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HP-1287巻10:192注記付き公開可

HONPAN JINBUTSUSHI · SOURCE ARTICLE

島津久元

異名・検索語:島津久元/島津下野守久元/信竜丸/新八郎/島津忠長/島津忠倍/島津忠将/新納忠真/宮之城/島津家久/島津光久/家老/大坂の陣/島原の乱/高山地頭/土井利勝/島津義弘/茶道/天正九年/寛永二十年/大道寺鉄心宗昆大居士

試験導入中の史料別人物解説です

この解説は『本藩人物誌』の記事内容を整理したもので、一般的な人物伝や他史料を含む史実認定とは区別してください。今後の精読・原画像照合により更新される場合があります。

注記付き公開可

未確定事項:生年の天正十年本文と九年朱記・校注の異同。/名乗り注細字、朝鮮・関ヶ原御供の具体年次、十七年出生時の養目付様の役名は確定説明に入れない。

DESCRIPTION

本文内容説明

島津下野守久元は忠長の二男で、母は島津忠将の娘。串良に生まれ、新納四郎忠真の養子となったが、慶長十四年に兄忠倍が没すると父の家督を継いだ。宮之城一万三千六百六十石を領し、同十九年に二百七十二人を率いて大坂へ出陣。元和四年、家久の家老となり、江戸供奉、犬追物の検見、光久元服時の理髪、桜田邸での将軍饗応を務めた。肥後国替えの動員や島原出陣にも従った。家久病中に遺言を受け、没後、上使の香奠・医師派遣に対する御礼使として江戸へ赴いた。光久の家督継承と遺領安堵に関わり、土井利勝を介して家久の遺物を献上した。義弘から茶湯を伝授された。寛永二十年六月十三日没、六十三歳。墓は宮之城大道寺。生年は天正十年の本文に九年とする補記・校注があり、異記を留保する。

系譜・人物関係

忠長の二男、母は右馬頭忠将の娘。新納四郎忠真の養子。兄忠倍の早世後に父の家督を継承。旧説明の養父名忠正は忠真へ訂正。

奉公・役職

慶長十四年忠倍早世で父忠長の家督相続。十五年六月馬越地頭、十六年十月鹿児島への移住朱注。十七年十二月家久御子出生の節に養目付様の役名。十九年大坂出陣二百七十二人、東郷十か村を返地し家中を宮之城へ移し一万三千六百六十石。元和四年家久家老、五年供奉。元和七年犬追物検見・寛永元年光久元服理髪の朱注。寛永七年四月桜田饗応、九年肥後国替動員、十四年高山地頭で島原出陣。

軍役・事績

寛永十五年二月、光久の江戸から島原下向時、家久病気で帰国に御供。同月二十三日家久逝去前に久元と伊勢貞昌へ遺言。上使能勢小十郎が香奠白銀千枚を持参し、病中には医師派遣を受けたことへの御礼使として久元が江戸派遣。香奠使は久元ではない。光久への家督授与・家久遺領安堵に関わり土井忠利(利勝)の宅で相付、家久遺物を献上。

生没・法名等

寛永二十年六月十三日卒、六十三歳。法名大道寺鉄心宗昆大居士、墓宮之城大道寺。鉄心宗昆の四字は寛永十七年頃絶同和尚付与という注。没地を墓所から推定しない。 生年は本文十年・朱九・校注異記を留保。

統合人物ID
HP-1287
原人物ID群
10-192-01
氏・分類
島津
掲載巻頁
巻10:192
主題・活動
系譜・奉公・役職・軍役・生没
人物関係要約
忠長の二男、母は右馬頭忠将の娘。新納四郎忠真の養子。兄忠倍の早世後に父の家督を継承。旧説明の養父名忠正は忠真へ訂正。
検索キーワード
島津久元/下野守/忠長/忠倍/新納忠真/串良/宮之城/家老/光久/大坂/島原/大道寺/鉄心宗昆/能勢小十郎/御礼使
公開区分
注記付き公開可
精読・確認状況
AI用PDF全2頁を追加精読し原冊192頁と照合済み
公開判定根拠
AI用PDF全2頁・原冊を追加照合。養父名と御礼使の役割を訂正。生年等の異記・細字を注記し、記載箇所へ案内できるため注記付き公開可。
説明作成区分
AI用PDF全頁追加精読・原冊照合
本文境界判定
上段〇島津下野守久元から下段〇鉄心宗昆四字の法名由来注まで。AI1頁末光久公とAI2頁冒頭江戸ヨリが連続。次久通を含まない。独立人物混入なくPDF修復・新番号不要。
判読保留
生年の天正十年本文と九年朱記・校注の異同。/名乗り注細字、朝鮮・関ヶ原御供の具体年次、十七年出生時の養目付様の役名は確定説明に入れない。

出典:『鹿児島県史料集 第13集 本藩人物誌』