伊地知重房書状
十一月八日 / 冊子 576頁
伊地知重房が、代参者の選定と公家衆への依頼、節供に要する青銅・中紙の進上などについて指示した書状。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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十一月八日 / 冊子 576頁
伊地知重房が、代参者の選定と公家衆への依頼、節供に要する青銅・中紙の進上などについて指示した書状。
霜月八日 / 冊子 105頁
伊地知重房が澤永登に、正宮の小節供に伴う苦労をねぎらい、実施日は十一日がよいと提案した書状。代参の衆への指示を求め、入用として青銅一貫二百文と中紙一束三帖を送っている。
天正四年八月十九日・十月朔日 / 冊子 489~490頁
高原城合戦で天正四年八月十九日に戦死した三原重房・入佐郷久震・野村良綱・四本半忠次・宮原越中守らを列記する。続いて十月朔日の南郷合戦で戦死した新納忠氏・忠盈、安楽兼治・兼清らも収める。
慶長十六年五月 / 冊子 220頁/原整理番号 5
伊地知重房の琉球渡海日記から、慶長十六年五月十日に那覇へ着いた際、龍伯義久の死去を知らされ、船中の者が言葉を失い涙した記事を抜く。季安はこの反応から龍伯の徳を考え、続けて家久の遺骨を高野山へ運んだ別の先例を付記する。
年月日未詳 / 冊子 420頁/原整理番号 7
伊地知家の祖系から分かれた庶流十五系統を、分岐した代数・男子の出生順・祖の名や官途ごとに列挙する一覧。季随六男裳輪将野介流、季弘の二男左馬介・三男重貞・四男重春の各流、季豊三男重之流、持季流、小牟田小三郎流、重持二男左馬介流、重豊二男河内守流などを挙げ、後裔の伊地知姓称用、木工右衛門・刑部左衛門・淡路守・伊白らの通称、高岡士・飯野士などの居住・身分を付記する。重持二男流では重貞が家老職に補され後に誅され、嫡子重兼も同日に誅されたこと、弟越後守重房の系統が伊地知越右衛門へ続くことも示す。
年月日不記(歴代の記事に天平・慶長・寛文等の年次を含む) / 冊子 620~625頁/原整理番号 110
平姓福崎氏の系図で、元正・聖武・孝謙天皇らから高望親王以後の平氏に至る祖先伝承を置き、福崎氏の歴代と諸分流をつなぐ。冒頭には聖武天皇期の大仏造立や行基・宇佐宮に関する記事も挟み、後段では重国以下の武家系譜に官途、婚姻、養子、出家・早世を記す。重継を『日本国中無隠兵大力』と伝え、重房・重時らの系線には島津氏への供奉、日州宮崎への下向、摂津での居住を載せる。重明の条には薩州谷山の宝動寺建立、後代には高城・入来院・鹿児島などの居住や地頭・役職、加治木・吉田・島津家家臣との婚姻を記す。古代王統に遡る由緒と、移住・奉公・養子による武家の家系継承を一冊の系図に併記する点が特徴である。
建武元年十二月十九日 / 冊子 630頁
渋谷重氏の遺領をめぐり、定円・兄弟・一族が所領配分と知行条件を定めた連署和与状。鬼益丸ら関係者の得分や所務を列挙し、相互に違乱せず和与内容を守ることを約した。
年月日未詳 / 冊子 59~66頁/原整理番号 57
天正八年八月十九日の肥後芦北郡水俣城をめぐる三か国勢の陣立を記す。家久の先陣、忠平の中陣、義久の本陣に関わる大将・地頭・外城衆・御内衆を列挙し、武具奉行、旗本、手替、付衆、台所などの役人数を記す。本文の陣別小計は三万一千・三万一千・五万三千人で、末尾の十一万五千人に合う。多数の異本注に人名・人数・外題の違いがあり、季安の校合上の疑いも併記される。
応永19年(1412)~元禄12年(1699)の記事 / 冊子 409~419頁/原整理番号 5-1
前掲『平姓秩父氏略系図』の後裔を、重常・重時・重貞以下、重を通字とする薩摩藩士家へつなぐ詳細系図。応永十九年、島津久豊が大隅郡内の城々を攻略した後、田上城・牛根城・神川城・高城などを一族に与えた由緒から始め、各代の官途・地頭職・家督、婚姻・養子・分家、出生・死没・法号を記す。鹿屋・敷根・高城・志布志などの合戦、朝鮮出兵での戦死、島津忠昌・勝久・貴久・義弘らへの奉公、七島地頭三百石、富隈への移住、太刀・馬代の献上などを具体的に載せ、重行・将興・将種ら元禄年間の世代まで続く。冒頭には本田氏との縁組を禁じた家法の由来、途中には家伝文書焼失や寺院建立・菩提寺、支流ごとの居所と役職も書き込み、戦国期の地域軍事と近世家臣団編成を一家の系譜から追える。
年月日未詳 / 冊子 30頁/原整理番号 241
財部の米良周右衛門家に伝わった系図。隆直以下の系譜を掲げ、元寇の戦功と鷹羽紋の由来、後裔の動向や関ヶ原での戦死などを注記する。文政五年三月九日に写し受けた旨がある。
年月日未詳 / 冊子 360~361頁/原整理番号 64
菱刈重猛が伊東方と結び、三之山城が攻められた後、幼い鶴千代の所領処分を相談したことを記す。内応が続いたため島津方が飯野から馬越へ夜襲し、井手籠一族を討ち取る際、忠元も働いた。菱刈方は八城を放棄して大口へ退き、島津方は守備隊を配置した。大口は相良の加勢を得て市山へ攻め、守将らが討死した。忠元は大中から守備を命じられ、所領も受けたが、市山へ軍勢を移す下知が出た時の難儀も記す。
年月日未詳 / 冊子 374~375頁/原整理番号 83
菱刈重猛が伊東方と結び、重猛の死後も重任が幼い鶴千代を奉じて侵攻したと記す年譜。貴久は飯野から兵を出し、馬越を夜襲して井手籠一族二百余級を得た。忠元も槍で四人を討ち、貴久らは落とした八城へ兵を配置した。相良義陽の加勢を受けた菱刈方との戦いで、市山の守将らが戦死した。忠元は馬越から市山の地頭に移され、蒲生に采邑を与えられ、所属兵を率いて奉公したという。
成立年月日未確認:未確認 / 冊子 305頁/原整理番号 四二七/整理ID TMP-P02-NENE3-D0427
清重・清綱・清親以下の名と、「ちやくし」「いや」等の添え書きを列記する。 山本・宮原および「七日本光所四天日記」の区分にも人名を並べる。
年月日未詳 / 冊子 75頁/原整理番号 2
伊地知越右衛門家所蔵の『移徒之日記』について、忠昌の新蔵への移徒時に以前の記録を取り寄せて書き写した由来を記す。永正三年三月、伊地知八郎平重房の名を伴い、後の書入れは同家が五節供・椀飯の飾りや移徒の式に関する書物を代々伝えたことに触れる。