賦初何連歌
永禄二年五月十八日 / 冊子 71~73頁
永禄二年五月十八日、聖廟法楽として催された『初何』の連歌。花・夏・五月雨・月・旅・恋・神祇・無常などを題材に、貴久らが百韻を連ねる。
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永禄二年五月十八日 / 冊子 71~73頁
永禄二年五月十八日、聖廟法楽として催された『初何』の連歌。花・夏・五月雨・月・旅・恋・神祇・無常などを題材に、貴久らが百韻を連ねる。
年月日未詳 / 冊子 57頁
北郷忠相が飫肥への後援を島津貴久に頼み、永禄元年に曽於郡を献じたこと、永禄二年十一月十六日に高城で没したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 68頁
永禄二年の外交・軍事記事。琉球国王への返書、肝付兼続による松山城攻略、飫肥での伊東軍との戦い、島津尚久救援と春成久正の戦死、肝付・頴娃との盟約、末吉・梅北の領有移動などを記す。
年月日未詳 / 冊子 70頁
永禄二年の松山城・飫肥方面などの戦闘で討死した者を、日付・戦場・所属とともに列挙する。平山父子・兄弟、春成久正らの戦死状況を収める。
年月日未詳 / 冊子 75頁
永禄二年秋、伊東義祐が飫肥の島津忠親の城へ攻め寄せたため、忠平が救援を願い出た経過を記す。貴久・義久が当初制止したが、忠平は忠親との親子の契約を理由に、兵三百を率いて飫肥へ向かった。
永禄二年四月九日 / 冊子 69~70頁
島津貴久が琉球国王の使者・天界寺叔和尚と世名城大屋子の来訪を喜び、長年の音信と隣国の友好を今後も深めたいと伝え、詳細を和尚に託した返書。
永禄二年四月五日 / 冊子 70頁
山川郷の霧島神社を造立した棟札。大檀那伴兼堅の息災延命を願い、大工・小工・鍛冶の名を記す。
永禄二年四月廿三日 / 冊子 70頁
足利義輝が宗賓首座に対し、薩摩国大願寺の住持職を先例どおり執務するよう命じた公帖。
永禄二年五月廿三日 / 冊子 74頁
正八幡宮の御宝殿へ神楯一具を奉納した寄進状。本文には寄進者名が見えず、編集注も寄進文書の一つであろうとする。
永禄二年十二月廿三日 / 冊子 75頁
島津貴久が奉公の功により、薩摩国鹿児島郡内の犬迫名を入来院加賀守へ宛行い、知行するよう命じた宛行状。
年月日未詳 / 冊子 70頁
平山忠智の子・右馬頭久武について、永禄二年四月十六日に肝付勢が居城松山を陥れ、兄弟とも戦死したこと、家の重器が奪われ、後に松山で軍神摩利支天として祀られたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 74頁
永禄二年八月、国家豊饒・領内安全を願って田布施牟礼城に天照大神を勧請し、正躰と鰐口を安置した際の銘文。島津忠良の名を刻む。
正保二年十一月二日 / 冊子 29~30頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0045
島津久守が平山対馬入道へ出した正保二年十一月二日の証状。季久以下、忠康が平山を号した家系と、五代右馬頭久武が永禄二年四月十八日に日向松山城で戦死し、久次らも肝付方に殺され無嗣となった経緯を記す。義弘が松本主殿助に平山を継がせたこと、久賀が由来を問わせたことを述べ、現在平山を称していても忠康の子孫ではないとして、諱字と平山の称号を妄りに許すことはできないと証明する。
年月日未詳 / 冊子 768~771頁
島津忠国の四男勝久を祖とする桂氏系図。忠利が永禄二年に桂を称したこと、忠防の高山病死と家臣吉冨大蔵の殉死、忠次が父と朝鮮へ渡り帰朝時に明船との海戦で戦死したこと、忠秀が島津義弘の小姓として朝鮮へ従軍したことを記す。
永禄二年三月三日 / 冊子 69頁
財部筑前守が清水谷口方の扱いについて末吉で町田加賀守と相談済みであることを伝え、神前の宮代官任命や門川からの請取りを時機を見て進めるよう求める書状。
(永禄二年)三月三日 / 冊子 69頁
琉球国三司官が島津氏老臣に、唐商人来航に備え、貴国商船が来航した際には従来どおり武具・腰刀を那覇で預かり、出船時に返すこと、印判のない船を受け入れないことを求めた書状。織物九端を添える。
永禄二年三月七日 / 冊子 69頁
島津貴久が尾州・讃州への相談、東目・西目の弓箭の吉否、無事の調儀について籤数を定めて祈願した立願条々。
永禄二年五月廿三日 / 冊子 73~74頁
正八幡宮へ前豊後守忠朝が寄進した金を本田紀伊入道が持参し、島津忠将が受領して三原遠江守へ渡したことを証する受取状。
永禄二年九月廿八日 / 冊子 74頁
島津貴久・義久が肝付兼盛に、境界をめぐる雑説は島津方の仕業ではないこと、今後は雑説が起きれば隠さず披露して真偽を決し、互いに頼み合うことを誓った起請文。
永禄二年十月四日 / 冊子 74~75頁
伊地知方の件を知らなかったこと、不忠者に同心しないこと、頴娃方に対して隔心なく従来どおりの関係を保つことを貴久・義久が誓い、違背時の神罰を掲げた起請文。
永禄二年四月、元亀元年、慶長五年ほか(系譜中記事) / 冊子 506~508頁/原整理番号 24
漢恵帝・呂后から少帝・劉建・孝建・孝倫へつなぐ渡来伝承を経て、大蔵姓の祖から原田・秋月・江上・高橋・田尻の各氏へ分岐する系図。原田太郎種臣を筑前三笠郡原田城、秋月二郎種信を弥須郡古所山城、江上三郎種光を筑後三潴郡江上城、多記四郎長種を筑後三原郡高橋城、田尻五郎種保を生葉の居住者として、名字と城・所領を対応づける。後半は高橋形部左衛門佐種基、種成・文種以下を経て、秋月豊前守文種の二男・元種、吉弘左近大夫鑑理の二男で大友義鑑女を母とする鎮種(紹運)へ続く。鎮種は高橋家断絶のため養子となって家名を継ぎ、筑前岩屋城で薩州勢と戦って義死したとする。元種は西征時に日向国縣城を与えられ、慶長五年の関ヶ原後に処分されたのち赦免された経緯を記し、子孫の官途・居城・婚姻・改姓も載せる。末尾は筑前国住士魯井道載方から高橋武右衛門種登へ送られた写本であると伝来経路を明記する。