日向国在国司所職所々注文
文保二年六月五日 / 冊子 465頁
日向国在国司所職に属する所々の年貢・公事を列記した注文。河南方新納院・臼杵郡・山東・山西などについて、年貢米・雑事米・餅・肥東西・加字原名等の負担を、石・斗・貫文単位で記し、在国司所職の収納構造を示す。
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文保二年六月五日 / 冊子 465頁
日向国在国司所職に属する所々の年貢・公事を列記した注文。河南方新納院・臼杵郡・山東・山西などについて、年貢米・雑事米・餅・肥東西・加字原名等の負担を、石・斗・貫文単位で記し、在国司所職の収納構造を示す。
建武二年十二月十一日 / 冊子 639頁
軍功の賞として日向国新納院地頭職を島津下野四郎時久に宛て行い、先例に従って領掌させるよう命じた足利尊氏宛行状。
建武三年四月一日 / 冊子 659~660頁
日向国新納院地頭職について、建武二年十二月十一日の将軍家御下文に従い、島津下野四郎時久へ現地を沙汰付けするよう命じた高師直施行状。代官派遣による執行を求め、軍忠のため上洛中である時久の知行を保護する。
建武三年八月廿四日 / 冊子 660頁
日向国新納院地頭職は島津四郎時久が拝領したにもかかわらず濫妨があるとして、その忠節に報いるため速やかに無為に沙汰付けするよう求めた高師直書状。
建武三年十二月廿一日 / 冊子 660頁
島津四郎時久が申す日向国新納院について、先例どおり煩いなく沙汰し、軍忠に励んで公事を勤めるよう伝えた高師直書状。
十二月廿三日 / 冊子 660頁
日向国新納院内宮頸村の島津四郎時久所領が仁秩更代の間に違乱された件について、承知して沙汰するので、上洛して細部を申し述べるよう促した沙弥明眼書状。速やかな入洛を求める。
(建武三年)八月四日 / 冊子 671頁
大隅国新納院・同国救仁郷などで肝付兼重以下が濫妨している件について、忠顕朝臣の申状を添えて、子細を調べ、早急に追出して雑掌へ沙汰するよう式部少輔に命じた後醍醐天皇綸旨。
文保二年三月十五日 / 冊子 464頁
島津道義が四男下野守忠氏分として大隅国佐多を譲与したとする文書。所領知行を先例どおり沙汰する旨を記すが、本文疑文書との注記がある。
文保二年三月十五日 / 冊子 464頁
島津道義が三男三郎左衛門尉忠光分として日向国新納院を譲与し、先例どおり知行させるとした文書。本文疑文書との注記がある。
建武三年五月十二日 / 冊子 665頁
新田右衛門佐与同の益戸弥四郎行政・同四郎兵衛尉秀名・石河内弁済使らとの新納院岩戸原彦尾合戦で、土持新兵衛尉が忠節を尽くしたことを賞した畠山直顕感状。
年月日未詳 / 冊子 790頁
新納時久が新納院没落後に薩摩国高江、さらに日向国救仁院へ移ったことを記す。足利直義と高師直兄弟の政争では師直方を支持し、尊氏の近習として軍事に従い、師直兄弟救援のため上洛・参戦した経過を詳述する譜記事。
延文二年十二月十三日 / 冊子 8頁
刑部少輔一色範親が土持冠者に、島津時久が旧来知行していた日向国新納院地頭職を兵粮料所として宛行い、いっそう忠節を尽くすよう命じた宛行状。
天正六年十一月十二日 / 冊子 558頁
天正六年十一月十二日、島津義久が大友宗麟・義統父子と新納院高城で戦った際、大友軍の進撃が急になると、北郷相久が島津征久とともに敵の横手を攻め、大友軍を大破して敗走させた。
(元弘三年)八月四日 / 冊子 216頁
後醍醐天皇の意を奉じ、日向国新納院・救仁郷などで兼重らが濫妨しているとの千種忠顕の訴えを受け、日向国守護に彼らを追放して雑掌を居住させるよう命じた綸旨。岡崎範国が奉じる。
年月日未詳 / 冊子 569頁
島津忠宗四男時久を新納氏正統の祖とし、鎌倉・京都で軍務に励んだ功により足利尊氏から重器、両島津の称号、守護装束、日向国新納院地頭職を与えられて新納を称した由来を記す系図抄。
八月廿四日 / 冊子 569頁
新納時久が拝領した日向国新納院地頭職が濫妨されているとの訴えを受け、時久は忠節の者なので、妨げなく所領を付けるよう命じた高師直書状。
十二月廿一日 / 冊子 570頁
新納時久の軍忠と在京奉公を理由に、日向国新納院を先例どおり煩いなく知行できるよう配慮することを畠山直顕へ求めた高師直書状。
十二月廿三日 / 冊子 570頁
新納時久の所領である日向国新納院内宮頸村へ新たな代官が入り違乱しているため、執事の度重なる施行に従って停止するよう求める。領家職も先地頭の例どおり支障なく沙汰するよう要請した沙弥明眼書状。
