日高某外三名連署差出
二月廿九日 / 冊子 772~773頁
四人で先手を務めて有馬春之城本丸の塀に取り付き、塀越しに槍を合わせようとしたが、日高十兵衛・有馬久右衛門らが石打ちに遭い、槍を合わせられなかった経緯を記し、鹿児島衆の実見を証跡とした四名連署の差出。
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二月廿九日 / 冊子 772~773頁
四人で先手を務めて有馬春之城本丸の塀に取り付き、塀越しに槍を合わせようとしたが、日高十兵衛・有馬久右衛門らが石打ちに遭い、槍を合わせられなかった経緯を記し、鹿児島衆の実見を証跡とした四名連署の差出。
二月廿九日 / 冊子 319頁/原整理番号 359
日高十兵衛尉正盛・有馬久右衛門・藤井助四郎・友野七郎の四人が、先手として原城本丸の屏に着き、屏越しに鑓を合わせた状況を届ける覚。ただし日高と有馬は鑓を合わせようとしたところ早く石打ちに遭い『無生ニ罷成』ったため、実際には鑓を合わせなかったと明記する。鹿児島衆が後方の岡から見たことを証跡とし、『薩摩壱番鑓合』と掲げる。二月二十九日付で市来八左宗友・新納加賀守忠清宛。編者注は『旧記雑録後編五』二一五九号文書と同文とする。
三月朔日 / 冊子 357頁/原整理番号 405-1
藤井助四郎が、寛永十五年二月二十八日の有馬原城落城時、日高十兵衛正盛が友野七郎・有馬久右衛門と一番に城乗し、屏際で敵の石打ちを受けて三間ほどの石垣から落ちながら名誉を遂げたことを、自身も同じく城乗して実見したとして、三月朔日に日高へ渡した証文。
三月朔日 / 冊子 357頁/原整理番号 405-2
有馬久右衛門尉(純兵)が、寛永十五年二月二十八日の有馬原城本丸落城時、日高拾兵衛正盛が友野七郎・藤井助四郎と先陣し、屏際で敵の石打ちを受けて三間ほどの石垣から落ちながら名誉を遂げたことを、自身も同じく城乗して実見したとして、三月朔日に日高へ渡した証文。
三月朔日 / 冊子 357~358頁/原整理番号 405-3
友野七郎が、寛永十五年二月二十八日の有馬原城落城時、日高十兵衛正盛が有馬久右衛門・藤井助四郎と一番に城乗し、屏際で敵の石打ちを受けて三間ほどの石垣から落ちながら名誉を遂げたことを、自身も同じく城乗して実見したとして、三月朔日に日高へ渡した証文。
天正十年十二月十七日 / 冊子 267頁/原整理番号 24の17
『上井覚兼日記』天正十年十二月十七日条から、野久美口で猿渡越中守が一番に攻め上がり、山田新助らと戦った記事を抄出する。敵数百人を討ち留め、家来も多数石打ちに遭いながら一番乗りを果たしたことを、日記に記された参加者と照合して考証する。
年月日未詳 / 冊子 211~212頁
樺山紹剣が、豊後へ進む前提として岩屋城を攻めることになった経緯から、七月二十七日の総攻撃と落城までを回想する。城兵は石・長刀・鎗などで激しく防戦し、島津方も岸壁や城際で組み討ちとなって多数の死傷者を出した。配下の樺山忠助が重傷を負いながら退かず戦ったこと、各隊の攻撃位置や討死・負傷者、落城後の処置までを挙げ、岩屋城合戦の苛烈さを樺山家側から伝える。