島津日新忠良書状
永禄五年正月廿一日 / 冊子 102頁
日新が新納康久の従来の忠節を忘れていないと述べ、廻陣で子の文八郎順次が戦死した悲嘆を慰めた書状。弟弥五郎に家を継がせることを了承し、鹿児島へ上申し、自身からも取り成すとして後亀の鏡を贈った。
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永禄五年正月廿一日 / 冊子 102頁
日新が新納康久の従来の忠節を忘れていないと述べ、廻陣で子の文八郎順次が戦死した悲嘆を慰めた書状。弟弥五郎に家を継がせることを了承し、鹿児島へ上申し、自身からも取り成すとして後亀の鏡を贈った。
年月日未詳 / 冊子 719~720頁
熊谷半次・垣見弥五郎を帰朝させるにあたり、各城の絵図・城主の受取札・在番割を確認し、帳面に基づいて交替を処理するよう命じる。 金山浦などの兵糧、船・武具の残置と引継ぎも定め、朝鮮沿岸の城郭・兵站を記録によって管理した朱印状。
年月日未詳 / 冊子 14~15頁
差出人不詳の人物が、久しく出入りしなかった八代へ赴き、牧弥五郎の件が義陽の代に定められた成敗どおり処理されたことへの謝意を述べた書状。弥五郎の兄が自分たち親子を狙うとの風聞に対し強い措置を求め、子孫のためにも今後の支援を頼む。あわせて双方の近況と女子衆の消息を伝える。
(文禄元年)11月10日 / 冊子 613頁
豊臣秀吉が羽柴薩摩侍従(島津義弘)へ、炎天の渡海と寒天に及ぶ長期在陣の苦労をねぎらい、兵糧を十分に集積して占領した城々を堅固に守るよう命じた朱印状。翌春三月に秀吉自身が渡海して平定すると告げ、将兵を倦ませないこと、船を残らず送って兵糧輸送に用い、船子は帰郷・休養させて次の御用に備えるよう指示している。
(文禄元年)11月10日 / 冊子 613頁
豊臣秀吉が島津又七郎(島津豊久)へ、長期在陣と寒天の苦労をねぎらい、小袖二重を与えた朱印状。翌春に自ら渡海して一気に平定すると告げ、それまでは性急な軍事行動を避け、城々を堅固に守り、兵糧を十分に集積するよう命じている。No.989の島津義弘宛と同日付だが、豊久に対しては城郭守備と軽率な出撃の抑制を重点的に指示した点が特徴。
年月日未詳 / 冊子 441頁
伊集院氏の系図断片で、久兼から俊忠(侍従房)・弥五郎(図書助、初号伊集院、法名道實)へ続く系譜を図示する。
建武二年五月廿八日 / 冊子 635頁
筑前国箱崎八幡宮の旧領について、往代の寄進跡を確認し、同宮へ還付して武運長久を祈らせるよう伊集院弥五郎入道に命じた御教書。
暦応四年七月七日 / 冊子 739頁
薩摩国凶徒退治のため、一族を催して七月廿日以前に発向するよう郡山弥五郎へ命じた島津貞久書下。
貞和二年九月廿一日 / 冊子 770頁
満家郡山城を敵方が誘い取ろうとしているため、油断せず猶予なく警戒・用心するよう郡山弥五郎へ命じた沙弥某書下。
貞治六年十月一日 / 冊子 111頁/原整理番号 424
覚阿が、子のない弥六の跡の水田について、長谷場内の田地や甘子木村内西牟田五段などを正弟六郎に譲った譲状。六郎に弥五郎を親と思って仕え、互いに水魚の思いで知行するよう定める。貞治六年十月一日付。
正応元年八月十五日 / 冊子 348頁
新田宮雑掌が求める社造営用途・国衙正税物について、前月の書下どおり参対し、猶予なく十八日までに決着させるよう鹿児島西方郡司弥五郎へ命じた渋谷重郷書下。
年月日未詳 / 冊子 82頁/原整理番号 18
『慶応四年戊辰三月写終 伊地知季通 藤原姓長谷場氏系図』とする中表紙・冒頭系図に続く、矢上氏の短い系図抄。冒頭系図には貞満・貞国と五郎左衛門、助七、喜右衛門らを配し、貞満を中村勘解由左衛門義康の三男と記して、郡奉行・御書物奉行・公事奉行の官歴を添える。印刷番号18の本体は矢上五郎時澄から沙弥阿妙・阿実へ続く系線を示し、下段では沙弥純阿、兵庫允久純、鶴一九、覚阿、弥六氏純、弥五郎久武、六郎久純、十郎兵衛尉幸純、千代熊丸、弥四郎、実純、道阿、元恵、乙房丸らを、建武・康永・正平・貞和・貞治・文明などの年代注記とともに配する。
寛永廿年九月十五日 / 冊子 153頁/原整理番号 105
寛永二十年九月十五日の「初日三番四角之外」犬追物手組。島津上野助二疋、相良土佐守五疋、本田弥五郎五疋などを掲げ、検見を島津因幡守、喚次を島津外記とする。
正応元年七月廿五日 / 冊子 348頁
新田宮雑掌の造営用途に関する重訴状・具書を受け、帰国のうえ旧儀を確かめて沙汰を終えるよう命じた渋谷重郷書下。
元応三年三月日 / 冊子 477頁
上神殿迎祐が、伊集院郡司弥三郎宗継による下神殿内田地・荒野・常念薗等の押領を訴えた重申状。和与下知に背く所行、使節請文の焼失、度重なる未実検を挙げ、使節派遣と所領回復を求める。
11月22日 / 冊子 400~401頁/原整理番号 362の3
十一月二十二日、片浦から立てた浦水手の受取を命ずる送状。船頭壱岐・蔵右衛門・市右衛門・弥九郎と宇兵衛尉以下を列記し、第一群を三十二人とする。さらに助之丞・与介・惣五郎・弥右衛門・三右衛門尉・神介・少右衛門・杢之介の八人を別に掲げ、永山覚兵衛尉・三原源右衛門へ受取を申し付ける。
寛永十五年二月朔日 / 冊子 47~50頁/原整理番号 69-2
寛永十五年二月朔日の島原出陣に際する人員賦帳。乗馬衆13人と御陸衆49人を石高付きで列記し、定衆6人、御中間8人、諸役人32人、大工5人、茶湯坊主3人を合わせて惣計116人とする。別に詰夫丸21人を記す。日高十兵衛は御陸衆に含まれる。
建武二年五月廿五日 / 冊子 635頁
薩摩国指宿郡秋富名内中河井・荻迫等をめぐる伊集院弥五郎久兼の申状について、山口三郎入道ら関係者を召し合わせ、証拠を調べて急ぎ対決・注進するよう命じた島津貞久書下。
建武三年六月日 / 冊子 667~668頁
郡山弥五郎頼平が肝付兼重与党追討のため御教書を受け、五月六日から六月十日まで加瀬田城で日夜合戦した軍忠状。若党・親類を率い、先懸・射疵・討死を重ね、渡河責戦の際に親類助太郎左衛門尉義清が射疵を負うなどの軍忠を列挙し、恩賞を求める。
年月日未詳 / 冊子 843頁
大隅国で将軍方に属した武士を一族単位で列記する交名注文。平山左京亮、加治木中務入道、池袋弥五郎、木房太郎、策瀬左衛門太郎、小田次郎、菱刈平良彦太郎一族、別府次郎兵衛尉、鎌田藤内兵衛尉、床井宮内左衛門尉、栗野郡司らを挙げ、軍事的陣営構成を示す。