年月日未詳 / 冊子 577頁
新納時久が新納院高城に居住して名字を称した由来、高江・救仁院の知行、足利尊氏からの剣所・守護装束・長光太刀拝領を記す。年頭出仕時の門開き、八朔太刀の優先受領、弓袋・鞭など新納家固有の礼法・道具も列挙した覚書。
弘治元年、天正6年、天正15年4月17日 / 冊子 19~21頁/原整理番号 6
本田氏十二代兼親の二男・親貞(初名親成、又五郎、刑部少輔、因幡守、入道一恕)を祖とする系図。家嫡董親の背命・悪虐をたびたび諫めながら聞き入れられず、守護に属して忠義を守った由緒を記す。後裔では友親の大隅州西原での戦死、盛親の弘治元年岩剣城攻略、親治の加世田地頭と天正六年新納院高城での大友軍との戦死、親秀の義久家老・出水地頭、親光の朝鮮での軍功、親智の忠恒奉仕と背命による誅殺、親盛の目白坂戦死、甑島・湯之尾・禰寝・高江・馬越・野田などの地頭職、婚姻・養子関係を収める。
天正8年10月16日・11月23日、天正15年4月 / 冊子 257頁/原整理番号 102
『上原氏系譜抄』に収めた上原氏三名の軍功・戦死記事。上原兵部少輔は天正十五年四月の新納院高城援兵に加わり、上原勘解由兵衛尉尚弘は天正八年十一月二十三日の肥後合志城攻めで戦功を立て、上原内蔵介は同年十月十六日の肥後網田城攻めで戦死した。各人一条ずつを簡潔に列記し、系線や親子関係は示さない。
永禄12年、天正6年11月11日、寛文5年 / 冊子 325頁/原整理番号 123
市来家氏流の家守以下を一頁に示す系図。新納忠元の妹を母とする家満は天正六年十一月十一日に新納院高城で戦死し、その子家繁は永禄十二年生まれで、頴娃・庄内・高城・伊作・蒲生などの地頭を歴任して多くの忠功を立て、宗友は蒲生地頭、家良は兵具奉行、家実は光久へ太刀・青銅を進上して御納戸奉行・穆佐地頭・御側御目付・鹿屋地頭を務めたとする。後代では、家張が高奉行、家的が三十六歳で大坂に死去し、家年が嫡宗家親の養子となったこと、家貞が兄二人の死後に家督を継いで江戸で死去したこと、家重が寛文五年に生まれ、兄二人の死により家督を継いだことなど、戦死・役職・養子・相続を記す。
応永16年2月18日(1409) / 冊子 457~458頁/原整理番号 14-16
指宿近江守忠合が子息・平頼忠へ、薩摩国指宿郡五ヶ名を重代相伝の所領として譲った応永十六年二月十八日付譲状。父・能登守忠勝の公方御教書や代々の本証文を根拠に、指宿郡一円の知行と正忠・忠合へ至る相続経緯を述べ、父祖代々の証文が明白であるとして頼忠への譲与を定める。後続系譜には、永吉城・新納院高城・日州庄内での戦死、島津尚久・本田氏・市来家・松下家との婚姻、忠政の関ヶ原合戦従軍と感状・知行百石、福山居住・没年法名など、指宿氏後裔の軍歴と家系を記す。
建武三年五月十二日 / 冊子 61頁/原整理番号 299
畠山直顕が、土持新兵衛尉らが五月十日に新納院岩戸原彦尾で、新田義貞方の益戸弥四郎行政・益戸四郎兵衛尉秀名・石河内弁済使以下と合戦して忠節を尽くしたことを賞した感状。建武三年五月十二日付。
建武二年十二月十一日 / 冊子 334頁/原整理番号 100
日向国新納院の地頭職を、勲功の賞として嶋津下野四郎時久に宛行い、早く領知させる。建武二年十二月十一日付の足利尊氏宛行状。
年月日未詳 / 冊子 407~410頁/原整理番号 無番号_0001
季安が薩摩・大隅・日向に残る「院」の地名を列挙し、その起源を古代の郡・郷ごとの倉院設置に求める論説。『続日本紀』『日本後紀』の倉庫・正倉院令と『建久図田帳』を照合し、郡司と院司の称が併存したこと、牛屎院・祁答院などが広域の郷を統べた例を論じる。新納院の名を新設倉院への租税収納に結び付ける説は推測として示し、天保五年七月に起稿、嘉永三年五月に鮫島宗賢が写した。
天正六年八月十八日~十月十九日以後 / 冊子 591~592頁
大友軍は八月十八日に耳川を越え、十月十九日に十万余騎で新納院高城へ進み、野頸・内原・田間・松原などに布陣した。山田有信ら五百余人と三州の交替兵、家久を大将とする六千余騎が籠城した。大友方は城外を焼き包囲したが、城中では古橋の陰から水が湧き、数千の兵が渇きを免れたことを義久の徳による奇瑞とする。
目録年月日記載なし / 冊子 416頁/原整理番号 2
「伊東氏系図」に見える日向の土持・伊東・島津各氏の所領を列挙し、島津家には地頭所のほか薩摩・大隅・日向の守護職が伝わったと述べる。道義が文保二年三月二十三日に子の時久・資久・資忠へ新納院や北郷などを譲った記事を挙げ、後続の守護職文書へつなぐ。