支配所社家屋敷目録抄
寛永十一年二月廿三日 / 冊子 411頁
松山郷正若宮八幡の神主・社家屋敷八か所について、検地帳に載せながら先例により免許し、門前田畠などには軍役・諸役を課すことを記した支配所社家屋敷目録の抄録。
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寛永十一年二月廿三日 / 冊子 411頁
松山郷正若宮八幡の神主・社家屋敷八か所について、検地帳に載せながら先例により免許し、門前田畠などには軍役・諸役を課すことを記した支配所社家屋敷目録の抄録。
年月日未詳 / 冊子 223頁/原整理番号 333-2
二月二十七日、永良弥角・入江八郎兵衛・小林勘太夫・佐田長三郎の四名が、三の丸一番乗りは自分たち四人であったと連署して申し出たもの。四名は仕寄の当番中、鍋島勢の指物が三の丸へ乗り入る様子を見たところ、その時点では誰もいないので三の丸へ乗り入るよう教えられ、四人も乗り入ったと述べ、自分たち以外に三の丸一番乗りはいないと主張する。
年月日未詳 / 冊子 45頁/原整理番号 66
『平塞録』は、二月朔日に江戸上使の酒井因幡守・駒木根長三郎が島原へ着陣し、一揆の大将益田四郎太夫が書付で一揆中へ持口の不用心を申し渡したと記す。上使到着時、公儀から先手の大名衆へ炮烙火箭70挺・楯100枚を貸し下げ、大名が有馬へ着陣して大軍となった。攻め手が籠城側を偵察し、四郎太夫が城中へ厳しい書付を示して必死の覚悟を伝えたという。編者は、この書付が諸記録や細川源光公から三斎への書中にも見えるため省略し、蛮語で意味を取りにくい文体だと評する。
11月27日 / 冊子 425頁/原整理番号 396の1
十一月二十七日、舟頭次右衛門と平兵衛尉・伊左衛門・長三郎・対馬・弥右衛門の合計六人を掲げる。市来湊から立てた浦水手として受け取るよう、永山覚兵衛尉・三原源右衛門へ申し送る。前文書の次右衛門船の舟頭・加子の人数と対応する。
11月22日 / 冊子 400~401頁/原整理番号 362の3
十一月二十二日、片浦から立てた浦水手の受取を命ずる送状。船頭壱岐・蔵右衛門・市右衛門・弥九郎と宇兵衛尉以下を列記し、第一群を三十二人とする。さらに助之丞・与介・惣五郎・弥右衛門・三右衛門尉・神介・少右衛門・杢之介の八人を別に掲げ、永山覚兵衛尉・三原源右衛門へ受取を申し付ける。
11月27日 / 冊子 425~426頁/原整理番号 396の4
十一月二十七日、串木野から立てた水手五十五人を列記し、三原源右衛門・永山覚右衛門へ受取りを命ずる。助兵衛尉・吉兵衛・惣右衛門から作左衛門・孫市までの五十五記載が本文の合計と一致する。助七・太郎作・次兵衛尉など同名が重複する箇所も名簿上の別記として保持し、推定で統合しない。