新納氏系図抄(十七)
年月日未詳 / 冊子 650~652頁
新納友義の三男忠光を祖とする支流系図。忠光が志布志落城後に島津忠幸へ仕え阿多地頭となったこと、久時父子の牛根・岩屋城での軍功と高城での戦死、久宣の朝鮮・庄内陣、焼亡による重器文書喪失、久宗の奏者番・御用人歴を記す。
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年月日未詳 / 冊子 650~652頁
新納友義の三男忠光を祖とする支流系図。忠光が志布志落城後に島津忠幸へ仕え阿多地頭となったこと、久時父子の牛根・岩屋城での軍功と高城での戦死、久宣の朝鮮・庄内陣、焼亡による重器文書喪失、久宗の奏者番・御用人歴を記す。
年月日未詳 / 冊子 370~371頁/原整理番号 188-2
蒲地仲右衛門が、祖先蒲地伊賀(甫心)の奉公と家の移動をまとめた由緒書。伊賀は十三歳から日新・島津義久に仕え、高崎大炊助の妹を妻とし、八十三歳で義久の出家に伴って入道を命じられ甫心の名を賜ったという。太閤下向時には泰平寺へ向かう龍伯を追参し、京勢に道を塞がれると切腹を申し出て通手形を得たこと、伊作で大野正右衛門と城役を勤め居所が『甫心が城』と呼ばれたこと、庄内陣後に脇元へ下り、国分移住後は廻の地名を福山へ改めるよう進言して許されたことを記す。嫡子帯刀が龍伯から五十石加増と腰物を拝領し、子孫が鹿児島・国分で番役等を勤め、仲右衛門の代まで国分高に居住した経緯も伝える。
元禄15年正月吉祥日 / 冊子 373頁/原整理番号 188-7
元禄十五年正月、青山六郎左衛門が蒲地七左衛門の照会に答え、蒲地家の縁戚・軍役・移住を四条にまとめた覚書。第一条は、母の妹が喜入摂津守の奥方で、本人が国分から摂津守に伴われ、十一歳から十九歳まで祖母のもとに居たこと、外祖母が大口春田に隠居し、兄蒲地八左衛門らも同所に居たことを記す。第二条は、福山坂で女方をめぐり金八を討つよう命じられた伊集院嘉左衛門が若年だったため、龍伯が功者の蒲地帯刀・四郎左衛門に立会いを命じ、両人が金八を討ち果たした件。第三条は庄内陣の際に押えとして敷根内脇元へ移され諸事差配を勤め、陣後に国分へ移った由緒、第四条は本人十五歳の年に父蒲地四郎左衛門が中納言によって鹿児島へ召し移されたことを伝える。
年月日未詳 / 冊子 411頁
『盛呑集』の記事で、庄内陣の際、高城から出撃した敵に新納小右衛門と黒田嘉兵衛が先進して槍を合わせ、城門まで追い込んだ戦功を記す。後に先陣を問われると、両者は互いに相手が先、自分は後だったと譲り合い、結局どちらが先陣か分からなかったという。
(慶長四年)八月六日 / 冊子 419~420頁
島津義弘が又八郎島津忠恒に、京都と国元の無事を述べ、庄内の対処を失策なく進めるよう促す。内府が格別に配慮して寺沢志摩守を使者として再派遣すること、帖佐の置目を厳守させること、病中の幸侃への見舞いと祈念を伝える。さらに帖佐蔵入の代官衆を庄内陣から外し、年貢収納に専念させるよう求める。