祢寝重種軍忠状
延文二年五月日 / 冊子 6頁
祢寝重種が、延文元年十月の加治木城合戦と翌年正月の救仁郷胡麻崎城攻めでの軍忠を申告した。楡井頼仲・頼重方の城を攻め破り、一族・若党ら数十人を討ち取ったとして、後代の証拠となる一見状を求める。
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延文二年五月日 / 冊子 6頁
祢寝重種が、延文元年十月の加治木城合戦と翌年正月の救仁郷胡麻崎城攻めでの軍忠を申告した。楡井頼仲・頼重方の城を攻め破り、一族・若党ら数十人を討ち取ったとして、後代の証拠となる一見状を求める。
(慶長四年)九月廿二日 / 冊子 440頁
高橋重種が羽柴少将島津忠恒に、風説を受けて不意に上洛し、使者の口上を承知したと返答する。内府が寺沢志摩守・小西摂津守に現地を見舞わせ、その状況を近国衆へ知らせて出陣させるよう命じたため、寺沢の報告を待ちながら近方の衆と出陣準備を整えると述べる。
十月六日 / 冊子 349~350頁
十月六日付の三原重種書状。水俣の将屋や肥後方面へ人員を遣わし、筑川・高瀬への到着、上使への出迎え、家中衆五人と馬の手配などを報告する。
慶長十八年九月廿四日 / 冊子 414頁
慶長十八年九月二十四日、鬼界島内荒木本横目浦治の高十石を宛行い、知行について別途召し出し・扶持する旨を記した伊勢貞昌・三原重種連署知行目録。
(元和元年)十二月廿四日 / 冊子 615~616頁
年末の挨拶と連絡を述べ、関係する調達・精算は銀子でなければ整いにくいとして、追って詳しく申し入れる旨を伝えた三原重種の書状。
(元和元年)十二月廿九日 / 冊子 616頁
相良勘解由を介して下された書状を拝見したことを述べ、伝達された用件に応答して年末の挨拶を申し送った三原重種の書状。
年月日未詳 / 冊子 708~709頁
三原重種が、松齢自貞庵主(島津義弘)の往生と遺徳を悼み、仏法、涙、秋草、月、鐘の音などを題材に詠んだ追悼和歌。
四月十八日 / 冊子 156頁
島津久元と三原重種が本田源右衛門に、蒲生御城米の究帳を早急に差し出すよう命じた連署書状。算用奉行衆から度々催促があり、今月中に算用を済ませる必要があるため、これ以上の延引がないよう厳命する。
十月六日 / 冊子 374頁
上使一行の水俣・肥後から筑後川、柳瀬、熊本を経る行程と、翌日ごろ安元へ着く見込みを報告する。上使が途中では輿を用い、騎馬の内衆五人、供の京衆六十余人を伴うことなど、迎接準備に必要な情報を伝えた三原重種書状。
十二月廿九日 / 冊子 374~375頁
相良勘解由を通じて書状を拝見し、御座所を建昌へ移す件が佐州まで伝えられたことを報告する。差し迫った時期でも鹿児島で辛抱するのがよいとの意見と、上州へ相談したうえで駿府から詳細な指示が来る見込みを伝えた三原重種書状。
慶長十九年六月廿七日 / 冊子 529頁
薩摩国大口里村内の浮免二石七斗を井之上喜左衛門尉へ知行として宛行い、公役を勤めるよう命じた三名連署知行目録。
慶長十八年九月廿四日 / 冊子 414頁
慶長十八年九月二十四日、琉球統治について、使者・港湾、渡唐船頭、官人・支配人、兵具規制、王子・官人子弟の人質、日本人・商人、年貢銀などを列記した連署覚書。
慶長19年7月23日 / 冊子 615頁
隅州栗野内木場村の知行目録について、慶長十九年に伊勢貞昌・三原重種・比志島国貞の三名が連署して確認した文書。 天正期の知行関係を後年に再確認した可能性があり、土地権利の継承と家中行政を追う材料となる。
年月日未詳 / 冊子 36頁
島津家久譜の記事。島津忠恒が、帰国に関する謝礼、平戸に漂着した琉球船の件、領内を検分したものの命令に応じ得る大船がなかった件などを伝えるため、三原諸右衛門尉重種・喜入吉兵衛尉久洪を使節として駿府および淡路国岩屋へ派遣し、各所で事情を述べさせた。詳細は本多正信・久永源兵衛尉・向井将監・山口直友の返報に見えると記す。
(慶長十年)十一月二日 / 冊子 36頁
本多正信が島津忠恒からの詳しい書状を拝見し、上方で両御所への奉公を無事終えて帰国したことを喜んだ書状。朱珍二十端の贈答に礼を述べ、当地の様子は三原重種・喜入久洪から聞くよう伝え、白鳥一羽を添える。
