伊作庄雑掌下司申状
文保三年六月日 / 冊子 322~323頁/原整理番号 74
伊作庄の雑掌と下司が、阿多郡北方の地頭隠岐三郎による庄域への押領・越境を訴える。寄進状・立券状などを根拠に、相手方の申立てと証拠を審理し、庄領を保全するよう求める文保三年六月の申状。
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文保三年六月日 / 冊子 322~323頁/原整理番号 74
伊作庄の雑掌と下司が、阿多郡北方の地頭隠岐三郎による庄域への押領・越境を訴える。寄進状・立券状などを根拠に、相手方の申立てと証拠を審理し、庄領を保全するよう求める文保三年六月の申状。
文保三年六月日 / 冊子 468~469頁
伊作庄雑掌法橋承信・下司高純が、入来別符の隠岐三郎らによる越境押領を訴えた申状。阿多郡北方一分地頭隠岐三郎が境を越え、荘内の安富・塩道・狼野・年礼などへ侵入したと主張し、御成敗、奉行人交替、旧境への復帰と押領停止を求める。
正応五年十一月卅日 / 冊子 370頁
『伊作家久長譜』所収で、正文は手鑑にある。本文はNo.958と同文のため省略される。内容は、伊作庄日置北郷の領家と地頭・下司名主両職者が所務相論を和与し、下司名主職、地頭得分、宮内伊与倉名半職、田所惣公文屋敷田畠、寺田・井牟田・田神田などの知行と返付を条別に定め、奉行人が後日の証文として加判したもの。
正応五年十一月卅日 / 冊子 370頁
『伊作久長譜』所収で、正文は巻本にある。本文はNo.957と同文のため省略される。内容は、島津庄薩摩方内伊作庄日置北郷の領家と地頭が所務相論を和与し、桑代、検断、地頭得分、雑掌・下司による抑留、建治・弘安年間の年貢米と諸負担、寺社勤、入藍などを条別に定め、違背・訴訟を止めて双方が返付・弁済することを約したもの。
正平12年10月5日(1357、同文参照)~永和3年10月28日(1377)の記事 / 冊子 431頁/原整理番号 13-3
冒頭は『諸家系図文書』10の5号文書と同一のため、正平十二年十月五日付島津師久書状を省略する。参照先は加治木合戦中の師久が牛屎左近将監へ援軍を求めた書状である。続いて康安元年九月二十六日、牛屎左近将監高元が一族、和泉下司諸太郎兵衛尉政保、隅州馬越藤四郎行家、肥州芦北七浦等の一族と同心し、官領武州の合戦に関して肥後路で約三年間戦った軍歴を記す。永和三年十月二十八日には将軍家方として四十五人が一味同心の一揆契約を結び、そのうち当家一門七人として高元、羽月石見守元豊、山野左衛門尉元詮、牛屎河内守元息、太田沙弥元清、青木沙弥元生、鳥越隼人佑義元を列挙する。系線は元息(法名祖英)から元勝(同彦太郎・法名聖元)へ続く。
元応元年九月廿日 / 冊子 470頁
伊作庄雑掌承信・下司高純らの入来別符境重訴について、隠岐三郎行雄が度々の催促に応じないため、訴状の実否を起請文に載せて注進するよう在国司入道殿へ命じた鎮西御教書。
元応元年十一月三日 / 冊子 471頁
伊作庄雑掌承信・下司高純らの境相論について、八月廿日・九月廿日付御教書を確認し、一瀬弥次郎入道見仏を通じて急速に明申する旨を答えた二階堂行雄の請文。
元応二年二月八日 / 冊子 472~473頁
阿多北方地頭代沙弥見仏が、伊作庄雑掌承信・下司高純らの入来別符越境押領訴訟へ答えた請文。隠岐三郎行雄方は建長年中以来の境界・知行であり、阿多北方は大宰府領で伊作庄と領家を異にすると主張。古境・塩道上毛夜木瀬・和田名内橘牟礼狼野津などを挙げ、押領を否定する。
