入来院重朝譜
年月日未詳 / 冊子 827頁
『入来院重朝譜』が、入来院石見守重朝が近年に攻略した諸城と軍功を列挙し、島津貴久との抗争から講和へ至る経過を記す。さらに島津勝久方との従前の関係、領内支配と家の立場の変化を示し、重朝が渋谷一族の勢力を維持した事情を伝える。
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年月日未詳 / 冊子 827頁
『入来院重朝譜』が、入来院石見守重朝が近年に攻略した諸城と軍功を列挙し、島津貴久との抗争から講和へ至る経過を記す。さらに島津勝久方との従前の関係、領内支配と家の立場の変化を示し、重朝が渋谷一族の勢力を維持した事情を伝える。
閏七月十六日 / 冊子 146~147頁
入来院重朝が入来院尾張守に、敵味方の動向と境目の警固について報じた書状。又八郎兄弟への扶持や本瀬越中の雇用を相談し、麓の用心が必要として内手衆に働きかけ、足軽二、三十人を翌日派遣すると伝える。あわせて馬一疋を贈り、適切に扱うよう頼む。
年月日未詳 / 冊子 331頁
菊池重朝の使節立田某らが島津方を訪れた際の滞在記録。寶満寺・光明寺への参詣、舟遊びと漁猟、廣濟寺での禅僧との交遊を経て、聖祐・存忠らと対面した一行の行程を追い、使節接遇に宗教行事と遊興が組み込まれていたことを示す。
九月廿日 / 冊子 467~468頁
細川勝元が島津陸奥守に、大内新介の分国である長門・周防への発向を伝え、大友豊後守と相談して速やかに軍功を挙げ、菊池重朝を先に攻めるよう求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 826頁
天文十四年、入来院石見守重朝の攻勢に対し、新納忠元が伊牟田左衛門・春山越中守・川上十郎左衛門らと蔵城へ入った合戦記事。少数の兵で守備を組織し、城兵を指揮して敵の攻撃を防ぎ、城を守り抜いた忠元の判断と戦功を記す。
年月日未詳 / 冊子 827頁
天文十四年八月、入来院重朝の攻撃に対して新納忠元らが城を守り、難儀しながらも奮戦した勲功を記す。
正月廿八日 / 冊子 185~195頁
入来院氏領内の給地を、給地人ごとに田畠・屋敷・門・浮免などの地目と町・反・升単位の面積で列記した反町付帳。家臣団に加え寺社領・神領なども記し、末尾で田畠五百六十一町余、籾大小二万二千八十七俵余と総計する。入来院氏の知行構成、家臣団編成、寺社領と村落景観を復元できる基礎史料。
天文元年十二月吉日 / 冊子 713~714頁
薩摩郡平佐城退治に際し、入来院重朝が清色城堀口井手の地を松林寺同宿中へ寄進した一家文書。平重副・樺山融久・山口木工左衛門尉らが関係し、城中の安穏と武運長久を祈念して、寄進地の守護・祭祀と妨害排除を寺側に依頼する。
年月日未詳 / 冊子 335~336頁/原整理番号 20
重朝の家譜が、重朝は近年多くの城邑を取って武功を挙げたが、東郷・祁答院以下の国人が多く背反し、重朝にも同意の疑いがあったため、貴久はたびたび戒めたと記す。改心しないとされ、翌天文十四年八月八日に郡山城を攻めた。郡山城は先に勝久が重朝へ与えた城だったという。
正月20日 / 冊子 762~763頁/原整理番号 811
十七日付書状を受け、山田民部少輔の有馬使者派遣後の指示や三老間の相談、吉田次郎兵衛の使者派遣を伝える。黄門の病状が悪く、看病と使者対応が重なって諸事の細かな調整が難しいと述べ、霜月以来の腫物・痰血・吐血、四日頃からの息苦しさと食事低下を報じる。市来八左衛門・川越三右衛門との連絡を求め、軍衆・水手三万ほどの一か月兵糧のうち二十日分を既渡のため、人数を減らすよう天草の四名に相談する。
年月日未詳 / 冊子 299~300頁/原整理番号 117
野辺氏が別に伝えた系譜の中に秩父系図が載るとして、その古系図を抄録したもの。秩父別当武基から武家・武綱・小机六郎基家へ分かれ、武綱の流れを河崎平三大夫重家、重国、渋谷庄司光重、重助へ、秩父権守重綱の流れを重弘・重能・重忠、河越次郎大夫重隆、小山田別当有重、江戸四郎重継、稲毛三郎重成・榛谷四郎重朝へつなぐ。編者注は本文書を『家わけ七』野辺文書二十四号文書の抄録とみる。確認用画像後半二頁には『諸家系図 巻之五』の巻扉・目次と、次巻の『蒲池氏系図文書』『惟宗姓執印一族系譜』の見出しが、巻末から次巻への移行領域として併録される。
年次・月日不記(島津忠隆の代) / 冊子 582~583頁/原整理番号 93
島津忠隆の代に渋谷氏が鹿児島へ参上した際の座配を示す記録。『主居』には忠隆と入来院又五郎重朝・伊地知周坊入道・祁答院又次郎、『中居』には東郷弥次郎と椛山藝州入道長久を配し、続く『上下』には高城秋月・伊地知縫殿助などの名を記す。人物名を単純に一直線の序列として並べたものではなく、主居・中居など席の区分と各区分内の配置を記した点が特徴。年月日・差出人・宛先は本文にない。
