島津義弘譜
年月日未詳 / 冊子 666頁
元和四年二月二日、西丸で男子の名を岩松丸とすることに伴い、島津義弘が岩松殿から白銀十枚を受け、返礼として宝刀大小を進上したことを記す島津義弘譜の記事。
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年月日未詳 / 冊子 666頁
元和四年二月二日、西丸で男子の名を岩松丸とすることに伴い、島津義弘が岩松殿から白銀十枚を受け、返礼として宝刀大小を進上したことを記す島津義弘譜の記事。
寛正五年 / 冊子 447~448頁
平徳重が嫡子千代松丸を島津立久の御用に立てることを定めた覚書。徳重在世中の待遇、院内の田数、寺領・神領、反銭の取扱い、奉公人と屋形の配置を具体的に規定する。関係者が合議して条項を守り、後日の争いを避けるため記録を保管するよう命じ、家督・財産・奉公の継承を一体化する。
年月日未詳 / 冊子 663頁
島津光久譜に、光久・忠朗・久直・岩松丸・又十郎・式部大輔の名を掲げ、元和三年十一月二十六日の出生、北郷忠亮の養子となったこと、寛永十八年十一月六日に二十五歳で死去したことを記す記事。
年月日不記 / 冊子 655~656頁/原整理番号 127
巻末目録が秀貞譲状とする無年紀の文書で、熊松丸に、薩摩国山門院の古城薗一所、宮郷田一町五反のうち白石壱町内二段、高小野名内太郎丸作三段などの田屋敷を永年譲り、子孫まで相違なく領知させる。本文はこれらを親父妙義禅門から譲られた田屋敷で、当知行に相違がないと述べる。残存する本文には発給者の署名・日付は見えず、秀貞の名は目録上の帰属である。
年月日未詳 / 冊子 452頁
寛正六年、島津立久が伊東祐堯の娘を迎えた際、新納友義らが御迎えに従い、宮丸某・末弘十郎四郎が輿寄、長野助五郎・千代松丸が松明役を務めたことを記す。
天正四年四月十四日 / 冊子 475~476頁
「月前郭公」を題に、島津義久・近衛前久・伊勢貞知・島津歳久・新納忠元らが詠んだ和歌集。月夜の郭公の声を都・雲居・旅情などに結び付け、天正四年四月十四日の会として収める。
元徳三年八月九日 / 冊子 591~592頁
島津道鑑が宗久の生松丸へ、薩摩国高城郡吉枝名、国富里郷、国太田庄南郷などの田畠・屋敷・所職を譲った仮名書きの譲状。生松丸を嫡子として一期分を与え、弟や子孫への相伝を認める一方、後家・女子への永代譲与を禁じ、違反時は他の子へ譲ると定める。
元徳三年八月九日 / 冊子 593頁
No.1582と同文であるため本文を省略した島津道鑑譲状。元徳三年八月九日付で、宗久の生松丸への所領・所職の譲与と相伝条件を示す。
暦応四年八月廿三日 / 冊子 741~742頁
渋谷千松丸代重申が訴えた放火狼藉・殺害事件について、相手方の陳状と証拠を取り寄せ、事実を糾明して裁決するよう命じた室町幕府御教書。渋谷氏の女子・相伝関係、道智譲状、嘉元以来の経緯も検討対象として示す。
貞治七年閏六月廿三日 / 冊子 786頁
渋谷重勝が、肥前国佐嘉下御領吉松内の田地二町と屋敷一所を、祖父宗直・母室尼宗女から相伝した所領として子息虎松丸へ永代譲与し、後日の違乱を禁じた譲状。
貞和五年閏六月廿三日 / 冊子 788頁
渋谷重勝が虎松丸へ、美作国河会庄下森上山、後家分金子村、薩摩国入来院内二野・河床などを譲る。父重知の譲状と相副文書に従って知行させ、親父定円の所領や重勝後家分も含め、虎一丸との分割と永代相続を定めた譲状。
文和五年二月廿一日 / 冊子 885頁
僧耀源が姫松丸へ、所帯以下の従等事、大隅国鹿屋院下村園師殿、観音寺内屋薗などを譲与した譲状。田地の譲渡・相続範囲を示し、受領者、対象所領、後日の違乱や相伝時の取扱いまで定める。姫松丸ほかから大隅国ほかへの相伝関係を明記し、譲渡対象と将来の知行・違乱時の扱いを定める。
慶安三年八月九日 / 冊子 174頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0325
綱久公譜中の久岑の誕生・系譜記事。綱久・女子三人・久定・忠長・久岑を兄弟として系図に示す。久岑を虎松丸・又六と称し、慶安三年八月九日に誕生、母は家臣救仁郷大神房頼重の娘で、家臣島津又六久近の後嗣となったと記す。
