島津家久譜
慶長三年九月廿九日 / 冊子 240頁
『島津家久譜』が、九月廿九日に明兵一騎が新寨城門から三、四町の地点に標木を立て、ただちに退いたと記す記事。頴娃主水・白濱七助が標木を回収すると、翌十月朔日に新寨を攻めるので、寨将は油断しないようにとの予告が記されていたとする。
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慶長三年九月廿九日 / 冊子 240頁
『島津家久譜』が、九月廿九日に明兵一騎が新寨城門から三、四町の地点に標木を立て、ただちに退いたと記す記事。頴娃主水・白濱七助が標木を回収すると、翌十月朔日に新寨を攻めるので、寨将は油断しないようにとの予告が記されていたとする。
慶長三年九月廿七日 / 冊子 257頁
『佐多民部左衛門覚書』が、慶長三年九月廿七日に明兵・朝鮮兵が晋州方面から泗川へ攻め寄せた際の戦闘を記す記録。島津勢が防戦する中で、相良玄番が戦死したことを簡潔に記す。
年月日未詳 / 冊子 254頁
『御譜雑抄』に収められた記事。本冊では本文がNo.482の記事と同文であるため省略されており、No.482の新寨攻撃を予告する標木の記事を参照する構成となっている。
年月日未詳 / 冊子 143頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0259
大明から大清への国号改変と順治年号、北京・南京・浙江・山東・福建等の兵乱、李自成・清軍・南明諸勢力の動向をまとめた海外風説書。
慶長三年十月朔日 / 冊子 255頁
『北郷三久譜』が、慶長三年十月朔日の泗川新寨攻防で北郷三久が危地を脱した経過を記す記事。三久は明兵と組み合って両者の馬の間に落ち、死にかけたところへ島津忠恒が駆けつけ、相手の明兵を斬って救った。その後、三久は忠恒とともに明兵を追撃して多くを討ち、名誉を得たとする。
慶長三年十月朔日 / 冊子 256頁
『旧記抄』が、慶長三年十月朔日の新寨攻防と狐の霊験を記す記事。明兵二十万が寄せると、義弘は城壁下へ近づくまで発砲を禁じた。白狐一疋が東門から敵中へ入り、続いて赤狐二疋も大軍へ走り込んだため、義弘・忠恒父子は氏神稲荷の加護と信じた。城門を開いて大勝し、戦場で死んだ赤狐を新寨に埋めて弔祭したとする。
正保三年九月二十九日 / 冊子 52~53頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0094
大明兵乱・異国船への対応、船・米穀、使者・奉書、諸家の出仕、家臣の帰国など多数の案件を国許へ報告・指示した連署書状。
正保三年十月二十一日 / 冊子 54頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0098
大明兵乱により平戸へ来た者から事情を聞き、長崎への入港・福州での落城など海外情勢を調査して報告するよう命じた老中連署奉書。
年月日未詳 / 冊子 55頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0099
福州を拠点とする唐王・達人の軍事情勢、捕虜・船・武器、言語や行動、帰還の可否など、唐人から聞き取った大明兵乱関係の覚書。
正保三年十月二十六日 / 冊子 55~56頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0101
大明兵乱に伴う平戸・長崎方面の情報収集と警固、使者・奉書、江戸での諸大名の出仕、家臣の帰国などを国許へ報告・指示した連署書状。
年月日未詳 / 冊子 257頁
『佐多民部左衛門覚書』が、順天・泗川方面の瀬戸口で行われた水戦と帰陣を記す記録。兵船を揃えた翌朝に明の兵船が攻めかかり、双方で多数の船を焼失した。樺山權左衛門らが島へ追い上げられたものの、潮時を得て釜山浦へ退き、日本帰陣のため諸手が合流した。島津の船団は全軍の殿を務めたとする。
正保三年十月二十六日 / 冊子 56頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0102
阿部重次から留守居衆へ示された書付、長崎奉行高力隆長の指示、大明の争乱と異国船への警戒などを国許へ伝えた連署書状。
年月日未詳 / 冊子 661頁
文禄二年正月二十七日、李如松が明兵二万を率いて碧蹄館へ進むと、小早川隆景は籠城では兵糧と釜山からの援路が絶えるとして野戦を主張する。 立花宗茂も、平壌勝利で油断した明軍を城外で迎撃すべきだと説き、諸将が碧蹄館の決戦へ向かう論議を記す。 碧蹄館の戦い直前の作戦判断を、補給路・敵心理・兵力運用の観点から伝える記事。
慶長三年九月廿八日~十月朔日 / 冊子 241~242頁
『島津義弘譜』が、董一元・茅国器らが内応者郭国安を用いて望津の兵糧を焼き、望津・永春・昆陽の三砦を攻略した後、泗川・新寨へ迫った経過を詳述する記事。島津義弘は金印を示す和親案を拒み、九月廿八日の撤収時には相良玄番ら約百五十人が戦死し、川上忠実は鎧に三十六本の矢を受けながら退却した。忠恒が反撃を望む一方、義弘は敵数不明として城門を閉じて応戦を控えさせ、明軍を退かせた。翌廿九日には明側が新寨より固城を先に攻める策を論じ、明兵が十月朔日の新寨攻撃を予告する標木を立てたとする。