島津惟新書状
(慶長十一年)四月一日 / 冊子 63頁
島津義弘(惟新)がゆの殿に、世継ぎに関わる縁談について返答した書状。弥二郎を望む意向を承知した一方、藤二郎の妹との縁組について少将殿から話を受けているため、まず少将殿へ内意を伝えて返事を得たうえで、その意向に従って取り計らうよう述べ、弥八郎や平松への伝達にも触れる。
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(慶長十一年)四月一日 / 冊子 63頁
島津義弘(惟新)がゆの殿に、世継ぎに関わる縁談について返答した書状。弥二郎を望む意向を承知した一方、藤二郎の妹との縁組について少将殿から話を受けているため、まず少将殿へ内意を伝えて返事を得たうえで、その意向に従って取り計らうよう述べ、弥八郎や平松への伝達にも触れる。
安永四年正月二十七日(朱) / 冊子 449頁/原整理番号 1237/整理ID 1237
松平薩摩守が疱瘡を煩ったため、上使戸田因幡守による懇ろな見舞の上意を受け、さらに鮮干鱈を拝領し、大納言からも懇ろな上意を受けたことを、重ねてありがたいと述べる。名代である自分をもって御礼を申し上げるとし、末尾は正月二十七日、松平中務大輔、定國の注、朱に安永四年。別の朱注は、この口上書を中務大輔が廻動の際に御本丸の老中五人へ差し出したと記す。大納言の見舞に対する西丸への御礼については、御三番湯を召された上で赴くべきかと、用番松平右京大夫の取次用人を通し、留守居矢野清右衛門が伺ったところ、その通りでよいとの趣旨を公用人大野弥八郎から承知したという清右衛門の首尾を記す。口上書の提出と西丸への礼謝の条件確認を分け、西丸への御礼まで実施済みとしない。鮮干鱈の数量はこの文書に記されない。
安永九年十一月三日 / 冊子 603頁/原整理番号 1710/整理ID 1710
島津重豪が、領内桜島の燃焼について先に届け出た後も、近辺海中から燃え出た島が次第に大きくなり、海底からの強い火勢、大波、高汐によって近郡の田地・人家、城下の海辺士屋敷・町家に多くの損害が出ており、今後の損失も見通せないと報告した届書。六月の届出後から八月中までの損失を別紙で示し、安永九年十一月三日、松平薩摩守名で提出した。付記によれば、有川勇馬を通じ松平右京大夫方の取次公用人大野弥八郎へ内見を求め、異存なしとして御用番へ届けるよう指示を受け、御用番田沼主殿頭方へ持参し、取次榊原安兵衛を通じて差し上げた。
11月23日 / 冊子 405~406頁/原整理番号 368の5
十一月二十三日、十三端帆三艘・十一端帆二艘・十端帆一艘・六端帆一艘、計七艘の運賃船を列記する。加世田・鹿児島などの上乗衆と小湊・泊・小松原などの船頭を記し、七艘を片浦から出水へ差し遣わした旨を是枝喜右衛門尉へ伝える。六端帆船は鹿児島町芝屋太兵衛尉の大坂行商買船と記す。
年月日未詳 / 冊子 407~408頁/原整理番号 371
『平田宗直船賦留』所収の出船指示。十三端帆三艘・十一端帆二艘・十端帆一艘・六端帆一艘の船頭・水手数と上乗を列記する。鹿児島町太兵衛尉の六端帆船は大坂への商買帰りに片浦へ来ており、他の運賃船も上米の積込を終えながら順風がなく滞在していると説明する。天草出兵の人衆乗船として米を積んだまま出水へ出すこと、残る運賃船にも同様に出船を命ずることを記す。
天正六年正月十六日以後 / 冊子 589~591頁
日向が島津領となると、伊東方の残党が縁故に従って帰属し、従わない者は誅伐された。義久は正月十六日に都於郡へ入り仕置を進めるが、伊東旧臣らは豊後の義祐・大友父子に再興を訴えた。門川・塩見・山陰・三城の城主らが人質を出しながら豊後方へ内応し、大友軍を迎え入れる一方、人質の米良弥八郎らは警固を破って脱出し父のもとへ向かった。