喜入忠弘譜
年月日未詳 / 冊子 568~569頁
明応四年六月末から七月初めの加治木方との合戦について、喜入忠弘らが坂口の守備・反撃にあたり、敵を討ち退けた経緯を記す譜記事。
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年月日未詳 / 冊子 568~569頁
明応四年六月末から七月初めの加治木方との合戦について、喜入忠弘らが坂口の守備・反撃にあたり、敵を討ち退けた経緯を記す譜記事。
(明応九年)十月十七日 / 冊子 578頁
喜入忠弘が加世田河内守に、菊三郎をめぐる相談への返答がないことを述べ、事情を確認して早急に返事をするよう求めた仮名書きの書状。
年月日不詳 / 冊子 119頁
島津忠弘が新納近江守に年頭の慶賀を述べ、先方で弓箭の事態が不慮に進んだとの風聞を案じた書状。従来の交誼に基づき、便宜を得て書状を送り、表革三枚・七領形一双を進上する。
十月十七日 / 冊子 544頁
加世田の河内守島津久逸の戦死を悼み、菊三郎の今後を案じる。弓箭では将来が定まらず、島津家当主と疎遠になるのは不利なので、旧知の者と相談し、鎌田出雲らを通じて返書するよう勧めた喜入忠弘書状。
年月日未詳 / 冊子 747~749頁
豊州家六代朝久以後の系図。島津義弘の嫡女を母とする久賀、島津家久の庶子で朝久後室の領地を継いだ忠弘、松平定行家などへの婚姻、久次・久美以下の生没年・母方・養子関係を記す。
年月日未詳 / 冊子 755~756頁
島津忠国の七男忠弘を祖とする喜入氏系図。弟頼久を養子として家を継がせたこと、指宿から喜入へ移って喜入を称した忠春、力と弓術に秀でた長久、季久へ続く生没年・母方・寺院関係を記す。
年月日未詳 / 冊子 796頁
天文十年、島津忠広の臣日置美作守が伊東義祐勢との戦いで討死したことを記す。日付を九月三日または三月三日とする異説や、同族新納氏の戦死者も挙げる。
弘治三年十一月七日 / 冊子 51~54頁
弘治三年十一月七日に興行された『何人』を賦題とする百韻連歌。梅・雪・冬の庭から始まり、月、旅、恋、無常、神仏、四季の景物を取り合わせ、貴久・義久らが句を継ぐ。
年月日未詳 / 冊子 254頁
島津光久譜の記事。徳川家光が水野藤右衛門を上使として薩摩へ遣わし、鷹狩で得た鶴を島津光久へ賜った。光久はこれを拝戴し、島津市正忠弘を江戸へ急派して幕府執政へ謝意を述べ、忠弘は登城して酒肴を献上し、将軍家から時服十領を賜った。
明暦二年一月 / 冊子 275~282頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0601
後光明天皇崩御後の後西院天皇即位に際し、光久が島津市正忠弘を京へ遣わし、禁裏・仙洞・新院・女院などへの太刀・白銀等の進上を記す。続く御太刀馬代上り帳は諸大名の石高、馬代の金銀枚数、取次の家来を位階等の区分で列記し、先年の進上覚、位階別返礼、光久使者自身の進上と一部返却も収める。末尾は清閑寺・野宮・小川坊城への銀一枚ずつ、明暦二年正月まで完結する。
観応2年11月29日 / 冊子 253頁/原整理番号 91
観応二年十一月二十九日、足利直冬(源朝臣)が伊作田兵部大夫道材へ、軍功の恩賞として薩摩国日置の弥勒寺名付若松三十町(宗太郎忠弘跡)と伊作田村惣地頭職(島津上総前司入道跡)を宛行った下文。道材に両所を早く領知し、先例を守って沙汰するよう命じる。正本は家蔵され、『旧記雑録前編二』三九〇号文書と同一と注記される。
万治二年八月日 / 冊子 20頁/原整理番号 6-4
鎌田政直は、串良院の弘誓寺が大慈寺の末寺で、島津氏久により創建・寄進された寺であると記す。寺地はいったん公領となったが、光久の采地改めの際に住持・地頭島津忠弘・役人相良長廣が訴え、官寺に復して寺地一段三畝が再寄進されたという。後年の証拠として経緯を書き残した証状。
本文日付:正安元年十一月八日 / 冊子 341頁/原整理番号 五二八/整理ID TMP-P02-NENE4C-D0528
大隅国役所の今津後浜警固番役について、当国御家人佐多孫九郎信親の代兵衛四郎忠弘が勤仕したことを証する。
本文末年紀:正安二後七月廿六日 / 冊子 341頁/原整理番号 五三〇/整理ID TMP-P02-NENE4D-D0530
大隅国役所の今津後浜警固番役について、佐多孫九郎信親の代である兵衛四郎忠弘が勤仕した旨を証する。
本文末年紀:正安三七月廿五日 / 冊子 341頁/原整理番号 五三一/整理ID TMP-P02-NENE4D-D0531
大隅国役所の今津後浜警固番役について、佐多孫九郎信親の代である兵衛四郎忠弘が勤仕した旨を証する。
年月日未詳 / 冊子 221頁
寛永十九年十二月に城下士を初めて十組へ分けた際の組頭を記した注記。一番組から十番組まで各二人の組頭を列挙し、家老組、寺社家組、諸役座組などを合わせて二十六組としたことを示す。正保二年にこれらを七組へ統合したことも付記している。
年月日未詳 / 冊子 434頁/原整理番号 545-1
寛永十九年十二月、城下士を初めて十組に分け、各組に組頭二名を置いた由来と、一番から十番までの組頭二十名を列記する。別に家老組一組を設け、島津弾正久慶・島津図書久通を与頭とした。寺社家組・諸役座組なども分け、合計二十六組を置いたと記す。目録年月日は空欄のため、本文の年月をB列へ補入しない。
建武3年4月28日 / 冊子 249~250頁/原整理番号 85
建武三年四月二十八日、肝付八郎兼重とその与党の誅伐のため大隅国へ発向した際、薩摩国一宮新田宮の執印又三郎友雄が軍忠を抽んじるため馳参したことを、御奉行所へ披露するよう求めた着到状。友雄は「惟宗友雄」と署名し、島津貞久が「承了」と記して判を据える。伊地知季安は前後三通の署名例と元徳三年文書の仲原尚友を比較して上原氏を中原姓と考証し、日置荘が南郷三十六町の没官御領と北郷三十町の宇佐八幡別当弥勒寺領に分かれたこと、島津忠久・小野太郎家綱・伊作田道材らの地頭・下司関係を検討する。さらに日置村中原坊・熊野三所権現、三浦氏の「尚」字、伊作荘中原城、有川氏系図などを対照し、上原氏の姓・地名・領主権の由来を論じる。
年月日未詳 / 冊子 738頁
島津光久譜中、忠広が元和六年十二月十八日に生まれ、光久の同母弟で、初め忠弘と称し、東市正を経て入道後に萬山と号したことを記す系譜記事。