元応二年十一月六日 / 冊子 476頁
伊作庄雑掌頼秀と下司高純が、正和元・二年分の領家年貢を争った鎮西下知状。高純は京都へ納めたと主張したが証明できず、訴状・陳状・領家米未進を検討し、未納年貢の弁済と関東御教書の執行を命じる。
元亨三年五月日 / 冊子 495頁
島津宗久代沙弥道慶が、伊作庄下司頴娃高純は正和元・二年分領家年貢を弁済せよとの下知に違背し、年貢を久しく怠っていると訴えた重申状。前年十一月の下知どおり弁済させ、違背を厳重に裁許するよう求める。
元亨三年五月廿九日 / 冊子 495頁
伊作庄領家年貢の重訴について、正和元・二年分を先の下知状どおり弁済し、不履行なら早く注進するよう下司高純へ命じた鎮西御教書。
元亨三年七月日 / 冊子 501頁
島津宗久代沙弥道慶が、伊作庄下司頴娃高純は正和元・二年分領家年貢を弁済せよとの下知・追下知に違背していると重ねて訴え、先例どおり厳重な裁許を求めた申状。
嘉暦四年九月廿七日 / 冊子 565~568頁
日置北郷弥勒寺庄下司宗太郎真忠と管郷一方地頭大隅左京進宗久の大規模な境界・所務相論を裁いた鎮西下知状。伊与倉河・白帆湊・河登田橋などの両方境、下地・年貢・異国警固、建治・弘安以来の下文・御教書・和与状を逐一検討し、偽文書や非法な押領を退けて旧境と所務分担を定める。
文治四年十月日 / 冊子 322頁/原整理番号 73
薩摩国寄郡内の殿下新御庄について、伊作郡と外小野を含む四至を立券する。東西南北の境界を列挙し、下司らの署判を伴う文治四年十月の伊作庄立券状。
年月日未詳 / 冊子 318~321頁/原整理番号 166
島津国史の抜書が、師久の碇山城での抗戦と新田宮からの出兵伝承、肥前早湊の地頭職をめぐる幕府の下文・恩賞を記す。足利直冬方や官軍との戦争、薩摩・大隅の凶徒に対する足利義詮らの教書、市来氏・東郷氏・渋谷氏・牛屎氏・和泉下司らとの合戦を年代順に集める。木牟礼・尾崎・知色・櫛木野などの救援と攻略、負傷者・戦死者、師久の謙辞と謝状、守護職や所領授与を載せる。延文・康安期の筑前や肥後での戦いまで遡ったのち、貞治二年の守護職伝授、康暦二年の死と鹿児島五道院への葬で結ぶ。
本文末尾:觀應二年四月二日 / 冊子 666頁/原整理番号 〇三六/整理ID TMP-OF-P04-D036
前年十月、田所が上洛して国の不審を注進したところ、路次の難儀で途中から帰り、年貢等を京進できなかった事情を申告する。 前年の注進状進上にも言及し、右衛門次郎等と御敵の件、伊集院助三郎入道の領内に居住する者の件を報告する。 急ぎ御脚力によって国不審等を申し上げる旨を記し、惣公文重圓・田所代梁應・下司道智・収納使承覺が連署する。
元亨三年七月九日 / 冊子 499頁
正和元・二年分伊作庄領家年貢について、先の下知どおり弁済させ、不履行なら起請文に載せて注進するよう渋谷新平次へ命じた鎮西御教書。
元亨三年七月九日 / 冊子 500頁
No.1349と同文であるため本文を省略した、伊作庄領家年貢の返済・起請文注進を命じる鎮西御教書の別本。
目録年月日記載なし / 冊子 133頁/原整理番号 4-12
「按図田帳云」などの抜書として、伊作郡・日置北郷・南郷内外の村や町数を列挙する。伊作郡の田数、本郡司や地頭の担当、和泉郡の町数、合計の計数を記し、右衛門尉と相伝に関する季安の注記を添える。前後の「旧記抄」に続く所領一覧の部分である。
本文文書日付:文保三年六月日 / 冊子 616頁/原整理番号 一一八/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-D0118
