渋谷重成譲状
貞治七年八月六日 / 冊子 51~52頁
渋谷重成が子息松寿丸へ、薩摩国入来院清色南方、美作国河絵庄、相模国曽司郷、筑前国比伊郷などの重代相伝所領を証文とともに永代譲与した文書。複数国に散在する家領を一括して継承させ、松寿丸の知行権を保証する。
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貞治七年八月六日 / 冊子 51~52頁
渋谷重成が子息松寿丸へ、薩摩国入来院清色南方、美作国河絵庄、相模国曽司郷、筑前国比伊郷などの重代相伝所領を証文とともに永代譲与した文書。複数国に散在する家領を一括して継承させ、松寿丸の知行権を保証する。
貞治七年八月六日 / 冊子 52頁
渋谷重成が子息松寿丸に、入来院内市比野名主職、清色南方内本村北方、肥前国佐嘉下御領内の田地などを永代譲与した譲状。複数国にまたがる所領と名主職をまとめて示し、松寿丸を後継者として知行させる意思を明記する。
年月日未詳 / 冊子 188~191頁
西藩野史の記事として、応永七年以降、島津元久が鹿屋周防介忠兼を鹿屋院へ復帰させ、肝付氏一族の所領・城を処理したことを起点に、伊作久義、鶴田重成、渋谷氏らをめぐる三州各地の軍事行動と所領再編を長期的に記す。元久・久豊方の出兵、和議、離反、討伐と恩賞の経過を載せる。
(元和元年)六月五日 / 冊子 586~587頁
大坂方が敗れて真田氏・後藤又兵衛・木村重成・薄田隼人らが討死し、上方が泰平となったことを伝え、京都での滞在・上洛を祝した渡辺茂の書状。
貞治七年八月六日 / 冊子 787頁
渋谷重成が子息松葉丸へ、薩摩国入来院清色南方、美作国河会庄本郷下村西方、相模国渋谷庄藤意田在家立野三町・屋敷荒野、筑前国比伊郷の比丘尼跡などを譲る。母堂と父重勝からの相伝所領で、証文を添え永代知行と違乱禁止を定めた譲状。
貞治七年八月六日 / 冊子 787頁
渋谷重成が子息虎松丸へ、入来院市比野名主職、清色南方本村北方、肥前国佐嘉下御領吉松内の田地二町・屋敷などを譲り、各地の屋敷・田地の配分と相伝を定めた譲状。
寛永12年12月9日 / 冊子 236頁/原整理番号 174
加久藤川北村・長谷村の江唐人二人が罷登るとの届に対し、先月十九日朝申来候唐人に相違ないかを確認し、鹿児島へ送るよう命じる。松永善兵衛尉を召列参上させる旨を伝え、寛永十二年十二月九日、谷口重成・西田和泉守連署で結ぶ。
慶長廿年六月十一日 / 冊子 588~591頁
大坂夏の陣の戦況を記した文書。五月六日に後藤又兵衛らが討死し、伊達勢と眞田左衛門(真田信繁・幸村)が戦ったこと、翌七日に大坂城が落ち、秀頼・淀殿らが自害したことなどを詳述する。なかでも眞田を『眞田日本一之兵、いにしえよりの物語にも無之由』と評し、古今に例のない勇将として高く評価している。戦後の城内・首級・捕虜の状況、諸将の動向や恩賞・処置についても記す。
6月17日 / 冊子 12~13頁/原整理番号 11
白坂篤豊が、薩摩の麦作が良好との報を喜ぶ一方、上方では五月中旬以来の日照りで田畠が枯れたと伝える。加藤肥後守父子の預け先と肥後へ下る上使を報じ、帰国後の軍装用意や鎌田源八から届いた書状・鹿皮への謝意を谷口重成・西田時通へ申し送る。
7月18日 / 冊子 17~18頁/原整理番号 19
五代友光が須木押米の決定、三原重庸下向後の家中改め、指物用の鶏羽調達、八朔の納物を指示する。塩硝の塩抜き、矢、赤籾など具体的物資の調達と荷物の速やかな発送を谷口重成・西田時通へ求める。
正保三年四月二十九日 / 冊子 42~43頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0075
異国船らしい小船一艘の漂着情報を受け、天草島中を捜索させ、出合った場合の乗員・船の扱いと報告を指示した書状。
7月14日 / 冊子 17頁/原整理番号 18
五代友光が、加藤肥後守改易後の熊本城受取に江戸から大名十人ほど・二、三万人が下向すると伝え、三原重庸の下向と加久藤の警戒を報じる。指物改定に必要な鶏羽を在郷から集めて上送するよう依頼し、鎌・鉈の調達も重ねて求める。
6月21日 / 冊子 13頁/原整理番号 12
谷口重成・西田時通が、加藤肥後守改易に伴い必要時には薩摩からも人数を出すとの命を若衆中へ伝え、伊東祐慶に求めた馬の手配状況を報告する。肥後・球磨では商人から異変を聞かないものの、人吉で橋普請材木を日々引いているとし、新情報があれば直ちに注進すると五代友光へ申し送る。
年月日未詳 / 冊子 18~19頁
『御譜中 義朝伝』。平治元年十二月一日、藤原信頼の挙兵に源義朝が加わり、内裏を固め、三条殿を焼いて信西入道の一類を退治したと記す。恩賞として義朝は播磨守、鎌田正清は兵衛尉となり政家と改名。平清盛が密かに上皇・天皇を六波羅へ移したため形勢が逆転し、十七日の六波羅攻撃で義朝軍は敗走する。龍華越で負傷し歩けなくなった朝長は父に死を請い、義朝が殺したとする。東国へ向かう途中、青墓宿で数百人に襲われるが佐渡式部大夫重成が敵を射殺して退け、自ら腹を十文字に掻き切って死ぬ。義朝は案内人鷲栖光に導かれ尾張国野間内海の長田忠宗邸へ入り、忠宗の勧めで滞在したと記す。
年月日未詳 / 冊子 299~300頁/原整理番号 117
野辺氏が別に伝えた系譜の中に秩父系図が載るとして、その古系図を抄録したもの。秩父別当武基から武家・武綱・小机六郎基家へ分かれ、武綱の流れを河崎平三大夫重家、重国、渋谷庄司光重、重助へ、秩父権守重綱の流れを重弘・重能・重忠、河越次郎大夫重隆、小山田別当有重、江戸四郎重継、稲毛三郎重成・榛谷四郎重朝へつなぐ。編者注は本文書を『家わけ七』野辺文書二十四号文書の抄録とみる。確認用画像後半二頁には『諸家系図 巻之五』の巻扉・目次と、次巻の『蒲池氏系図文書』『惟宗姓執印一族系譜』の見出しが、巻末から次巻への移行領域として併録される。
年月日未詳 / 冊子 420頁/原整理番号 7
伊地知家の祖系から分かれた庶流十五系統を、分岐した代数・男子の出生順・祖の名や官途ごとに列挙する一覧。季随六男裳輪将野介流、季弘の二男左馬介・三男重貞・四男重春の各流、季豊三男重之流、持季流、小牟田小三郎流、重持二男左馬介流、重豊二男河内守流などを挙げ、後裔の伊地知姓称用、木工右衛門・刑部左衛門・淡路守・伊白らの通称、高岡士・飯野士などの居住・身分を付記する。重持二男流では重貞が家老職に補され後に誅され、嫡子重兼も同日に誅されたこと、弟越後守重房の系統が伊地知越右衛門へ続くことも示す。