本田氏親置文
永享十年五月七日 / 冊子 380頁
本田氏親が鹿児島諏訪大明神祭礼の作法を子孫へ書き残した置文。島津貴久代に始まった頭殿・居頭の由来と役割、天下・国・三か国の祈念に御幣を奉る順序を説明し、島津家に奉仕する者が末代まで心得るよう求める。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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永享十年五月七日 / 冊子 380頁
本田氏親が鹿児島諏訪大明神祭礼の作法を子孫へ書き残した置文。島津貴久代に始まった頭殿・居頭の由来と役割、天下・国・三か国の祈念に御幣を奉る順序を説明し、島津家に奉仕する者が末代まで心得るよう求める。
年月日未詳 / 冊子 81~82頁
肝属兼氏譜として、今川了俊が肥後菊池へ出陣し、水島で少弐冬資を殺害した経緯と、その後に島津氏久を筑後守護へ誘い出して危害を加えようとした際、伊地知季弘・本田氏親らが護衛したことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 121頁
調所貞恒伝として、康暦三年、島津伊久が本田氏親に命じて姫木城・清水城を攻略し、正八幡宮神官を服属させた後、神領料田を主神司へ寄進して氏親に連付させたことを記す記事。
応永廿一年七月廿五日 / 冊子 289~290頁
鹿児島郡内宮地にある田畠・屋敷・水田を一筆ごとに列挙した所領明細。各所の面積、作人、本田氏・税所氏らの御得分を対応させ、若宮神田など神領の区分も示し、最後に貫文単位の収益合計を記して宮地の土地利用と年貢配分を把握できる。
(明応四年)六月廿九日 / 冊子 568頁
島津忠昌が肝付次郎左衛門尉に、加治木方が帖佐城へ攻め寄せたとの報を伝え、社家衆・本田氏・日置美作守らとともに防戦へ加わるよう求めた書状。
(明応五年)二月廿八日 / 冊子 570頁
伊地知重貞が本田氏に、加治木方面の軍事で援助を受けて勝利したことを謝し、今後も変わらぬ協力と関係維持を求めた書状。
十一月十五日 / 冊子 571頁
伊地知重貞が本田氏に、留主氏の所領没収に伴う加治木郷法楽寺田・修理田の処置を伝え、今後も協力して領掌するよう求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 649~650頁
『庄内平治記』が、北郷忠相と伊東尹祐・北原勢の対立を軸に、新納氏・本田氏を含む諸勢の動きを記す。庄内周辺の城攻め、援兵の動員、籠城側の兵糧欠乏、退却する敵への追撃を追い、複数の城と街道をめぐる戦況の変化をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 659~660頁
本田氏の領する曽於郡の土卒が本田方に背き北郷方へ応じたため、北郷忠相が大永六年五月二十日に兵を進め、新納氏も加わって城を落とし、曽於郡を領有した経緯を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 660頁
本田氏領曽於郡の土卒が北郷忠相へ通じ、忠相が北郷左京亮・加茂民部らを清水へ派遣し、新納勢とともに城を攻略して曽於郡を領有し、北郷久利を地頭とした経緯を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 660頁
本田氏の臣が曽於郡で北郷忠相に内応し、忠相が北郷左京亮・加茂民部を派遣、新納忠勝も合流して城を落とし、北郷久利を地頭に据えた経緯を考証した記事。
年月日未詳 / 冊子 687頁
勝久・本田氏らをめぐる清水の処置、正興寺や八幡宮領の水汲み・社役、宮内社家の権益と旧例について申し立てた覚書。
年月日未詳 / 冊子 706頁
享禄二年十一月二十八日、北郷忠相と本田氏が春山原で合戦し、本田方の兵五十余人を討ち取ったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 707頁
享禄二年十二月二十八日、北郷忠相が春山原で本田氏と戦い、首五十二級を得たことを記す。
年月日未詳 / 冊子 707~708頁
享禄三年、本田氏と祁答院氏らの軍勢が郡城・高城方面で交戦し、北郷忠相方が救援・防戦にあたった経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 799~800頁
天文十一年春、北原氏が本田氏討伐を図る一方、島津忠良・貴久方が生別府へ進軍した経過を記す。樺山玄佐・善久らが北原方と戦い、城を攻めたが、大雨で軍勢・兵糧の維持が困難となり、攻撃を中止して撤収した戦況を追う。
