耳川合戦従軍者交名
天正六年十一月 / 冊子 562~564頁
天正六年十一月の高城・耳川合戦に島津義久・義弘に従軍した一族・国衆・地頭・家臣を多数列挙する交名。歳久・以久・忠長・家久、北郷時久、樺山範久、山田有信、伊集院忠棟、上井覚兼らを掲げ、防戦功・戦死・負傷などの注記を付す。
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天正六年十一月 / 冊子 562~564頁
天正六年十一月の高城・耳川合戦に島津義久・義弘に従軍した一族・国衆・地頭・家臣を多数列挙する交名。歳久・以久・忠長・家久、北郷時久、樺山範久、山田有信、伊集院忠棟、上井覚兼らを掲げ、防戦功・戦死・負傷などの注記を付す。
天正六年九月十一日~十一月二十九日 / 冊子 592~596頁
天正六年九月十一日の義久出発から十一月二十九日の鹿児島帰還までを記す高城・耳川合戦の日記。石城攻めと降伏、野尻での軍議、大友軍の高城包囲と三納反乱、佐土原への進軍、松山陣に対する伏兵戦、根白坂・耳川での追撃、北方諸城の服属、戦死者供養と恩賞、番手配置、霧島参詣を経た帰陣までを詳述する。
天正六年十月二十五日以後 / 冊子 602~612頁
十月二十五日の島津義久出発から耳川合戦後の帰陣までを記す別本。三納反乱鎮圧、紙屋での夢中詠、佐土原の軍議、十一日の伏兵による松山陣攻略、十二日の大友軍総攻撃と本田親治らの戦死、義弘・征久・忠長らの横撃、家久・山田有信の追撃、北方諸城の服属、戦死者供養と恩賞を詳述する。
年月日未詳 / 冊子 406~407頁/原整理番号 138
川上久辰の耳川合戦日記。天正六年九月十一日の山東への出陣に本田紀伊守・三原右京亮らが旗役を務め、鹿児島などから供衆を集めた。忠元の使僧や諸所の使者を通じ、高城・野尻・紙屋などの番衆交代、雑務の分担、参陣と御陣の人数を調整する。大軍が押し寄せる高城へ軍勢を差し籠め、石之城を得た際の祝言や太刀などの進献も記す。終盤には猿渡らの使僧、山下造酒の中国鉄山からの帰帆報告と進献を載せる。
天正六年 / 冊子 532~534頁
天正六年の島津氏の動向を編年で記す。年初の日向諸氏からの服属・進物、石城をめぐる攻防と土持氏の滅亡、琉球との進物往来を載せる。十月以降は伊東氏復帰を掲げた大友軍の高城攻め、耳川合戦での島津方の大勝と大友軍の多数の戦死・溺死、日向再平定を詳述し、年末には足利義昭・毛利氏による大友攻撃構想への返書を収める。
天正六年 / 冊子 535~536頁
天正六年に島津方として戦死した者を月日・戦場別に列挙する名簿。三月の石城方面、十月二十三日の三原衆反乱、十一月十二日の高城・耳川合戦などの死者を中心に、福永丹後守・鎌田大炊助・伊地知式部少輔・本田親治・北郷久盛ら多数を記し、日付不詳の者も追記する。
天正六年九月十一日~十一月二十九日 / 冊子 581~588頁
天正六年九月十一日から十一月二十九日までの日向出陣日記の別本。野尻での石城攻めと九月晦日の受取、十月二十五日の高城救援出発、夢中詠、佐土原での軍議、十一日の伏兵戦と松山陣攻略、十二日の根白坂・耳川合戦、北方諸城への追撃・降伏処理、戦死者供養、恩賞と番手配置、霧島参詣を経た鹿児島帰陣を記す。
天正六年十一月十日~十三日 / 冊子 599~602頁
十一月十二日の根白坂・耳川合戦を詳述する。北郷相久・忠虎らが奮戦し久盛らが戦死、本田親治も討死して島津勢が一時退くが、義弘・征久・忠長・伊集院忠棟らが一瀬川で支えて反撃した。大友軍は深淵と耳川へ追い込まれ、佐伯氏ら多数の将兵を失った。家久も単騎で追撃し、十三日に義久が敵本陣で凱歌を挙げた。
天正六年十一月 / 冊子 609~612頁
高城・耳川合戦で島津方が伏兵と横撃を用いて大友軍を崩し、深淵と耳川へ追い込んだ経過を長谷場越前の立場から記す。諸将の配置、味方の戦死、敵陣追撃と分捕り、合戦後の凱歌・帰陣までを回顧する。
天正六年十一月十二日 / 冊子 628頁
天正六年の高城・耳川合戦で島津方として戦死した者を列挙する名簿。本田親治、北郷久盛、村田経重、山中宗左衛門、鎌田大膳亮、海江田主殿、曲田伯耆守、市来軍介ら、根白坂・河原・追撃戦などで討死した諸士を記す。
元亀3年、天正元年3月18日、天正4年、天正6年11月、天正8年10月・11月、天正12年3月24日、天正14年6月、天正15年4月6日 / 冊子 280~281頁/原整理番号 111