年月日未詳 / 冊子 381頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0842
綱久と同じ同胞横列に久始(後の久明)を掲げる光久の子女系図記事。万治二年六月五日生、母は家の女房とし、虎松丸・虎之丞・大蔵等の通称を記す。兄八人は別家を継いだため、元禄十四年十月十四日に中将綱貴が久明を当家の二男に準じさせたとする。異本には同年十一月十一日国老任官等の補注がある。
興国2年(1341)10月22日 / 冊子 379頁/原整理番号 188-19
興国二年十月二十二日、仰せを受けた奉者不明の者が宛先不記載の相手へ、薩摩国河辺郡内の黒島・硫黄島郡司職が亀松丸に宛て給われたことを知らせ、早々に両所の年貢を先規に従って取り沙汰するよう執達した奉書。本文は四行と注記され、冒頭に花押を掲げる。
文明四年十一月四日 / 冊子 125~126頁/原整理番号 26
文明四年十一月四日の犬追物手組。島津左京亮二疋、渋谷千代松丸十一疋、渋谷左衛門次郎十疋、島津平八丸四疋、村田太郎次郎七疋などの犬数を記し、検見に島津十郎左衛門尉(義久)・渋谷七郎左衛門尉を掲げる。
元徳三年八月廿一日 / 冊子 592頁
沙弥きやうにんが、薩摩国高城郡吉枝名内の亡父きゃうゑんから譲られた田地を銭十五貫文で売却した仮名書きの売券。売買対象と代銭を明記し、買主の知行を保証する。
年月日未詳 / 冊子 398~400頁/原整理番号 128
天正四年卯月十四日の会で、夏の月と郭公を詠んだ歌を集める。義久・前久をはじめ、家中や僧・近衛側の参加者十八名の歌を、作者の名とともに掲げる。月明かり、都と山路、夜半・明け方、郭公の声が共通の題材で、忠元の歌も含む。作者名・題などには異本の注記が付される。
年月日未詳 / 冊子 400~401頁/原整理番号 129
山霞・柳露・花見などの景物から、待恋・契恋・恨恋・別恋、眺望・祝言まで、二十の題を配して詠んだ和歌を作者名とともに掲げる。忠元は鹿と氷の歌を詠み、義久・忠長・季久らも加わる。題や作者名には異本による修正注があり、天正四年卯月十四日の当座と記す。末尾に本詩を130番によって校訂した旨の注がある。
興国四年十月廿二日 / 冊子 753頁
薩摩国河辺郡内の黒嶋・硫黄郡司職など二か所を亀松丸へ給付し、両所の年貢を先例に従って取り沙汰するよう命じた書下。
貞治七年閏六月廿三日 / 冊子 786-787頁
渋谷重勝が、虎松丸と虎一丸に相伝所領を分け与え、四至・本証文を付して知行させる。任本証文・可致沙汰とし、異論・違乱を禁じ、子孫への相続と公事勤仕を定めた譲状。
貞治七年八月六日 / 冊子 787頁
渋谷重成が子息虎松丸へ、入来院市比野名主職、清色南方本村北方、肥前国佐嘉下御領吉松内の田地二町・屋敷などを譲り、各地の屋敷・田地の配分と相伝を定めた譲状。
貞和五年閏六月廿三日 / 冊子 787頁
渋谷重勝が、虎松丸と虎一丸の所領を証文どおり分け、公事を先例どおり勤めること、一方が無子で死ねば他方が継ぐことを定める。女子・養子への配分、親族間の争論禁止、違乱時の処置も規定した置文。
貞和五年閏六月廿三日 / 冊子 788頁
渋谷重勝が虎松丸へ、薩摩国入来院清色北方、筑前国柏原の水田・屋敷などを、四至と本証文を添えて譲る。弟虎一丸との分割、子孫への相続、女子・無子の場合の処置、違乱者の排除まで細かく定めた譲状。
年月日未詳 / 冊子 558~559頁
神戸久五郎の聞書として、徳川家康が大坂から江戸へ下向する際に島津義弘(惟新)へ伏見城在番を頼んだが、鳥居・内藤・落合らが本丸を引き渡さなかった経緯を記す。石田方の攻城時には松丸口の仕寄を久来院又七・久留休斎・松岡勝兵衛らが担当し、敵近くまで築いた仕寄の働きにより、勝兵衛が義弘から賞賛と饗応を受け、一命を捨てて奉公すると決意したという。
年月日未詳 / 冊子 559~560頁
神戸久五郎が、八月朔日の伏見落城時、松丸口で父松岡勝兵衛が五代舎人と先頭に立ち、矢狭間を開いて槍で戦ったことを記す。勝兵衛は草摺を鉄砲で撃ち抜かれて瀕死の深手を負い、財部傳内は門内で敵と組み討死した。勝兵衛は島津義弘(惟新)の毎日の見舞いと薬により助かり、大柿への供を望んだが歩けず、のち大坂で米六十石を与えられたという。