久永某外五名連署請取状
寛永六年三月廿六日 / 冊子 92頁
久永源兵衛ら六名が、進上された大小の角石合計百本を確かに受け取ったことを連署して証明した請取状。
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寛永六年三月廿六日 / 冊子 92頁
久永源兵衛ら六名が、進上された大小の角石合計百本を確かに受け取ったことを連署して証明した請取状。
承応二年十二月十五日 / 冊子 241頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0499
伊地知主膳正に付けられた松坂金右衛門と家族三人が当地へ移ったため、新納加賀守方の人別帳から除くよう大口衆へ求め、切支丹宗門ではないことを保証した人別請取手形。
天和2年6月14日 / 冊子 423頁/原整理番号 10-3
弁官新右衛門親盈が淵辺弥兵衛へ、文治三年五月三日付頼朝判物の内容と伝来を説明し、希望に応じて写しを進覧した天和二年六月十四日付副書。判物は薩摩国住人・牛屎院司大秦元光代の下文で、牛屎家の嫡女である加藤金右衛門妻が男子を欠いたため系図・文書を所持し、当時は加藤辰之助家に伝わっていたとする。親盈はこの一通を祖母から授与され、実家が牛屎と同姓であることを述べる。
2月20日(年未詳、同文参照)~万治元年(1658)の記事 / 冊子 431~437頁/原整理番号 13-5
冒頭は『諸家系図文書』10の7号文書と同一のため島津忠国書状を省略する。参照先は忠国が牛屎へ、菱刈方から詳細を聞いて早く来訪・決断するよう催し、対面を望んだ二月二十日付書状である。久元(牛屎越後守・法名光久)は永享十年の福昌寺仏殿造営勧進で、羽月元忠・山野頼元・北原久兼ら八十七人とともに馬一疋分の代銭を奉加した。歓元(同越後守・法名光秀)は文正二年梅雨吉日に牛屎家系図一巻を作り、薩摩守陳元から元親までの系譜を収め、文正元年から文明九年までの島津家系図・覚書も伝えた。応仁元年、牛屎院の兵乱で一門が日向真幸院へ移り、北原家との親族関係を頼ったこと、元親が大隅守・法名梅岳源春を称したこと、重元が永正六年に六十余歳で鷹書一冊二十五枚を書いたことを記す。天文十二年三月二十七日、実元は牛屎家先祖を覚書や本朝の大家系図と照合して記し、宗実兄弟が源頼政嫡子・仲綱の娘を母とし、建久七年に頼朝の恩免を受けて遠流先の薩摩へ下向し、羽月・山野・平泉を与えられ、子孫が牛屎・淵辺を称したとの家伝を載せる。元継の女子は兄弟不和のなか系図・文書を保持し、国分御前様に仕えた後に加藤金右衛門へ嫁いだため古文書が加藤家へ伝わり、頼朝御教書は公用のため提出されたとする。淵辺主計元継は慶長・元和の上地や宮越との田地争論で知行を減らし、寛永頃には約十石となった。弥兵衛は家に凶事が多く繁昌しないため母方の淵辺へ名字を改め、肥後の聖山伏を氏神として正宮・荒神宮に祀ったとし、元亀三年五月四日の真幸院における義弘と伊東家の合戦で五十四歳で戦死した。元秋は栗野に生まれ、父の戦死後に飯野・栗野を移り、伊東・大友との戦いを経て天正十五年豊後で戦死した。重綱は井手石氏の養子となり川上忠智に仕え、肥前深江・筑州岩屋城・朝鮮で戦い、朝鮮で左手を負傷して退き、加治木・鹿児島へ移って八十四歳で没した。元貞は父元秋の戦死後、十三歳で義弘に召し出され、吉松鶴丸村二十五石と栗野木場村三十石、計五十五石を与えられた。十五歳で義弘に従って朝鮮へ渡り、忠恒に近習・小姓として仕え、良右衛門の名、包清の脇指や衣裳を拝領し、のち帖佐・平松・加治木・鹿児島へ移住して、万治元年に百二十三石を持って隠居した。
「寛永十九年」七月廿九日 / 冊子 203~204頁
板倉周防守ら八名が島津光久へ、金山拝領に伴い金子二千両を和泉守のもとへ持参して受け取らせることを伝えた連署書状。あわせて先に相談のあった南蛮人をこちらへ差し越す件を了承し、念を入れて移送するよう求めている。
安永九年七月~安永十年正月九日(使節出発は安永九年八月二十七日) / 冊子 600頁/原整理番号 1697/整理ID 1697
大納言家基公の凶報が前年九月に琉球へ届き、安永九年七月、中山王尚穆は渡嘉敷親方に弔書を持たせて薩府へ送った。重豪は新番の岸良貞右衛門兼平を継使、歩行士の遠矢金右衛門良起を宰領とし、軽卒二人を添えて八月二十七日に本府から江戸へ発たせた。一行は十月四日に江戸へ着き、十一日に兼平が月番老中阿部豊後守正允と御側用人水野出羽守忠友へ重豪の副簡と尚穆の弔書を呈した。十一月十九日、月番老中田沼主殿頭意次が兼平に奉書を授け、忠友も留守居へ返札を授けた。新番千田七右衛門貞仲と歩行士郡山五郎兵衛員将が軽卒二人を伴ってこれを国元へ運び、二十二日に江戸を出発、翌安永十年正月二日に薩府へ到着した。九日、渡嘉敷親方を対面所に召し、家老・若年寄・大目付が列座する中、月番家老が趣旨を述べ、奏者番から老中奉書・忠友返札・重豪書を渡した。親方は琉球へ帰って尚穆に届け、先例に従い奉書と返札の写しを薩府へ献じ、真書を琉球に留めた。弔書を重豪自身が作成したとの記載ではない。