慶長十一年三月二十七日 / 冊子 61頁
慶長十一年三月二十七日、島津忠恒が芸州から高崎へ赴いて船に乗った際、上国から帰る三原諸右衛門重種の使者に会い、情勢を記した書一通を託して国元へ返したことを記す島津家久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 340頁
島津家久譜の記事。御用材献上による参勤免除について板倉勝重から通知を受け、家久が山口直友・三原重種らを使者として差し出し、幕府へ謝意と事情を報告したことを記す。
(慶長十六(八)年)六月廿九日 / 冊子 340頁
慶長十六年六月二十九日、山口直友が島津家久に、参勤免除と使者派遣に関する申し入れを取り次ぎ、三原重種の口上や幕府年寄との折衝、今後の返答を報告した書状。
年月日未詳 / 冊子 532頁
慶長十九年、山口駿河守直友が長崎で耶蘇教徒の取締りに当たり家久へ報告したため、家久が三原重種を遣わして労をねぎらい、現地の状況に対応させたことを記す家久譜。
(慶長十九年)七月十五日 / 冊子 532頁
慶長十九年七月十五日、山口駿河守の現地到着を知った島津家久が、三原重種を先に派遣したことを伝え、有馬方面の情勢を尋ね、必要な人数は注進次第で差し向けるとした書状案。
年月日未詳 / 冊子 711頁
七月二十七日、巡検使大橋親正が肥後水俣から比志島国貞・三原重種へ書状を送ったことを記し、その本文を次号に掲げる島津家久譜の記事。
元和八年五月廿五日 / 冊子 780~782頁
『山何』を賦題として、島津家久をはじめ重長・重種・宗可・喜庵・貞守・紹嘉・宗繁・祐昌・忠通・重商らが、春秋の景、月、花、旅、山里、海などを詠み継いだ長編の連歌。
元和十年二月廿二日 / 冊子 811~814頁
元和十年二月二十二日に島津家久らが催した「賦何木」連歌。春の花、舟、雲、月、旅、秋、露、雪、草木、恋などを題材として、家久・紹嘉・重種・祐辰・貞守・尚演・重長・喜庵・宗可・幸相らが百韻を連ねた作品。
三月十九日 / 冊子 380頁
相良新右衛門・三原重種を介して伝えられた諸件、とりわけ替衆の件を承知して準備したが、京都から重大な指示が相次いだため少し遅れていると説明し、近く渡海すると伝えた島津龍伯書状。
年月日未詳 / 冊子 830頁
某自記は、慶長七年八月一日に島津忠恒が鹿児島を出立し、北郷三久らを従えて日向野尻に滞在した経緯を記す。十七日に伊集院忠真とその兄弟・母らを各地で誅殺し、上洛へ向かった。
慶長十六年十月廿三日 / 冊子 352~353頁
慶長十六年十月二十三日、町田久幸ら四名が連署した領内統制の条書。殺人犯・不審者、宿泊、賭博、役人の私用、寺社・土地、年貢、農作、検地、薪炭、商船・通行人などの取扱いを細かく定める。
(慶長十七年)三月廿二日 / 冊子 358頁
慶長十七年三月二十二日、町田久幸ら四名が、琉球駐在奉行、年貢・納物、買物法度、渡唐船と銀子持出し、日本人宿泊、米積船、浦添在宅、高麗人、関東へ差し出す女性などを定めた覚書。
慶長十九年六月廿七日 / 冊子 529頁
薩摩国大口里名内の浮免五石余を長谷川刑部左衛門へ知行として宛行い、その高に応じて公役を勤めるよう命じた三名連署知行目録。
慶長十九年六月廿七日 / 冊子 529頁
薩摩国大口牛尾村および同案原村内の浮免、合計十七石余を後藤善介へ知行として宛行い、公役を勤めるよう命じた三名連署知行目録。
慶長十九年六月廿七日 / 冊子 530頁
宮里越中守へ五石余の知行を宛行い、その高に応じて公役を勤めるよう命じた三名連署知行目録。目録は島津久元譜にも収載される。
慶長十九年七月廿三日 / 冊子 533頁
慶長十九年七月廿三日、隈州肝付郡串良岡崎村内の浮免二石三斗四升二合を上之御諏方の神領として寄附し、同社に領知させ、今後の神事・公役を怠りなく勤めるよう命じた連署寄附状。
慶長十九年七月廿三日 / 冊子 533~534頁
大隅国肝付郡串良岡崎村内の浮免五石を下之御諏方へ宛行い、その高に応じて公役を勤めるよう命じた四名連署宛行状。
慶長十九年七月廿三日 / 冊子 534頁