四月二日 / 冊子 11頁
本田氏に伝わる慶長九年・十年の公用出物を、日付ごとに銭・米・石高などの数量で記録した控。慶長九年八月から十年三月までの個別支出と、二年分の銭五貫百九十二匁などの合計を掲げ、石高に応じた負担額も算出している。
年月日未詳 / 冊子 102~103頁
天授三年、島津氏久と世子久豊が都城救援を企て、肝付兼氏へ加勢を求めたことから始まる肝付氏の譜記事。北郷・本田・伊東など諸勢力が天ヶ峯・蓑原周辺で交戦し、進軍・退却・戦死が相次いだ経過と勝敗を追い、都城をめぐる広域戦の展開を記す。
年月日未詳 / 冊子 103~104頁
天授三年前後の南九州争乱を詳述する国史記事。島津氏久・久豊方と北郷・肝付・伊東・相良・本田諸氏が同盟と離反を繰り返し、都城周辺の諸城・陣地で交戦した。各隊の進軍・退却、武将の戦死、勝敗の転換を追い、戦後に忠功を認定して恩賞を与えるまでを一連の軍事過程として記す。
年月日未詳 / 冊子 109~111頁
島津氏久譜として、税所氏・相良氏との曽於郡争乱における正八幡宮社人の守護方参戦、姫木・清水・木城などの攻防、本田親治・氏親父子らの奮戦・戦死、所領没収と守護方への安堵などを記す長文記事。
年月日未詳 / 冊子 434頁
島津用久譜から、本田殿の内に居住していた事情について、後日の証文とするため鎌田政秀が判を加えたことを記す短い記事。
十二月五日 / 冊子 538頁
島津武久書状。本文はNo.1644号文書と同文のため省略されており、独立番号として同文関係を記録する。
年月日未詳 / 冊子 539頁
島津忠昌書状。本文はNo.1647号文書と同文のため省略されており、独立番号として同文関係を記録する。
年月日未詳 / 冊子 539頁
島津忠昌書状。本文はNo.1647号文書と同文のため省略されており、独立番号として同文関係を記録する。
(大永六年)八月廿一日 / 冊子 667頁
隈江匡久が山田安藝守に、蒲生・祁答院・北郷・本田方の動向、御屋形衆と祁答院勢の二度の合戦と損害、白清水からの注進などを伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 670~671頁
大永六年霜月二十八日の宮内社頭焼失後、加治木の統治が絶えたため、新たな領地・守備配分を行った経過を記す樺山玄佐自記。新納・北郷・吉松・本田・北原氏らに拠点防衛を分担させ、横川や越前守領などを処置した。火災を契機に島津勝久方が地域支配を再編した具体策を示す。
年月日未詳 / 冊子 684~685頁
樺山信久が島津勝久の御座へ奉仕し、加治木・鹿児島方面の戦闘に関わった経過を玄佐が記す。村田越前守ら家臣の処遇を調整し、島津忠良方との関係を踏まえて、新納・本田・北原諸家の所領と帰属を再編した政治・軍事上の対応を伝える。
年月日未詳 / 冊子 685頁
戦後に美濃守が出家し、新納・本田・北原らの所領や正宮社家の処置が進められたものの、諸家の境界がなお不通であったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 685頁
大永七年、清水城に籠る敵を攻めるため八幡宮の衆徒らを動員し、仏敵退治と神威を掲げて本田・新納方へ進攻したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 708頁
本田方が郡城を奪回しようと攻めたため北郷忠相が援兵を送り、城兵とともに撃退したこと、その後の西城・屏涯などの攻防を記す。
年月日未詳 / 冊子 756頁
実久方と豊州方の相談を受け、北郷・本田・新納・伊集院らの進退、所領分配と和睦交渉を進めた経緯を樺山玄佐が記す。
年月日未詳 / 冊子 756頁
天文六年、肝付兼演が守護職を望み、豊州・北郷・本田らと連携して兵を清水へ進め、新納氏を攻めようとした経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 801頁
天文十一年春、北原方の侵攻を受けた溝辺・高松城方面の戦闘を樺山玄佐が記す。本田・加治木・帖佐・上野廣原諸勢の配置、城への攻撃と救援、各隊の戦死者を列挙し、城を維持できず退却するまでの大隅中央部の戦況を具体的に示す。
年月日未詳 / 冊子 834頁
天文十五年、貴久が鹿児島で越年したことなど、当年の島津氏・国人衆の動きを年代順に記す。
年月日未詳 / 冊子 855~856頁
『樺山玄佐譜』が、天文十七年の大隅争乱で樺山善久(玄佐)が島津貴久方として出陣した経過を記す。本田・北原方に対する清水城・姫木城攻め、伊集院忠朗ら援軍との合流、渡海による戦線移動と退陣判断を追い、各城の支援関係を示す。