元亀三年から天正十五年まで、上原長門守ら上原氏諸人の外交・地頭職・合戦での働きを年代順に列挙した軍功書上。元亀三年には禰寝方との和談使者を上原長門守・忠元・久治の三人が務め、同年三月中旬の伊地知方との合戦、天正元年三月十八日の肝付方との合戦では長門守が軍功を立て、天正四年には高原地頭を与えられた。天正六年十一月の耳川合戦では長門守と太郎五郎が軍功を挙げ、天正八年十月の矢崎城合戦で勘解由左衛門・内蔵助が戦死し、同年十一月の肥後合志方との合戦、天正十二年三月二十四日の島原合戦にも長門守・右衛門尉・勘解由兵衛尉らが参加し、彦五郎の分捕を記す。さらに天正十四年六月の筑紫出陣、天正十五年四月六日に京勢が日州高城へ着陣した際の防御人数に上原長門守を挙げる。
年月日未詳 / 冊子 408頁/原整理番号 141
義弘を御太将として、歳久・右馬頭・圖書頭・河上上野守・北郷一雲らの名を列挙する自記の抄録。新納武蔵守、伊集院右衛門太夫・美作守、新納越後守も記載される。前後の耳川合戦の記事は省略したと注記されている。
天正六年九月十一日~十一月二十九日 / 冊子 564~575頁
天正六年九月十一日の島津義久出発から十一月二十九日の鹿児島帰陣までを日次で詳述する。野尻滞在中の石城攻めと降伏、大友軍の耳川渡河、十月の高城救援進発、三納反乱鎮圧、佐土原での軍議、伏兵による松山陣攻略、根白坂・耳川での大勝、北方諸城の服属、戦死者供養と豊後塚建立、諸将への感状・恩賞、各地の番手配置、霧島参詣を経た帰還までを記す。
天正六年十月 / 冊子 598頁
大友軍が高城へ迫り、家久・山田有信らが籠城したため、救援か後詰かをめぐり評議が割れた。滝聞美作入道は義久の身を第一として紙屋城で境目の報告を待つよう諫めたが、義久はその忠言を認めつつ老功の者に任せて決戦を選び、耳川で大勝したと記す。
天正七年 / 冊子 634~635頁
耳川敗戦後、大友方の威勢が衰えて筑前・筑後・肥後の諸勢力が離反し、熊本の城親政も島津方への帰属を望んだ。義久は遠国支援を評議し、鎌田政年の進言で島津義虎を介して天草五人衆を味方につけ、政年・田尻荒兵衛尉ら足軽二百余人を熊本へ派遣して城親政・伯耆鑑高と連携した。
天正七年 / 冊子 635頁
天正七年、大友宗麟・義統が数万騎で日向高城へ攻め寄せたが、十一月十二日に島津義久が陣を破り、数万人を討ち取ったとする年代記の記事。
年月日未詳 / 冊子 408~409頁/原整理番号 142
十一月上旬、久峯観音堂に集まった武功者が、川原陣へ忍び入り高城を救う策を立てた。義久への報告と諸将の軍議を経て、十日夜、雨の中を百四十五騎が進み、別府村には三百人が待機した。翌日、帰還する豊後の番衆を襲い、七十三人を討ち取り荷駄を追い落としたと記す。敵の反撃と家久の動静、味方の士気の高まりも述べ、続く高城への進撃は省略する。
巻二/冊子 26~29頁
天正六年、大友義統・義鎮父子が豊後・肥後・筑前などの大軍を率いて日向へ侵攻し、高城を包囲した戦いを記す。高城では山田有信を中心とする島津方の守兵が、兵糧や水の不足に耐えて防戦した。義久は諸軍を集め、家久らを前面に出して大友軍と対峙する。十一月の決戦では、島津軍が釣り野伏などの機動的な戦法で敵を誘い崩し、耳川方面へ敗走させた。大友方は多数の将兵を失い、河川や山道で潰走したとされる。戦後、義久は敵陣跡で凱歌を挙げ、敵方に従った日向の住民についても一律に殺すのではなく、罪を問いつつ謝罪・服属を受け入れた。大友氏の大軍を退けた高城・耳川の戦いを、島津氏の九州進出を決定づける勝利として描く記事である。
年月日未詳 / 冊子 57頁/原整理番号 52
天文二十三年九月十二日酉刻の岩剣合戦出陣次第を記す。若殿義久を大将、伊集院大和守忠朗を軍配者、本田弥六を太刀役、梶原新兵衛を番役、瀬戸口藤兵衛を幡指とし、御屋形貴久の太刀役を鎌田甚五郎とする。後評では、永禄十一年正月二十日の菱刈羽作瀬での義久・義弘の危難と梶原の不手際・御内追放を挙げ、御旗役を三原氏に代えたのではないかと耳川合戦の記録に関連づけて考える。
年月日未詳 / 冊子 408頁/原整理番号 140
出水の義虎が肥への口を固める役として参陣したことを述べる。大口の忠元は肥後求麻との境目にあたるため出陣を免ぜられ、住番をしていたと聞いたという。前後の耳川合戦の記事は省略されている。