高山盛光寺の社家領について、所領を知行として宛行い、その高に応じて公役を勤めるよう命じた四名連署知行目録。
慶長十九年七月廿一日 / 冊子 535頁
高岡光孝寺の知行を宛行い、寺役を滞りなく勤めるよう命じた四名連署知行目録。
年月日未詳 / 冊子 540頁
児玉利貞譜。慶長十九年、島津家久が正龍寺へ揖宿郡内の寺領百八石八斗余を与え、四国老が目録を作成して授けたことを記す。
(元和五年)七月廿七日 / 冊子 711頁
大橋親正が、島津義弘死去の報に接した驚きと哀悼を述べ、島津家久の心痛を気遣い、追善供養と家中への慰問を依頼した書状。
(元和七年)三月十二日 / 冊子 766頁
島津久元・町田久幸が国元重臣へ、島津家久の子息が息災であること、上州老から贈物が届いているので後便で礼を述べること、御道具衆を早く差し上せることなどを追って伝えた連署状。
六月廿四日 / 冊子 154頁
喜入忠続らが諸所の地頭・衆中に示した連署の法度。近年、衆中が生活難などから方々へ離散しているため、地頭へ届けず在所を離れた者は知行を召し上げて御内から離し、私に御内を離れて他人へ奉公する者は重罪とする旨を命じる。
慶長十九年七月廿三日 / 冊子 649頁
慶長十九年七月二十三日、明石川喜之内の高十四石を淵辺主計助へ宛行った知行目録。三原重種・伊勢兵部少輔・比志島国貞・町田久幸が連署する。本文には編年位置を誤った文書との注記がある。
慶長十九年七月廿三日 / 冊子 649頁
慶長十九年七月二十三日、所定の浮免高一石余を直松作右衛門へ宛行った知行目録。三原重種・伊勢兵部少輔・比志島国貞・町田久幸が連署し、編年位置を誤った文書群に含まれる。
慶長十九年七月廿三日 / 冊子 649頁
慶長十九年七月二十三日、浮免高三石一斗余を小嶋吉兵衛へ宛行った知行目録。三原重種・伊勢兵部少輔・比志島国貞・町田久幸が連署し、編年位置を誤った文書群に含まれる。
年月日未詳 / 冊子 711~712頁
八月四日、江戸から相良頼豊・上井里兼が、献上材木積載船の着岸、家久の妹の帰国許可、家久の姪の縁組などを喜入忠政・比志島国貞・三原重種へ報じたことを記す家久譜の記事。
(元和七年)六月廿八日 / 冊子 772~773頁
伊勢貞昌が喜入忠政・三原重種へ、島津家久が六月二十七日に大坂へ着き、相次ぐ注進を受けて翌朝江戸へ急行したことを報告した。また和子入内の供奉、大坂普請での巨石運搬と費用、家久進上材木の利用などを伝えた書状。
建武三年十一月廿一日 / 冊子 673~674頁
大隅国弥寝孫四郎重種が、伊東藤内左衛門尉祐広・肝付八郎兼重以下の凶徒追討のため日向国へ参陣した着到状。大田城・宮崎城・南郷等で味方と合戦し、家人の被疵・討死を伴いながら軍忠を尽くしたとして、披露・証判を求める。
暦応四年九月日 / 冊子 742~743頁
祢寝重種が薩摩国凶徒退治のため、伊集院平城・阿多郡加世田別符などへ発向し、押寄・合戦に参加した経過を日付順に述べ、討死・負傷を含む一族の軍忠について証判を求めた軍忠状。
暦応五年九月日 / 冊子 751頁
祢寝重種が薩摩国凶徒退治のため谷山郡へ発向し、五月五日・七日・十三日などの合戦で助三郎忠国以下の凶徒と戦った経過を述べ、証判を求めた軍忠状。
元亀二年~四年 / 冊子 303頁
中山主計介・中山綱幸・中山源次綱吉・湯前対馬守・橋口半七郎・四藤清右衛門・米良美濃守・肥田木三郎兵衛らが、野心なく二心を持たず島津氏へ奉公すると誓った同文の起請文群。元亀二年から四年にかけての日付と各人の署名・判を列記し、違反時の神罰を誓う。
年月日未詳 / 冊子 167頁
島津家久が母・実窓芳真大姉の一周忌に不斷光院へ参詣し、追善句を純誉上人へ与えた。阿弥陀像と母の影像を造らせて寺へ安置し、念仏三昧と開眼供養を行い、以後も毎年忌日に参詣したことを記す系譜記事。
慶長十六年九月十日 / 冊子 342~343頁
慶長十六年九月十日、琉球の各島から毎年納めるべき上布・下布・芭蕉布・綿・莚・皮などの品目と数量を列記し、樺山久高らが連署した納物目録。
慶長十八年三月廿日 / 冊子 393頁
慶長十八年三月二十日、日向国飯野杉津留村のうち高二十石と屋敷一つを伊勢兵部少輔貞昌へ宛行い、今後加増する旨を記した三名連署の知行目録。