島津忠継書状
六月廿九日 / 冊子 285~286頁
島津忠継が、ふくすまろに関わる品や文書の預け置き・扶持、太郎三郎らによる取扱いについて細かく指示し、不測の事態にはこの書状に基づいて処置するよう、せんず御ぜんへ伝えた書状。本文に難読箇所がある。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
29 件 (全巻)/ 1–29件を表示
ページ 1 / 1
六月廿九日 / 冊子 285~286頁
島津忠継が、ふくすまろに関わる品や文書の預け置き・扶持、太郎三郎らによる取扱いについて細かく指示し、不測の事態にはこの書状に基づいて処置するよう、せんず御ぜんへ伝えた書状。本文に難読箇所がある。
二月十九日 / 冊子 542頁
重病で助からないと考えた島津忠継が、越中布施保の下布施は知行済みだが、上布施では本主が退かず教書を得たこと、山田某が異論を唱えたことを説明する。下文正文を送り、所領を裁定して扶持するよう託した置文。
年月日未詳 / 冊子 11頁
町田氏庶流の系図記事。町田三郎五郎が弘治元年四月朔日、隅州帖佐岩剣城の戦いで十九歳にして戦死したこと、兄の死後に新左衛門忠継が家を継ぎ、永禄十年の馬越城合戦で二十九歳にして戦死したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 90頁
川上久朗の弟で右京亮と称した川上忠継が、永禄四年七月十二日に島津忠将に従って戦死したことを記し、法名を忠心長継居士とする系図記事。
永禄十年十一月廿四日ほか / 冊子 170~171頁
永禄十年十一月二十四日の馬越城攻めを中心に、同月二十五日・二十九日などの戦闘で戦死・負傷した将兵を列挙する交名抄。辻大蔵左衛門尉、有馬軍弥左衛門尉、村田右衛門尉、町田忠継、市来家利、伊集院久慶らの名と戦死・負傷等の注記を載せる。
年月日未詳 / 冊子 631~634頁
頴娃家で嫡子忠継と弟久虎が対立し、忠継が開聞寺の神殿へ籠もった末、頴娃新左衛門尉に射殺された経緯を記す。その後、久虎の母が政務を専断したため家臣十人らが諫めたが、指宿へ退いた百余人は本田政親による和談を信じて頴娃郡周磨寺へ入り、久虎勢に攻め滅ぼされた。
年月日未詳 / 冊子 225頁
大田忠角譜の記事。忠角は大田吉兵衛忠綱の養子で、実父は島津実久の庶子・三葉左近太夫忠継入道竹庵であり、島津義弘から賜った法度の条目を深く尊び櫃に収めて伝えたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 533頁
越前島津氏の忠綱から、知賀・宇宿を称した忠継らを経て宮里久時へ至る系統と、嫡庶の断絶を記した宮里氏系図抄。
七月廿七日 / 冊子 538頁
薩摩国御家人指宿平四郎忠秀と頴娃平太忠継が争う開聞神領について、双方を召して裁決し、事情を注進するよう命じた北条泰時書状。
年月日未詳 / 冊子 556~557頁
島津実久の子女と婚姻、将軍から偏諱を受けて陽久・義利から義虎へ改名した経緯、忠継が大田忠綱の養子となったことなどを記した薩州家系図抄。
(弘長元年)七月十二日 / 冊子 242頁
藤原忠継が、魔嶋中務次郎康邦と矢上左衛門尉盛澄後家との相論について、四月五日付の重ねての御教書を七月四日に受領し、命令どおり参上して事情を申し述べると請けた文書。
