殉國名藪
年月日未詳 / 冊子 521頁
文明十七年の郡山川田城攻めをはじめ、各地の戦闘で討死した者をまとめた殉死者記事。町田盛久・忠重、厚地半左衛門尉、鮫坂左衛門二郎、寺田平七、木下彦太郎らについて、戦場と没日を対応させて列記し、島津方家臣の戦死記録を残す。
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年月日未詳 / 冊子 521頁
文明十七年の郡山川田城攻めをはじめ、各地の戦闘で討死した者をまとめた殉死者記事。町田盛久・忠重、厚地半左衛門尉、鮫坂左衛門二郎、寺田平七、木下彦太郎らについて、戦場と没日を対応させて列記し、島津方家臣の戦死記録を残す。
(慶長三年)七月九日 / 冊子 221~222頁
島津義久(竜伯)が島津又八郎に、送られた馬を源兵衛尉・平七らに試乗させた結果を報告した書状。馬はおおむね静かで歩みに大きな難はないが、速歩・駆け足に乏しく自分の好みには合わないと評する。又八郎が望むなら渡し、不要なら返答があるまで預かること、船のことにも油断せず国元へ厳しく申し伝えることを述べる。
年月日未詳 / 冊子 519頁
文明十七年二月十九日、修理亮忠廉が入来山を越え、翌日に祁答院藺牟田城を攻めた際、城の崩落や戦闘により班目右京亮ら多数の死傷者が出た経過を記す譜記事。
天正二年正月十九日 / 冊子 327頁
天正二年正月十九日の禰寝方面の合戦で戦死した喜入季久の弟忠通・久績と、季久配下の武士らを列挙する。地下・足軽を含めて十五人が戦死したとする。
年月日未詳 / 冊子 817頁
南朝正平七年・北朝文和元年の閏二月に、南朝と足利尊氏との和睦関係が断絶したことを短く記した記事。
4月29日(目録、年次記載なし) / 冊子 117頁/原整理番号 1-10
市来宗之丞政寛は和田平右衛門へ、伊集院氏を通じて色紙形三十六枚が銀臺公の上覧に供され、その扱いが好評だったことを伝える。詳細は別途知らせるとし、季節の見舞いを添えて四月二十九日付で記す。
正平7年3月8日 / 冊子 548頁/原整理番号 33
正平7年3月8日、沙弥(一色範氏)が莫祢兵衛尉(政真)へ、直冬・頼尚以下の凶徒を退治するため綸旨・御教書などが発せられたので、日を置かず馳参して忠を尽くせと命じた書下。差出の下に花押があり、欄外は『旧記雑録前編一』2398号文書と同文と記す。
正平七年正月十日 / 冊子 816頁
足利尊氏が島津周防守へ、相模国山内庄内岩瀬郷を軍功の賞として宛行い、先例どおり支配するよう命じた下文。
正平七年閏二月十日 / 冊子 817頁
ひのかわ後家尼が、向島上山名の所領や山寺・田畠を上山の孫六五郎方へ譲る。自身の存命中は知行を保ち、没後に相続させること、兄弟・親族の介入、扶養、所領の処分を仮名書きで定めた譲状。
正平七年三月八日 / 冊子 818頁
一色範氏が、足利直冬・少弐頼尚以下の凶徒を退治するため、綸旨・御教書に基づいて出陣するので、直ちに馳せ参じ忠節を尽くすよう命じた書下。
正平七年三月廿八日 / 冊子 818頁
一色範氏が、足利直冬・少弐頼尚以下の凶徒を退治するため、綸旨・御教書に基づいて出陣するので、直ちに馳せ参じ忠節を尽くすよう命じた書下。
正平七年五月廿二日 / 冊子 823頁
島津道鑑が伊地知彦七に鹿児島郡田上村半分の代官職を給分として宛行い、先例に従い公事を勤めるよう命じた宛行状。
正平七年十月廿二日 / 冊子 828頁
執印友身が、新田宮領内の故日置跡について新規の入部・細工を避け、社役を勤める者を妨げず、違乱しないことを約した避状。
本文末尾:正平七年二月十日 / 冊子 666~667頁/原整理番号 〇三七/整理ID TMP-OF-P04-D037
平惟純が平四郎氏純へ、薩摩のます山庄内の所領を譲る。 しをたなかむら、上村のたかわらさき一丁ほか水田・屋敷を記す。本文には「その二ヶ所」とある。 本証文を添えて氏純へ永代の譲渡を記し、後日のため譲状を作る。