平高純の申状案は、伊作庄での境・所務をめぐる訴えを記す。 「被與奪安富三郎方」と「被召上彼隠岐三郎」を記す。 阿多郡北方・打越往古境などの経緯と、当庄の領家について述べる。
年月日未詳 / 冊子 37~38頁
「島津国史」所収記事。忠久の出自、丹後局、頼朝への奉仕、三国守護・島津荘下司職などの由来を諸説・史料によって論じる。
元暦二年八月十七日 / 冊子 48頁
源頼朝が惟宗忠久を島津御庄下司職に補任した下文。庄官・住民に補任を承知させ、領家下文と先例に従って庄務・年貢収納を執行し、違失なく下司職を勤めるよう命じる。
文治元年十一月十八日 / 冊子 49頁
島津庄領家が庄官らへ、鎌倉御下文に従って惟宗忠久を下司職として受け入れるよう命じた下文。忠久の指示に従い、庄内の所務・年貢沙汰を執行させ、補任を妨げないよう求める。
年月日未詳 / 冊子 49~50頁
伊地知季安がNo.93の領家下文について、文書の年月・領家大夫三位家・近衛家との関係、島津御庄下司職成立の事情を諸史料で考証した。
年月日未詳 / 冊子 50~51頁
「島津国史」所収記事。島津御庄の成立・領域、近衛家領との関係、惟宗忠久の下司職補任と三州支配の由来を諸説・古記録により論じる。
年月日未詳 / 冊子 51~53頁
『西藩野史』の島津忠久伝。平氏追討後に忠久が頼朝へ奉公し、島津荘下司職、信濃国塩田荘地頭職、薩摩・大隅・日向三州の守護職を得たとする由緒を叙述する。忠久の元服・婚姻、鎌倉での奉公、義経追討期の頼朝方の動き、所職の継承に関する記事を諸説とともに載せる。
正応二年十一月十七日 / 冊子 358~359頁
島津庄薩摩方内伊作庄の領家雑掌と地頭代らが所務相論を和与した文書。年貢米、百姓の身代・逃亡、弘安九年貢、領家米、検断、寺社役、地頭補任以前の所務、狩倉・井牟田、下司給、未進米などを条別に定め、双方が違背せず返付・弁済することを約す。
正応五年十一月卅日 / 冊子 369~370頁
伊作庄日置北郷の領家と地頭・下司名主両職者が所務相論を和与した文書。下司名主職、地頭得分、宮内伊与倉名の半職、田所惣公文屋敷田畠、寺田・井牟田・田神田などの知行と返付を条別に定め、奉行人が向後の証文として加判する。
永和元年九月廿二日 / 冊子 87~88頁
足利将軍家が、島津範忠の播磨国布施郷下司職などについて、亡父忠兼が観応二年正月二十四日に受けた御下文に従い、忠兼跡として沙汰付けるよう命じた御教書。
文明三年十一月十日 / 冊子 473頁
足利義政が島津忠光に、播磨国布施郷の地頭職・下司職・公文職を返付し、領知するよう命じた下文。
明応八年六月廿七日 / 冊子 576頁
室町幕府奉行が、播磨国布施郷の地頭職・下司職・公文職について、島津氏の先祖以来の権利を認め、島津四郎へ返付して従前どおり領知するよう命じた奉書。
年月日未詳 / 冊子 303頁/原整理番号 119-5
薩摩国図田帳から前内舎人康友の所領と職掌を抜き出した抄録。牛屎院内の木崎十五町では名主、同国鹿児島内の府領社七町五段では下司、公領百九十七町では郡司として康友を掲げ、文治から建久頃に領主となったと記す。鹿児島の箇所には『郡』字脱落かとの傍注があり、『旧記雑録前編一』205号文書と同一とされる。
正徳三年九月十六日 / 冊子 1~3頁/原整理番号 1-1
