竹中重利書状
(慶長十四年)八月十三日 / 冊子 243~244頁
八月十三日、竹中重利が島津家久に、公家衆の猪熊教利が成敗を命じられながら行方不明となったため、領国内へ人相書を回して匿わず捕らえるよう駿府から命じられたと伝え、薩摩でも触れを出すよう求めた書状。
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(慶長十四年)八月十三日 / 冊子 243~244頁
八月十三日、竹中重利が島津家久に、公家衆の猪熊教利が成敗を命じられながら行方不明となったため、領国内へ人相書を回して匿わず捕らえるよう駿府から命じられたと伝え、薩摩でも触れを出すよう求めた書状。
四月廿日 / 冊子 468~469頁
書状と琉球酒一壺・赤貝の漬物一壺を贈られたことへ礼を述べ、御殿へ見舞いに伺えなかったことを詫び、後日伺候するとした久世重利書状。
(寛永十五年)五月十九日 / 冊子 807~808頁
有馬・天草のキリシタン一揆が鎮圧されたことを受け、残党が琉球へ流来した場合は捕縛し、困難なら討ち果たすこと、南蛮人を直ちに追放し、漂着しても米・木・水を与えず一か所に留めて報告することを承諾し、琉球の宗門改帳を我那覇に持参させたことを報じた三名の連署書状。
寛永十五年六月八日 / 冊子 809~810頁
進貢船・謝恩船で唐へ渡る際に日本の武具を外国へ渡さないこと、キリシタン禁制を諸島へ徹底すること、他国人が水手に紛れて来着した場合の調査、八重山・宮古への南蛮人来着時の拘束など、薩摩からの命令を遵守する旨を各条ごとに誓約した琉球役人五名の連署証状。
慶長二年七月十日 / 冊子 40頁
炎天下の渡海をねぎらい、現地での軍役を従前の指示どおり見計らって油断なく遂行するよう命じ、稚児用の衣類なども贈った朱印状。
元弘三年十一月十日 / 冊子 619~620頁
祁答院と入来院の境界をめぐる相論について、渋谷重棟・重利が連署した去状。野・河床・中木庭村などの帰属を問題とし、正安三年の下知に従って地を渡したこと、当知行地以外へ争いを広げないこと、後日の違乱を禁じることを定める。
元弘三年十一月十日 / 冊子 620頁
渋谷重利が、薩摩国入来院内の境界・所領を仮名書きで確認した証状。祁答院との境界について従来の下知・和与に従い、所領を相違なく知行させ、後日の争いを避けるよう定める。
年月日未詳 / 冊子 310頁/原整理番号 275の4
見舞使者稲津九郎兵衛の来訪と二日付返書への謝意を述べる三宅重利書状。唐津から少人数が数日中に到着すること、加勢について豊後の御横目衆へ重ねて申し入れることを伝え、松井興長ら三名宛に結ぶ。
寛永14年11月7日 / 冊子 312~313頁/原整理番号 281の2
寺沢忠高領の天草郡で先月二十八日以来、切支丹宗門へ立ち返った百姓の村々を別紙にまとめて急報する三宅重利書状。寺沢方の軍勢を唐津から海路で急派したこと、江戸へも注進することを述べ、十一月七日付で結ぶ。
寛永14年11月7日 / 冊子 313頁/原整理番号 281の4
天草郡内で切支丹宗門に立ち返った村々の目録として、大矢野・上津浦・下津浦・大島子村など十三か村を列記する三宅重利書状の別紙添書。人数はおよそ千二、三百人で、両所へ集結したとし、十一月七日付で結ぶ。
年月日未詳 / 冊子 428~429頁
松雪、冷たい山水、秋月、紅葉、霞、夫婦の契り、国政、湊船、旅、老い、池、秋虫、仏道、梅などを題材に、漢句と和句を多数の連衆が詠み継いだ漢倭連句。
年月日未詳 / 冊子 481頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1064
島津綱久が寛文四年四月十日に参勤のため国を発ち、西海を開帆して五月二十八日に江戸へ着いた。家老島津中務久茂が随行し、登営して将軍へ太刀一腰・馬代黄金十両・綿百把を献上した。また、この頃に家臣東郷藤兵衛重利に示現流剣術を学び、寝食を忘れて修練し、その玄妙を極めたと記す。
年月日未詳 / 冊子 312頁/原整理番号 281の1
七日、三宅藤兵衛方から豊後府内の御目附衆へ、書状で天草一揆の旨を申達した記事。使者草場六之丞の熊本到着、肥後家老中への内見依頼、発足と返書を記す。
年月日未詳 / 冊子 370~371頁/原整理番号 452
『諸将有馬着陣覚書』は、松倉長門守・右近、板倉内膳・石谷十蔵をはじめ諸将・上使・目付・横目らが、寛永十四年十一月から十五年二月に島原・有馬へ到着・出陣・着陣した日程を人別に列記する。伊東大和守らを天草城代として遣わしたこと、島原横目下曽根三十郎の二月二十三日島原着も記し、攻口・間数の記載は前巻にあると注記する。