(弘長元年)十二月廿二日 / 冊子 247~248頁
藤原忠継が、命じられた沙汰の内容を承知し、関係者へ触れたところ異論がなかったため、その旨を上申し、御披露を求めた請文。
正応五年二月廿日 / 冊子 370~371頁
島津忠継が伊作二郎左衛門尉へ仮名書きで伝えた置文。田地・家中の扱い、山田の件、親族・子供への配慮などを申し置き、後日の所務方針を示す。
六月廿九日 / 冊子 482頁
山田忠継が坊門少将へ、婦負庄上保の文書・帳目・譲状を預け、下保地頭職を福寿丸へ譲るよう依頼した仮名書状。福寿丸の扶持、上保・下保の年貢や領掌、関係者への給付を申し含め、太郎三郎へも伝達するよう求める。
延宝三年三月七日 / 冊子 646頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1609
松平忠継が島津光久へ、先月十九日に島津綱貴の婚礼が首尾よく済んだと聞き、光久の満足を推察して祝意を述べた書状。
年月日未詳 / 冊子 91頁
永禄四年五月から七月十二日にかけての廻・竹原山合戦における島津忠将以下の戦死者を列挙する。町田氏・川上氏・酒勾氏などの武士に加え、中間・従者・人足まで多数の名を伝える。
年月日未詳 / 冊子 139頁
島津久経を中心とする系図。忠継を山田氏の別祖とし、他腹のため家督を継がなかったこと、久経が初め久時と称し、修理亮・下野守を名乗ったこと、母を伊達判官入道念性の妹・西忍とすることを記す。
年月日未詳 / 冊子 184頁
薩摩郡司平忠友から忠国・忠継・忠重若松四郎へ続く系統を簡略に示した系図記事。No.418-1譲状の受領者関係を補う。
年月日未詳 / 冊子 329頁/原整理番号 127
正文が新田宮執印家に伝わることを示す短い系図。八文字民部大夫忠友から橋口右衛門尉忠康、豊後守忠久、大隅前司忠時へ続く系線を掲げ、忠久の一族として式部忠継、小嶋右衛門入道、修理亮久時、出家した長久を分岐させて記す。
寛元元年9月13日 / 冊子 354頁/原整理番号 134
寛元元年九月十三日、平忠茂が徳夜叉丸へ先祖相伝の所領を譲った譲状。本若松名主職、羽島浦成枝内の田畠・山野・海、花牟礼村中嶋薗一所・杏崎薗一所、名内田二町三十代、屋敷一所を列挙し、本若松坪付、羽島浦成枝の代々手継、関東御教書案文、花牟礼村の調度文書等を添えて永代譲与する。御教書正文は連文のため譲れず案文を証拠とし、羽島成枝分は本郡の恒例・臨時役の六分一を負担、山野狩倉は本名・他名と共同利用すると定める。忠茂は以前上洛時に長男忠継へ本若松を譲ったが、忠継には代わりに木野若松名一曲を譲り、旧譲状を無効として本若松を徳夜叉丸へ移し、嫡子忠国と証人沙弥頼仏が在判する。
7月27日(年未詳) / 冊子 452頁/原整理番号 14-1
北条泰時が豊後四郎左衛門尉へ、薩摩国御家人・指宿平四郎忠秀と頴娃平太忠継が争っている開門神領について、豊後三郎左衛門尉と共同で両当事者を召して裁決し、双方の主張と処置を注進するよう命じた七月二十七日付書状。本文後には指宿氏系譜を続け、忠成が郡司・小次郎を称し、法名を了心としたことを記す。
天文3年4月3日(系中の久礼橋討死記事) / 冊子 528~529頁/原整理番号 28
