殉国名藪
年月日未詳 / 冊子 666頁
大永六年十一月七日前後の帖佐方面の戦いで、鎌田政辰や島津安久・又七郎らが戦死した経緯と、邊川方への援軍・戦闘を記す記事。
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年月日未詳 / 冊子 666頁
大永六年十一月七日前後の帖佐方面の戦いで、鎌田政辰や島津安久・又七郎らが戦死した経緯と、邊川方への援軍・戦闘を記す記事。
天和三年七月七日 / 冊子 117~118頁/原整理番号 29-1
諏訪兼時・鎌田政辰が祢寝八郎右衛門清雄へ、表方の御蔵入に加えて二之丸の御蔵入・知行方も惣郡座の差引とし、当年から担当するよう申し渡す。清雄の先の提案を表方老中・藩主に諮った上での決定で、二之丸知行方の用事は従例どおり二之丸へ申し出る。
天和三年七月七日 / 冊子 118頁/原整理番号 29-2
諏訪兼時・鎌田政辰が物奉行へ、二之丸の御知行方を惣郡座の差引とした決定に沿って引き継ぎを行うよう命じる。これに伴い、江戸詰物奉行の加扶持を停止し、御蔵入方の筆者・井手代も不要とする。
年月日未詳 / 冊子 620頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1524
綱貴は同年八月十六日に江戸を発ち、家老町田忠代・使役平山忠知・鎌田政辰らと東海道を下る。勢州関で腹痛のため滞留療養し、九月四日に伏見、十六日に大坂から出船、十月十四日に出水脇元、十九日に船間島を経て二十二日に鹿城へ入る。禰寝孫左衛門清賢を帰国礼使として東都へ遣わし、白綸子二十巻・干鯛一箱・するめ(原字鰑形)一箱・御樽一荷を献じる。清賢自身も太刀・馬代・時服三を献じ、時服五を賜る。
年月日未詳 / 冊子 614頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1497
父島津綱久の死去を知った島津綱貴が、諸侯交替の期により喪中ながら参府し、三月六日に国元を発ち、町田忠代らを伴って京泊から乗船、大坂・伏見を経て四月十六日に江戸へ着き、同二十八日に将軍徳川家綱へ拝謁した記事。
年月日未詳 / 冊子 685頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1754
島津綱貴が延宝五年十月十三日に江戸を発ち、家老島津久馮らを従えて伏見・大坂・海路・日向細島を経て十一月十六日に鹿児島へ帰着し、帰国御礼の献上を行い、使者入来院重治が時服を賜った経過を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 691頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1779
島津綱貴が延宝七年八月六日に帰国許可と下賜品を受け、十三日に江戸を発ち、大坂から出帆後に風雨で高城郡水引平島へ寄り、九月十五日に鹿児島へ到着し、久寧を礼使として江戸へ遣わして献上した経過を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 693~694頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1789
島津綱貴が延宝八年四月十四日に参勤のため鹿児島を発ち、町田忠貞らを従えて大坂・伏見を経て江戸へ入り、将軍家へ献上し、のちに御太刀・銀・時服などを拝領した行程を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 705頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1825
島津綱貴が大久保忠朝を上使として帰国許可と前例どおりの拝領品を受け、将軍へ謝礼した後、七月二十八日に江戸を発ち、大坂から船路・陸路を経て八月十九日に鹿児島へ帰着した経過を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 718頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1877
綱貴公御譜中に、天和四年二月五日に鹿児島を発ち、家老島津中務久輝・島津甲斐久武らが従ったと記す。同十二日に日州細島で乗船し、十八日に発船、二十七日に大坂、晦日に伏見へ着き、三月三日に伏見を発って十一日に参府、十六日に登営して太刀一腰・綿百抱(把カとの注)・馬代黄金十両を献じ、綱吉に拝見した。
年月日未詳 / 冊子 797頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2100
島津光久が隠居後に帰国の暇と拝領品を受け、江戸を発って家臣らと帰国し鹿児島の下屋敷へ入ったのち、島津久寧を江戸へ遣わして帰国を礼謝し、献上を行った記事。
年月日未詳 / 冊子 29~30頁/原整理番号 111/整理ID 111