年月日未詳 / 冊子 334頁/原整理番号 15
大中様が伊集院にいた時、入来院重朝の背反により神殿村から兵を繰り出し、郡山城を攻めたと記す。援軍が出された後、忠元は郡山へ進んで山口某と戦い、その首を取り、折那山で献上した。十九歳の初陣で首級を挙げ、功名が認められたという。
年月日未詳 / 冊子 152頁/原整理番号 36
川越太郎重頼の三男重員を起点とし、重輔・重貞以下へ続く讃良氏の系図。重貞は修理亮を称し、河内国讃良郡を領したため讃良を号したと由緒を記す。貞與・重矩・重治、重純・重賢・重年、重寛・重朝・重高などの分流を示し、大膳亮・刑部太輔・土佐守・兵衛などの官途を添える。後半は重喬以下、貞盈・貞喬・貞能・貞敦・貞秀らを掲げ、貞秀について享禄年間の出生、母が和泉讃岐守女であること、島津貴久から宝刀を賜ったことを記す。末尾に貞行・貞資・貞勝・貞増、貞清・貞雄ら近世の子孫と善助・銀八・外記・七兵衛等の通称を載せる。
年月日未詳 / 冊子 334頁/原整理番号 16
忠元の年譜が、天文七年に忠勝の敗落で家臣が離散し、安萬も父祐久に従って田布施へ移ったと記す。十四年、大中公が伊集院にいた時に入来院重朝が背き、八月七日頃に神殿から兵を出して郡山城を夜襲した。忠元は諸将とともに城へ迫り、先に柵を登って山口某と刀で戦い首を取った。初めての従軍で槍傷を負い、その時は十九歳だったという。
年月日未詳 / 冊子 30頁/原整理番号 241
財部の米良周右衛門家に伝わった系図。隆直以下の系譜を掲げ、元寇の戦功と鷹羽紋の由来、後裔の動向や関ヶ原での戦死などを注記する。文政五年三月九日に写し受けた旨がある。
年月日未詳 / 冊子 334~335頁/原整理番号 17
島津貴久軍記が、渋谷一族の入来院方の兵士が合力し、貴久の母内田局に連なる家人の縁もあって貴久の威勢を頼んだと記す。貴久は郡山攻めの功を認めて伊集院内の郡山庄を与えたが、相手方が乱を企てたため、罪を認めさせて所領を没収した。さらに渋谷方や蒲生・加治木の勢力による騒乱にも言及する。
年月日未詳 / 冊子 336~337頁/原整理番号 25
大中様が清水にいた時、入来院・東郷・祁答院・肝付・蒲生の諸城主が謀って背き、吉田城を取る計画で忠元らを在番させたと記す。在番中はたびたび戦い、興慶寺前では忠元が大太刀で先に進んだが、馬場某も先陣を争った。敵方にも大太刀を持つ者がいたため、どちらが一番だったかを調べたという。このほか数年にわたって戦ったことを、六年弓箭と呼んだとしている。
年月日未詳 / 冊子 337頁/原整理番号 26
貴久が清水にいた時の吉田城合戦を漢文で記す。諸城主が背反したため、忠元・三原・山田・宮原・長野らを吉田攻めに出した。三月十七日に敵兵を退け、四月八日には興慶寺前で大戦となり、忠元は大刀を持って敵を攻め、上原長門らと敵将を追った。馬場某も奮戦して功を争ったが、忠元は大刀を持つ者が先鋒だったと述べたという。
天智8年10月、養老4年8月3日、天平9年4月17日、天長3年7月24日、貞観14年、寛平3年、天暦3年8月、天徳4年5月、延久2年、元弘3年、延文3年、貞治元年9月、応安4年・7年、文明11年 / 冊子 181~186頁/原整理番号 63
冒頭に『大河平系図ニハ』として、冬嗣以下の長良・良房・良相・基経の系線と養子関係に関する異伝を掲げ、続いて『藤原氏菊地系図』を展開する。天津児屋根命二十一世の藤原鎌足から、不比等・房前・真楯・内麻呂・冬嗣・良房・基経・忠平・師輔・兼家・道隆・隆家へ至る祖系を、官位・贈位・諡号・没年とともに記す。隆家の後裔では政則・則隆以下を掲げ、則隆を菊池領主とし、後三条院の延久二年に初めて菊池へ下向したとする。政隆・隆基・隆房以下から、保隆・経隆・経政、原田・天草・薩摩・村田・大河平・八代・佐野・赤星・西郷・平山・蛇塚・若宮などの諸流を分岐させ、官途・通称・婚姻・養子・家の継承を系線で示す。隆直の系では鷹羽を幕紋として『自是始大河平』と注記し、隆俊を大河平祖とする。武時は元弘三年に博多で戦死したとし、武光は南朝皇子良懐親王を将軍に奉じて少弐・大友らと戦い九州に勢力を振るい、貞治元年には九州惣司として下向した越前高経の二男氏経を撃退したと記す。武政は良懐親王を奉じて大明の聘使を通さず、今川了俊・大内義弘・足利義満らとの戦いを経て幸府へ退き、応安七年に降伏したとする。末尾は武朝・兼朝・持朝以下、為邦・為安・為光・為重らの近世前段の諸系線を掲げ、安光が文明十一年の重朝との筑後合戦で田尾美作守を討ち取って賞を受けたとの記事で終わる。