田中国明・川上久儔は、御前の略系図を本系図と照らし、島津家の官位・下司の付記と女性の称号をどう記すか伺った。家久以降に重ねて記した従五位下を除き、光久以降の無官者から下司を外し、女性の「簾中」を原則「夫人」に改める案を示す。朱書は官位の「権」の字を補うことや、亀姫・満君は近衛家久の簾中と記すことなど、各項目の扱いを指示する。
元暦二年八月十七日 / 冊子 314~315頁/原整理番号 59
領家大夫三位家の下文に従い、左兵衛少尉惟宗忠久を島津荘の下司職に任じ、荘務に従事させるよう命じる。元暦二年八月十七日付、頼朝花押の下文として収める。
年月日未詳 / 冊子 315~316頁/原整理番号 60-1
季安が前項の頼朝下文を検討する。元暦二年の忠久の年齢、庄務・下司職の呼称、島津荘の領家と宛所を照らし、伝来文書の記載と年代の整合性に疑問を示す。
康永元年四月十日 / 冊子 321頁/原整理番号 69
島津道鑑の代官得貴が、島津荘の所領・下司職をめぐる旧下文と鎮西の御教書を挙げ、証拠の採用と早期の沙汰を求める。康永元年四月十日付の申状。
安政四年五月 / 冊子 457~465頁/原整理番号 1
史館の大史として、所蔵の譜図・文書・重宝を調べて秘伝島津譜図を編むための序。道聖から聖榮らに伝わった古系図を基礎としながら、玉海・東鑑・百練抄・家伝を照合する。丹後局と比企氏・惟宗廣言、高倉王・北陸宮との関係をたどり、忠久の皇統との関係を論じる。重忠の加冠と賜名、鵜丸・吹丸・鳩作・小十文字などの護剣、島津庄下司・地頭職の授与と西国下向を検討し、諸系図の年齢・出生年・就封年の誤りを指摘する。末尾では文献の不足と旧説が繰り返される問題を述べ、山田為正らと広く史料を集めて道聖の古説を探り、諸書への質問と校訂を重ねた経緯を記す。
萬延元年十月 / 冊子 466~474頁/原整理番号 3
前稿を改めた秘伝島津譜図の序。道聖の伝承と聖榮自記を基礎に、丹後局・皇妹璋子・高倉王・北陸宮の関係を組み合わせ、忠久を皇統に結びつける説を展開する。玉海・東鑑・百練抄・古文書を引き、出生、加冠・賜名、護剣の授受、島津庄官・下司・地頭の沿革を論じ、余白の割注でも年次や呼称を検討する。諸系図の就封年が符合しないこと、田中らの譜略と官本の誤り、史官が旧説を踏襲したことを指摘する。安政四年五月の起稿後、翌年の浄写・補訂の命令と七月の主君の死を記し、山口直記に命じた史料購入と前稿修復を季安が再度補訂したとして、萬延元年十月に署名する。
年月日未詳 / 冊子 497~519頁/原整理番号 7-2
島津忠久の伝記を古系図・家伝と玉海・東鑑・山槐記・百練抄・寺社記録などで考証する。冒頭に廣言集の伏見行幸歌を挿入し、丹後局と惟宗廣言・比企氏の関係、忠久を高倉王の子とする説、住吉出生・狐火・三宮の呼称を検討する。以仁王の敗死後の出家と逃亡、頼朝挙兵と鎌倉入、法師房丸から忠久への元服・賜名、北陸宮と義仲、鵜丸・吹丸・鳩作・小十文字などの護剣を年代順に記す。島津庄の領家・庄官・下司・惣地頭・守護と弁済使の関係を、下文・家譜・税制や各地の所領に即して論じ、山門院・木群城への就封と随従者を挙げる。奥州征討の先鋒、軍紀と賜名、庄内訴訟と本地頭の所領回復、阿多・菱刈などの諸氏をたどり、家人・乳母・婚姻関係を整理する。頼朝の死、比企能員の変と守護職復帰、寺社造営、学僧、承久の戦死者、忠久の出家・死と丹後局の葬送までを記す。割注は年齢・出生年・元服年・官職名・異名・母方の食い違いを指摘し、古系図の皇統説と後代の記録を比較する。末尾には丹後局像の供養と願主を記した御像裏書の写しを添える。
元暦一年十一月廿八日 / 冊子 558頁/原整理番号 1
