重張が署判する。
二月廿九日 / 冊子 771頁
寛永十五年二月二十八日未刻、肥前有馬春之城の本丸で討ち取った首級を列挙した注文。是枝喜右衛門尉が田中九兵衛を討ち取った例など、首主・討取相手・同道者を組み合わせて記す。
二月廿九日 / 冊子 241頁/原整理番号 333-25
山田新九郎が、本丸下石垣角から塀下へ進み、寺本八左衛門・長谷川仁左衛門の鉄砲射撃後、平野太郎四郎らと塀の破口から乗り込んだ経過を坂崎清左衛門へ申し出たもの。木戸口から敵を追い、太郎四郎らが一人を突き伏せたこと、自身も槍を取替えて長谷川と蓮池端を防いだこと、家への放火後に先へ進んで梅原九兵衛と会い、夜半まで留まったことを述べる。
年月日未詳 / 冊子 317頁/原整理番号 352
寛永十五年二月二十八日未時、肥前国有馬原城本丸で討ち捕った首の注文。立会人は平田弥左衛門尉・出水衆伊尻三郎右衛門尉。家名不知の首一つのほか、是枝喜右衛門快温の被官春田九兵衛、同道具之者才蔵、定加子与次右衛門尉、市作、権介について各首一つを掲げ、合計六首となる。目録年月日欄は空欄である。編者注は『旧記雑録後編五』二一五四号文書と同文とする。