壱岐賀州年代記
年月日未詳 / 冊子 760頁
天文七年、新納氏の没落後に四郎兄弟が日新方へ加わり、十二月二十九日の加世田城攻めで大寺越前守・鎌田加賀守・右馬頭忠将が軍功を立てたことを記す。
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年月日未詳 / 冊子 760頁
天文七年、新納氏の没落後に四郎兄弟が日新方へ加わり、十二月二十九日の加世田城攻めで大寺越前守・鎌田加賀守・右馬頭忠将が軍功を立てたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 774頁
天文八年三月二十八日、日新公が川辺古殿へ赴き、高城主鎌田加賀守の降服を受け入れたこと、四月朔日に本城へ戻って新納伊勢守に凱歌を教えたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 772頁
天文八年三月十三日の紫原合戦で敵軍を討ち取った後、平田宗秀の城からの申請を受けて本城へ進み、伊集院方の城を攻略した戦闘経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 763~764頁
島津勝久の鹿児島帰還後の政情と家臣処罰を背景に、忠良方が加世田城を攻めた経過を記す覚書。島津貴久・忠将、鎌田加賀守らが城内へ攻め込み、敵兵を追撃した一方、味方武士も戦死した。攻城の進路、城内戦、追撃までを当事者の記憶に基づいて伝える。
年月日未詳 / 冊子 766~767頁
天文七年十二月二十八日、忠良・貴久・忠将の父子三人が雪中に加世田へ出陣し、道中で垂れた蜘蛛の糸を三人そろって見たことや、夜半の鐘声を記す。忠将を大手口の大将として攻め、敵の反撃を受けながら諸将が救援し、新城では未明までの激戦の末に城兵を討ち取って落城させた経過を伝える貴久公記。
年月日未詳 / 冊子 167~168頁
島津家久が前年晩秋に江戸へ初参府した際は真福寺を旅館としていたが、徳川秀忠から芝の宅地を与えられたため、鎌田政在を作事奉行として江戸屋敷を普請させ、本多正純の指示を求めたことを記す系譜記事。
(慶長十三年)五月二日 / 冊子 169~170頁
慶長十三年五月二日、本多正信が島津家久に、喜入摂津守を介した年頭祝儀が披露されたことを伝え、禁裏用材の調達、南蛮・唐船への対応、江戸普請で鎌田政在と相談して遺漏なく進めるよう求めた書状。
(慶長十三年)七月十日 / 冊子 175頁
慶長十三年七月十日、山口直友が島津家久に、江戸屋敷普請の使者が帰国し、鎌田政在が普請を進めていること、伊勢兵部が駿府で家康へ拝謁したことを報告し、自身は城番等で動けないため駒沢忠左衛門を添えたと伝えた書状。
巻一/冊子 7~8頁
天文八年、貴久・忠良方が溪山方面を攻め、敵方の本城・神前・高城などを順次服属させた経過を記す。溪山駿河守・伊集院山城守・松崎丹後守らが降り、高城主鎌田加賀守も帰順したため、忠良は新納伊勢守らに城地を預けて支配を固めた。六月、貴久は自ら市来へ進み、平城を容易に破って陣所とし、大日寺前の合戦では喜入忠俊・樺山善久・蒲生宮内大輔らが奮戦して勝利した。入来院重聡も援軍を率いて来陣し、佐多・頴娃・蒲生・種子島・肝付・禰寝・伊地知ら諸勢力が加勢した。続いて伊集院忠明らの調略により串木野城・市来本城が帰順する。敵方の新納常陸守らについて忠良は、実久の暴虐に従っただけとして護送・保護を命じ、恩をもって怨みに報いたと評価する。