年月日未詳 / 冊子 58頁/原整理番号 54
天正六年九月十一日未刻、山東へ向けて発向した際の供奉次第を記す。御剣を本田紀伊守、御幡役を三原右京亮、旗指を色紙金右衛門が務め、鹿児島の人数まで召し連れ、まず諏訪社へ参詣して直ちに出立した。
年月日未詳 / 冊子 702頁/原整理番号 731
正月十五日九つ時に出水へ着き、翌日は米之津町人半左衛門の宿へ移ったと記す。叔父杢田清兵衛・伊地知金右衛門や肝煎酒匂吉右衛門の来着、喜入吉兵衛からの宿手当書状、弓・鉄砲・具足の名簿送付を記録する。飯米も十七日に届き、諸勢は十七・十八日までに出水へ集まり喜入の到着次第出船する予定で、日々城攻めの鉄砲音が激しく聞こえたと伝える。
年月日未詳 / 冊子 132~133頁/原整理番号 483
肝付次右衛門家の系図。弥五介に実子がなく、肝付金右衛門尉兼利の嫡男を養子とした由緒を記し、その伝右衛門尉が万治元年九月八日に没し、法名を光徹芳清としたとする。伴九郎弥五介は島津義弘に供奉して朝鮮で戦死した。以下、兼頼・兼広・兼近らの分岐、女子の婚姻、養子、出生・死亡年月日と法名を列記する。
年月日未詳 / 冊子 703~704頁/原整理番号 733
国分士杢田十左衛門家蔵の島原出陣人数賦。町田甲斐守以下、各人の主従人数と鉄砲・鑓・弓・具足、鍬・斧などの携行品を列記する。末尾に合85人(うち18人自身立)、合134人披官と記し、杢田十左衛門景親に請うて採録したと結ぶ。
年月日未詳 / 冊子 78~79頁/原整理番号 17-6
鹿児府衆中高究之帳から松崎杢右衛門入道の高七十五石を掲げ、同人と後継の貞綱の家歴を続記する。慶長十八年の江戸質開始に、杢右衛門入道は島津義弘の姫の上洛代官として役人十人を伴い、六月二十四日に鹿児島を出発し、十一月十六日に江戸桜田屋敷へ入った。四年間勤め、本文に『元和元年丙辰(ママ)』とある四月に暇を得て、御盃と小袖を拝領して六月七日に帰着した。元和五年から蔵入代官を務め、同六年の質様下向時にも谷山で代官となり、島津下野守久元への祝儀まで処理した。寛永十二年十一月二十五日に八十四歳で没し、幼少時に父貞充と伯父貞清を戦死で失いながら家を中興したとし、法名を覚翁宗泉と記す。貞綱は天正十六年正月二日生まれ、指宿左近女を妻とし、元和三年・七年の島津家久上洛と日光参詣に供奉し、能書として知られ、寛永十年七月十一日に四十六歳で没して法名を松屋常青とした。
年月日未詳 / 冊子 412~413頁/原整理番号 154
相良義陽が大友と結び、阿蘇惟前と朴之河内に城を置いて、高城を囲み大口を取ろうとした。忠元は大口を守り、五月十三日に忠堯と平田又次郎らを攻撃に出した。又次郎と本村士介・國田掃部が奮戦して死んだが、十五日には城を抜き取った。早水・山下らにも功があり、末尾では針野・岩年礼に塁を築いて東駿河守らを置いたと記す。
年月日未詳 / 冊子 419~420頁/原整理番号 164
天正八年五月、忠元が大口に接する相良領寶川内を攻め、忠堯と城へ入った平田又次郎ら三人が討死した。忠元は重康・重賢を誘って伏兵を置き、敵を討った。城主らは城を捨て、朴野・岩年礼も領地となった。続いて隈本方への援軍と内通、阿蘇方との対立を記す。十月十五日の矢崎攻めで忠元が丸田ら敵を討ち、翌日網田が降伏した。十一月の合子戦では忠元父子らが働き、百三十余人を討ち取って帰陣したとする。
年月日未詳 / 冊子 137~138頁/原整理番号 33
元禄十三年の年頭御座配を、二日・三日・四日ごとに左右の席や内座も含めて列記した記録。島津一門、新納・佐多・喜入らの配列に加え、病気・在江戸・幼少などで進上しない者、着座せず太刀を進上する者を注記する。末尾の考証は座配が定められた年代について記録所に照会したが確証を得られず、伝聞と既存の書付を比較している。
正保三年十二月二十四日 / 冊子 62~63頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0118
罪を得た島津久章を河辺の寺から谷山福泉寺へ護送する際に出役した新納久親が、肝付兼佳らとともに死んだことを記す記事。関係者として金八・稲弥太・星原孫十郎・坂口金右衛門を掲げる。
本文年月日未詳 / 冊子 234頁/原整理番号 13
色紙金右衛門長光の譜から、元亀元年に御旗役を命じられ、義久の出陣に従い軍功を挙げた経緯を引く。鎧の拝領にも触れ、旗役を務めた色紙家の由緒を示す。