年月日未詳 / 冊子 313頁/原整理番号 281の3
「唐津より来候与頭之覚」として、岡島次郎左衛門・沢木七郎兵衛らの組頭、鉄砲頭、人数千五百人を列記する三宅重利書状の別紙添書。唐津からの加勢部隊の編成と鉄砲百六十挺を記す。
年月日未詳 / 冊子 427頁/原整理番号 399
『寛明日記』から、二十八日に松倉右近が島原へ下着したと記す。右近には「重利」と傍注されており、他の名へ推定置換せず原記載を残す。後方の『平田宗直案文留』は次文書群の出典見出しで、この記事の出典ではない。
年月日未詳 / 冊子 309~310頁/原整理番号 145
伊地知季豊譜が、応永二十四年八月、久林の家臣酒匂紀伊守が河辺松尾城を守り、季豊は伊地知重利らと大隅・谷山・鹿児島の百五十ほどを率いて五歳の久林を城で守ったと記す。頼久の援軍が野頸に陣し、季豊らは地利を見て平川から攻めた。九月十一日の戦いで味方は敗れ三百余人が死に、弟重春らも戦死した。吉田清正の説得で頼久は囲いを解き、谷山・給黎を久林のために受け取ることになり、親族を悼む処置を求めた。その後谷山城も攻めて頼久を降し、久豊方は谷山・給黎・石谷・雪松尾を領したという。
建武元年十二月十九日 / 冊子 630頁
渋谷重氏の遺領をめぐり、定円・兄弟・一族が所領配分と知行条件を定めた連署和与状。鬼益丸ら関係者の得分や所務を列挙し、相互に違乱せず和与内容を守ることを約した。
年月日未詳 / 冊子 421~422頁/原整理番号 391の1
『平塞録』は、二十六日に上使板倉重昌・石谷貞清が小倉へ到着し、熊本家老へ書状を送ったと記す。十九日に出船して昼夜急ぎ、熊本からの志水伯耆・尾藤金左衛門が迎えた。上使は天草でも一揆が起こり三宅藤兵衛が討たれたと聞き、島原へ波及する前に鎮圧すべきと判断。林丹波・牧野伝蔵の不一致で事態が拡大したとして、両人に天草への急な渡海を命じ、熊本家老にも知らせた。
年月日未詳 / 冊子 458頁/原整理番号 440
『平塞録』六日の記事。上使板倉重昌・石谷貞清が島原城を出陣し、鍋島・有馬・立花の軍兵が前日に着陣したと伝える。上使衆の島原発向、松倉右近を先陣とする軍勢、熊本勢の三角滞留、細川光利の小倉着船を記す。
年月日未詳 / 冊子 458頁/原整理番号 442
『寛明日記』の記事。六月、鍋島信濃守勝茂が江戸におり、嫡子紀伊守元茂・男甲斐守直澄ら一万人余が有馬・天草へ出陣したとする。長岡佐渡・有吉頼母ら細川勢の出陣、寺沢勢への検責、島原へ逃れた者の引渡し、松倉右近の有馬表出張も記す。
12月20日、天正4年2月彼岸日 / 冊子 161~164頁/原整理番号 43-1
二つの文書と菱刈氏系譜記事を現行一件に収める。第一は十二月二十日付で、伊集院忠金・川上忠克(意釣)・三原重秋が新納忠元へ送った連署状。菱刈四郎が曽木を差し上げた後も在所が定まらないため、従前の奉公に報いて花北一所を与え、追って加扶持する上意を伝える。続く隆豊の伝記は、文禄元年に島津義弘・久保に従って朝鮮へ渡り、江原道・南原・唐島番船で軍功を挙げ、慶長三年の交戦で負傷して壱岐から帰国したこと、慶長四年の伊集院忠真による庄内の乱、同五年の関ヶ原で義弘旗下に戦ったことを記す。帰国後は重秀の家督代を務め、重栄を後嗣として花北へ戻り、慶長十五年には琉球へ渡航し、元和四年に没した。重種は島原の乱・上洛に供奉し、大口衆頭、鹿児島城下勤仕を経て加久藤で養老した。第二は本文中に『43の2』とある天正四年二月彼岸日付の菱刈一族並他門交名注文で、菱刈・曽木・長池・入山・藤島・井手籠・得光・柿木原・花北等の一族・他門名を列挙し、菱刈大膳亮隆商が証判する。
延宝六年四月廿八日 / 冊子 452頁/原整理番号 562-4
編者は、権左衛門が寛永十五年に二十二歳で光久の江戸供を勤め、同十七年の年頭使、同十九年三月の上屋敷普請奉行などを務めた経歴を挙げる。正保二年の制度改定後も三十四石で百石・二百石・三百石以上の者に準じる御賦を受けたのは、先祖の光というより、高役に召し仕われた人材を重んじた当時の運用によるものではないかと考証する。目録は延宝六年四月二十八日付伊地知重利書状とするが、本文は日付・署名のない編者記事である。
年月日未詳 / 冊子 493頁/原整理番号 627-1
『寛明日記』は承応二年六月二十四日、上野で赦免者の処置が命じられ、保科肥後守預かりの松倉右近重利らを今度は預かり大名へ下し、国元で召し使わせたと記す。京極丹後守預かりの者も同様とする。目録年月日は空欄を維持する。