惟宗氏の宗大納言・紀中納言から忠方(若狭守)・知国へ続き、友兼・国光(筑前介)・成光(山城介)・国広(筑前介)の諸流へ分かれる執印家の古系図。国広系は忠友(民部大夫)―忠康(橋口右衛門尉)―忠久(豊後守)―忠時(大隅前司)へ続き、忠広(上総前司)・忠秀(兵衛尉)も掲げる。友兼系からは友広・友家・友久・康弘・康郷・重兼・友成・師久・光久らを出し、国分家元祖や佐包・新田宮執印などの注記を伴う。別に忠継―忠実、小嶋右衛門入道、久時―宗忠―貞久―宗久―氏久―元久―久豊―忠国―立久―武久―忠昌へ至る系線、重友(宮内允)から友郷・友雄・友弟・友令・康令・康秀・康貴らへ続く系統、政家・友氏から友繁・友豊・友俊・友孝へ分かれる市来・国分系の関係を図示する。末尾には興国寺殿玄鑑が天文3年4月3日に久礼橋で29歳にて討死した記事や、政家を市来政家とし、執印家が惟宗姓を名乗る由緒を記す。
年月日未詳 / 冊子 125~136頁/原整理番号 26
『吉富氏系図写』の中表紙に続き、頴娃三郎忠長の六男・薩摩六郎忠直を祖として、薩摩氏吉富流の諸家を近世後期まで展開する系図。薩摩郡本地頭、串木野若松・吉富名・羽島などの知行、加世田城・日州飯野・関ヶ原・目白坂等での軍役と戦死、朝鮮出兵・琉球渡海、加治木・帖佐・平松・蒲生・高岡への移住と奉公を記す。各代の通称・官途・入道名、妻の出自、養子・分家・家督相続、出生没年・法名・墓所のほか、御右筆、糺明奉行、物奉行、山奉行、高奉行、小番、進物番、横目、勘定方小頭、代官など近世の役歴を詳載する。本文は冊子p136で終わり、後続2頁の『諸家系図 三』表紙・収録氏名一覧は本系図に含まれない。
年月日未詳 / 冊子 374~375頁/原整理番号 83
菱刈重猛が伊東方と結び、重猛の死後も重任が幼い鶴千代を奉じて侵攻したと記す年譜。貴久は飯野から兵を出し、馬越を夜襲して井手籠一族二百余級を得た。忠元も槍で四人を討ち、貴久らは落とした八城へ兵を配置した。相良義陽の加勢を受けた菱刈方との戦いで、市山の守将らが戦死した。忠元は馬越から市山の地頭に移され、蒲生に采邑を与えられ、所属兵を率いて奉公したという。
寛元元年九月十三日 / 冊子 184頁
平忠茂が父祖相伝の羽嶋浦加成枝名の田畠・山野・荒野等を、子息忠国・忠継・忠重らへ分割譲与した状。各人の持分と、違乱禁止・相互扶助を定める。
年月日未詳 / 冊子 212頁
調所恒久を、島津久経の弟・式部忠継の子で、継豊・三朝・左衛門尉宗長に関わる人物として記す短い伝記事。
弘安六年八月日 / 冊子 314頁
越前島津氏の系図として、忠経・忠幹・忠政から忠景・忠継・忠左衛門三郎らへ続く系統を簡略に示す。
永禄十年十一月廿三日~廿四日 / 冊子 171頁
永禄十年十一月二十三日からの馬越城攻めに従軍した将兵を、義弘・歳久の指揮下に分けて列挙した交名。戦功を挙げた者に加え、辻大蔵左衛門尉、村田右衛門尉、町田忠継、新納九郎らには戦死の注記を付す。
年月日未詳 / 冊子 310~311頁/原整理番号 148
久豊譜が、永利城は忠朝の守る所で、忠朝と渋谷一族が市来氏らと謀って応永二十五年十二月に大石ヶ平へ陣し、翌年に山田へ進んだと記す。清色弾正忠正の兵数十人が討たれ、忠正は私心から乱を起こしたと詫びて守護へ救援と今後の忠節を申し出た。久豊方は佐多守久を道行の将として永利城を攻めたが城は堅く、球麻・真幸の援兵も到着して攻囲が続いた。城内が窮して忠朝は隈城へ退き、和議ののち忠正に永利城を預け、その子貴久以下まで軍忠を変えないと約束した。