伊地知季安愚考
年月日未詳 / 冊子 836-837頁
伊地知季安愚考は、伊集院忠真が加藤清正の威を頼んで再び謀反を企てたことが露見し、川田国鏡の内命を受けた押川則義と渕脇平馬が、慶長七年八月十七日に野尻大津の狩倉で待ち伏せたと記す。案内者の誤りで則義は平田新四郎を鉄砲で射殺し、続いて平馬が忠真を射殺した。忠真は三十三歳で、墓は野尻にあり、法名を法山道機居士という。
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年月日未詳 / 冊子 836-837頁
伊地知季安愚考は、伊集院忠真が加藤清正の威を頼んで再び謀反を企てたことが露見し、川田国鏡の内命を受けた押川則義と渕脇平馬が、慶長七年八月十七日に野尻大津の狩倉で待ち伏せたと記す。案内者の誤りで則義は平田新四郎を鉄砲で射殺し、続いて平馬が忠真を射殺した。忠真は三十三歳で、墓は野尻にあり、法名を法山道機居士という。
年月日未詳 / 冊子 837頁
伊地知季安愚考は、渕脇平馬が押川則義とともに内命を奉じ、慶長七年八月に野尻大津の狩倉で伊集院忠真を待ち伏せたと記す。平馬が忠真を鉄砲で射殺した一方、忠真が平田新四郎と馬を乗り替えたため案内者が取り違え、則義は平田を射殺した。則義は人違いを恥じて自害したという。
年月日未詳 / 冊子 837-839頁
島津家久譜は、伊集院忠真が再び謀反を企て、加藤清正との通謀などが露見したため、忠恒が上洛の途次、野尻で狩を催して忠真を誘い出し誅殺した経緯を記す。忠真方の者は各地で捕縛・処断され、伊集院一族や関係者の配置・知行、忠真討伐に関わった押川則義らの動向も列挙し、上洛の障害を除いたとする。
年月日未詳 / 冊子 372~373頁
京都で将軍をはじめ本多上野守・山口勘兵衛尉・片桐市正・福島左衛門太夫らへ贈る馬・太刀・生紙・銀子・緞子・袷・生絹帷子などの品目と数量、馬代を受取人別に記した島津氏の進物注文。
正中二年十月八日 / 冊子 540頁
沙弥音阿が、南郷末弘名と井門実山薗三か所を養子平馬大夫入道顕阿へ譲った譲状。相副えた文書に従って知行させ、後日に実子が生まれても所領を取り戻さず、顕阿の子孫へ譲ることを認める。
享保九年二月三日 / 冊子 641頁/整理ID 1624
雑抄が、享保九年甲辰二月三日に吉野で御関狩があったと記す。惣奉行嶋津主計・嶋津市太夫・種子嶋平馬の名、三番・四番・六番と籠登の記述、朝は雨で昼には晴天を喜ぶ天候を付す。
〈宝暦五年〉六月朔日 / 冊子 530~531頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1601
六月朔日付、岩下佐次右衛門が主鈴へ、三通の届書を差し出した首尾を報告する。一通は、御手伝場所の見分を終えて小屋場を引き払った旨の届書で、堀田相模守の用人春日井庄兵衛へ持参して差し出し、届出の内容を承知したと聞いたことを記す。もう一通は、四之手の見分を終えた旨の届書で、先と同じように差し出し、追って申し上げるとして書付を受け取られたと報じる。この届書には御用人磯谷與一右衛門を御取次とする注が付く。残る一通は、四之手の見分と小屋の人数などを引き払った旨の届書で、一色周防守の用人野江平馬へ差し出し、その内容を承知したと聞いたと記す。以上のとおり勤めた首尾を申し上げるとして結ぶ。
天明五年十一月十二日 / 冊子 834頁/原整理番号 2291/整理ID 2291
重豪は脚痛と持病の痛みが重なり、引き続き滞府して養生しても回復しないため、河野仙寿の勧める相州塔之沢で三週間湯治する許可を願う。十一月十二日付の願書であり、付札には十日の提出、十一日の矢野清右衛門による御用番への取次、十三日の留守居呼出しと杉本平馬への書付返却を記す。
壬申4月 / 冊子 880頁/原整理番号 1095の2/整理ID 1095-2
布告受領後、人口・戸数取調帳を期限までに提出させる。鹿児島城下を岩崎谷県庁辺、平馬場、高見馬場、西田等の四区と小区に分け、戸長・副戸長を任命する。