元暦元年八月十七日の頼朝下文。領家大夫三位家の下文により、左兵衛少尉惟宗忠久を島津庄の下司職として庄務を行わせる旨を庄官へ命じる。季安の頭注では領主の近衛基通、鎌倉で沙汰する下司職と職名を説明する。
元暦一年八月十七日 / 冊子 559頁/原整理番号 2
元暦元年十一月廿八日の三井寺への寄進状。平家没官領で院から給わった若狭国の所領一か所を、寺の仏法を崇めるため寄進する。下司職は鎌倉が沙汰すると定め、前右兵衛佐源朝臣(頼朝)が署す。
本文末年紀:建長七年十二月廿五日 / 冊子 650~651頁/原整理番号 〇五/整理ID TMP-OF-P04-D005
伊作庄預所側の重宗代盛景法師(刊本小字「法名淨空」)と、下司側の則純法師(刊本小字「法名念西」)代孫有純の相論条々を記す。 下司職について双方の申述と提出文書を検討し、常陸後家への召問を経て「可爲領家進止焉」と述べる。 続く惣公文・田所両職、給田、未進、作田、収納等の十五箇条を列挙する。 下司職が領家成敗である上は「非沙汰之限矣」とし、将軍家の仰せによる下知と記す。
本文末尾:暦應參年二月三日 / 冊子 665頁/原整理番号 〇三三/整理ID TMP-OF-P04-D033
薩摩国伊作庄下司職半分・名田等の預置を扱う良秀奉書。 寺原入道道惠が領家に不忠であるとして所職・名田等を没収し、その跡を道願へ預け置く旨を伝える。
年月日未詳 / 冊子 38~39頁
『西藩野史』巻三の島津忠久伝。記事は忠久を源頼朝の長子、母を比企能員の妹・丹後局とし、北条政子の嫉妬を避けて伊豆から播磨国住吉へ逃れた局が、治承三年、宿泊を拒まれた末に住吉明神社傍の石上で忠久を産んだと伝える。大雨の夜に狐火が母子を照らしたため稲荷神を氏神としたとの由来、頼朝が児を三郎と名づけたこと、丹後局の帰東と惟宗広言との婚姻、畠山重忠による元服と「忠久」命名、島津荘下司職や薩摩・大隅・日向三州の支配に関する由緒を叙述する。一方、『東鑑』その他の記録と年齢・年代を照合し、元服時三歳説などを否定・疑問視しており、惟宗姓・島津称号と所職獲得の由来を、異説を挙げながら史料批判的に検討した記事である。
年月日未詳 / 冊子 47頁
「島津譜略」。元暦二年、七歳の忠久が頼朝の命に応じて鎌倉へ赴き、元服・加冠、婚姻、島津庄下司職や三州の支配に関わる由緒を記す。
元暦二年八月十七日 / 冊子 48頁
No.89と同文として本文を省略した島津御庄下司職補任下文の重出。惟宗忠久を下司職に補任し、領家下文に従って庄務と年貢収納を行わせる内容で、季安の注記を添える。
正応五年十一月卅日 / 冊子 368~369頁
島津庄薩摩方内伊作庄日置北郷の領家と地頭が所務相論を和与した文書。桑代、検断、地頭得分、雑掌・下司による抑留、建治・弘安年間の年貢米と色々の負担、寺社勤、入藍などを条別に定め、違背・訴訟を止めて双方が返付・弁済することを約す。
元亨四年八月廿一日 / 冊子 522頁
伊作庄領家方と地頭方の和与成立に伴い、日置御文書、文治寄進状案、建長御下知案、伊作下司有純起請文案など五通を相互に書き渡した書渡状。
(文明三年)十一月十日 / 冊子 473~474頁
室町幕府奉行の国通・貞秀が、播磨国布施郷の地頭職・下司職・公文職を島津忠光へ返付したため、年貢・公事を忠光へ納めるよう名主・沙汰人に命じた連署奉書。
文明三年十一月廿七日 / 冊子 474頁
室町幕府奉行が赤松兵部少輔に、播磨国布施郷の地頭職・下司職・公文職を島津忠光へ返付する命令を施行するよう求めた連署奉書。