同月十三日、重豪が登城して白書院に赴くと、松平輝高・松平武元・松平康福・阿部正右が縁に連座し、輝高が台命を伝えた。琉球使節の来朝が将軍の意にかない、先例に従って従四位上・左近衛中将に叙任するとの旨で、重豪はこれを拝受した。続いて西城で奏者仙石越前守政辰に取り次ぎを受けて拝礼し、老中宅へ謝意を述べに赴いた。同日、琉使参府のため上使池田筑後守政倫を通じて二千苞の賜物があり、再び老中宅へ礼を述べた。賜物の品名字形は留保する。出典は御譜中。目録は記事で年月日欄を空欄とする。
記事中同年三月二十二日~九月二十八日(目録は安永二年) / 冊子 362~363頁/原整理番号 1017/整理ID 1017
同年三月二十二日、上使松平周防守康福が帰国許可を告げ、同日、大納言家基も阿部豊後守正允を芝の邸へ遣わして旨を伝えた。拝領品物は先例どおりで、重豪は老中の邸を廻って礼を述べた。二十五日に命により朝見し、黒書院で将軍家治から懇命を受け、馬を賜る。西城では奏者仙石越前守政辰へ謝し、同日、小松帯刀清香も先格により家老として贄を執り拝謁した。重豪は閏三月十五日に江府を発ち、家老山岡齋宮久澄、側用人島津登久連・関山軍兵衛金郷、近習役山田司明遠が供をした。東海道・伊勢路を経て四月朔日に大坂着、三日に大坂を発って播磨路を進み、五日に播州室へ泊まり、翌六日に乗船した。十三日に豊前大里、二十一日に薩州出水へ入り、二十五日に鹿城へ帰着した。同日、謝恩のため島津助之丞久前を江府へ遣わす。久前は薩府を発って西海・山陽・東海の三駅を経、五月二十八日に江府着。六月朔日に執政松平右近将監武元・阿部豊後守正允の邸へ赴き、記事は三連署への挨拶等を記す。七月朔日に命に応じて登営し、白書院で家治に拝謁して献物を奉じ、重拝して退いた後、西城の檜間で阿部正允に物目録を呈した。四日に再び登営し、檜間で田沼主殿頭意次から復書を受け、家治から巻物二を賜った。さらに阿部正允の邸で回翰を受けた。七月十一日に久前は江府を発ち、同年九月二十八日に薩府へ還って復命した。重豪自身の帰国と、その後の謝恩使の奉使・帰還を区別して記録する。
安永八年三月十二日(年は朱書) / 冊子 566~567頁/原整理番号 1600/整理ID 1600
三月十二日、今朝五半時に供を揃えて登城した御礼の次第。御用番は田沼主殿頭、奏者番は仙石越前守で、謁見前に大廊下へ大目付正木志摩守・伊藤伊勢守が出て、別紙の名書にある者は謁見後に白書院縁頬で仰渡しがあるので居残るよう主殿頭からの指示を伝える。手扣の書付で各席へ知らせ、謁見後は桜の間の杉戸涯口へ寄るよう重ねて指示し、居残りのない者は早く退出させる。謁見後、杉戸の際に寄ると大目付が会釈し、白書院縁頬へ席ごとに一同出座、老中列居の中で主殿頭から別紙の書付どおりに仰渡され、礼を述べて退座する。伊勢守は再び礼の心得を尋ね、記録中の「私」と上杉弾正大弼は列席の礼だけで別段の礼をしない先例であるが、このときは格別の仰渡しなので両人ともどう礼をすべきか、御用番へ尋ねて知らせるという。追って、このときの御用番へ一同礼に来るよう伝えられ、すぐに赴いて記載の口上を述べたとする。口上は、中陰中に懈怠なく出仕したことが上聞に達し、機嫌との上意を伝えられたのをありがたく思い、礼のため伺公したというもの。節句以外は服紗小袖・半袴を着用すると付す。
天正5年、天正13年、文禄元年、慶長5年3月28日、慶長11年、寛永4年8月14日、寛永14年3月5日、寛永17年10月7日、明暦2年10月5日、寛文7年11月28日、延宝6年、延宝8年、天和元年、享保11年正月11日、延享2年7月11日、元文4年4月24日、元文6年3月12日、寛保元年7月20日、寛保3年6月7日、明和8年6月27日 / 冊子 30~34頁/原整理番号 10
田布施士・篠原諸左衛門政盛家の庶流にあたる鎌田政香家の略系図。鎌田氏四代清重の二男・篠原清時から十代、篠原政明の二男に発する一流とし、政実は嗣子のない鎌田家へ婿養子として入り、実は上井薫兼の五男で上井覚兼の弟だったと記す。政徳・兼安以下の出生・没年、鬼塚・鎌田・曽木・義岡・伊集院諸家との養子縁組、婚姻をたどり、馬越・清水・小林、田布施・串木野、郡山・平松・中郷・坊津・清敷・帖佐などの地頭職、御使役・近習役を列記する。政親は島津綱貴・光久に近侍し、政興は島津吉貴から名・詞花集・伽羅三種と二重十文字紋を拝領して大御目付役を務め、寛保三年の隠居時に政恒が家督を継いだ。
天和三年五月廿九日 / 冊子 551頁/原整理番号 14-1
楮・桑などの植付けをめぐる申渡し。各郷で植木を育て、苗木を配り、必要な場合には役人に申し出るよう伝える。
天和三年七月七日 / 冊子 551頁/原整理番号 14-2
江戸からの物奉行関係書付を諸郷へ伝え、楮・桑などを植える際の扱いと数量の申出を求める。
年月日未詳 / 冊子 532~533頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1208
同年六月七日からの幕府浦廻上使高林又兵衛貞義・向井八郎兵衛正興の領内巡行を記す。日向福島を経て志布志へ入り、光久は岩切六右衛門信吉・相良民部左衛門頼常を郷導、歩行十四人、船奉行鎌田五太夫政辰、殿役奉行谷山平左衛門忠宣が率いる荷担人馬等を手配する。内之浦・大泊・佐敷・小根占・高洲・垂水・桜島・福山・加治木・脇本・鹿児島・喜入・山川などの泊休・迎接を記し、鹿籠・片浦・白木野・阿久根・長島等を経て二十五日に米之津から肥後へ出船する。郷導・挽舟・乗船を継送し接待する。