年月日未詳 / 冊子 856~857頁
『樺山玄佐譜』が、姫木城をめぐる北原・本田方との攻防を記す。樺山玄佐が守兵・援兵を率いて城の防備を整え、伊集院忠朗や日新公方と連絡しながら、清水方面の敵情、援軍の到着、城兵の出撃に応じて兵を配置した経過を伝える。
年月日未詳 / 冊子 863~865頁
樺山玄佐が自ら、島津貴久方への加勢要請を受けて兵を整え、渡海・出陣した経過を記す。北原・本田方に対する姫木城・清水周辺の攻防、伊集院忠朗ら味方諸将との合流、陣所の移動と戦況判断を日次に近い形で詳述する戦闘記録。
天正14年4月 / 冊子 163頁
天正十四年四月十八日から三日間催された渋谷大夫の勧進能について、円形の桟敷に誰が何間分の席を占めたかを図示した配置図。伊集院・本田・上井・平田など島津家中の諸氏を席順と広さで配置し、中央の舞台を取り囲む観覧空間を視覚化する。催事における家格・序列と会場運営を同時に読み取れる、きわめて珍しい図像史料である。
慶長八年八月廿四日 / 冊子 905頁
服部加兵衛ら三名が連署した鹿児島御物の買物日記。福島で鹿皮三百枚・明礬・大小の角・鐙を銀七百九十三匁六分で購入し、別に公用百九十八匁四分を計上する。
年月日未詳 / 冊子 727頁
北郷忠相が都城・安永二城とわずか八百の兵から出発し、伊東・北原・新納・本田の大勢力と多年境を争い、少数で多数を破って伊東を山東から退け、北原・新納を遠境へ追い、本田を旗下に屈服させた軍歴を記す譜。
四月一日 / 冊子 749頁
鵜戸境目の件について早々に使者をもって知らせを受けたことに深く謝し、引き続き心を添えて支援するよう頼んだ島津忠慶書状。
年月日未詳 / 冊子 823頁
国中の混乱を収めるため島津貴久を太守に推戴し、忠良・忠廣らが国政を補佐した経過を記す。伊集院氏・本田氏を含む諸勢との関係を調整し、各地の城主と所領配置を定め、軍事拠点と知行秩序を再編して領国統治の体制を整えた。
元久2年、延文5年8月22日、応安6年3月3日、永和2年、天文17年10月9日、元和4年、寛永元年3月17日 / 冊子 3~8頁/原整理番号 2
本田氏正統の系図。桓武天皇七代の上総介忠恒につながる祖系から恒親・恒文を経て、親恒・貞親以下の本田氏歴代と諸分流を系線で示す。親恒・貞親の源頼朝・島津忠久への奉仕と大隅国守護、親保(静観)・氏親・親治・忠親・重恒・国親・兼親以下の家督・養子・婚姻を記し、執事・家老・地頭職、宇治川・二俣川・蓑原での戦死、姫木・清水両城、天文十七年の清水城没落、日当山・牛根・曽於郡・敷根等の知行、元和・寛永期までの没年を注記する。
年月日未詳 / 冊子 86~87頁
島津氏久譜として、九州探題今川了俊が島津氏久を招いた際、双方の警固兵が緊張して一触即発となったこと、贈答・饗応と面会、少弐冬資殺害後の九州情勢、氏久が危険を察して退去した経緯を詳述する記事。
年月日未詳 / 冊子 104~105頁
三か国の御家人と相良氏らが一揆して都城を圧迫したため、北郷義久が新納・本田・樺山・平田諸将と籠城した経過を記す。島津氏久は志布志から救援し、天ヶ峯・平長谷方面へ軍を進めて一揆軍と交戦し、都城の包囲を解こうとした。
年月日未詳 / 冊子 156~157頁
応永二年の島津元久をめぐる政治・軍事情勢を記す国史記事。福昌寺領の設定を起点に、波見太郎、渋谷・北原・相良・本田諸氏、今川了俊との関係を述べ、梶山城・高城周辺の攻防、鹿児島と各城地・所領の支配が変化した長期的経過をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 256頁
寄郡の凶徒が蜂起して鹿屋周防介の居城を攻めたため、久豊が薩摩・大隅の軍勢を率いて救援を企てた記事。帖佐・加治木の敵対を避け、吉田・蒲生・本田・税所・敷禰・廻らに軍船を整えさせ、廻から市成へ渡って山田某の館へ進んだ。
年月日未詳 / 冊子 291頁
給黎を領する伊集院頼久を討つため、島津久豊が吉田・蒲生以下の軍勢を率いて陣営を構え、伊集院方の救援・反撃と交戦した記事。伊作・川邊勢の働き、本田・税所・吉田・加治屋らの戦死、城兵の夜間退去を記す。
年月日未詳 / 冊子 302~304頁
松尾城・鹿児島・谷山をめぐる攻防を詳述する長編記事。久豊が籠城救援の軍勢を集め、伊集院・川邊・伊作方と各地で交戦し、城門突破、渡河戦、援軍投入、退却と再攻撃が続いた。家臣・一族の戦死と負傷、軍勢の動揺や和睦策も記す。
三月十四日 / 冊子 476頁
島津立久が本田殿に、敵方との合戦や城をめぐる情勢について意見を伝え、肝要の方策を相談・報告するよう求めた書状。