島津久頼外二名、男子誕生祝賀・飛脚連署書状
慶安五年四月二十三日 / 冊子 216頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0429
若御前に男子が誕生したとの知らせを受け、安産を祝賀し、早飛脚で報じる旨を島津久頼ら三名が国元関係者へ伝えた連署書状。
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慶安五年四月二十三日 / 冊子 216頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0429
若御前に男子が誕生したとの知らせを受け、安産を祝賀し、早飛脚で報じる旨を島津久頼ら三名が国元関係者へ伝えた連署書状。
慶安五年五月二十三日 / 冊子 218頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0438
江戸から虎松が急病となり養生の効なく死去したとの知らせが届いたことを、島津久頼が国元関係者へ報じた書状。
(承応四年)四月十一日 / 冊子 259頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0564
島津久頼・久茂が五名の役人へ、当日八つ半時に松平信綱が上使として来て島津綱久に帰国の暇が与えられたと知らせ、江戸出発日や東目・西目の旅程は決まり次第追って知らせると伝えた連署書状。
(明暦元年)九月廿二日 / 冊子 265~266頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0582
島津久頼・久茂が五名の役人へ、綱久の御機嫌や江戸での対面・進物、船荷と琉球・阿波方面の取扱い、役人の召出し・処分、翌年の江戸参府など複数案件の経過と指示を詳しく伝えた連署書状。
(寛文元年)七月十二日 / 冊子 439頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0939
島津久茂と島津久頼が鎌田政有ら五名へ、将軍の機嫌伺いの使者には岩元清左衛門を差し出すので国元から別に召し上げる必要はなく、冬の機嫌伺い使者は頃合いを見て命じ、時期は追って知らせると達した連署書。
慶安四年四月廿一日 / 冊子 136頁
長く病床にあった将軍徳川家光が四月二十日晩に死去したことを急報し、江戸城から重臣らが下って供奉した悲痛な状況を伝えた。諸説・流言が生じ得るため十分心得、国中の仕置をこの時こそ厳重に行うよう命じた四名連署状。
正月廿九日 / 冊子 27頁/原整理番号 41-3
喜入忠政・島津久賀が亀之河の島津久頼・肝付兼屋・東郷昌重・吉利忠張へ、鹿児島へ照会した条書への返答を知らせる。任意に有馬へ渡る者は自ら飯米と船を用意し、後日処分を受ける場合もあるとの命令なので、条書の写しを送り、当地から直接任意に渡ろうとする者も含め、配下の全員へ漏れなく申し渡すよう求める書状。
慶安二年九月十四日 / 冊子 158頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0289
長崎へ入津した阿蘭陀船が洋中で南蛮船に遭遇し、伴天連二人が乗船していたとの急報を受け、薩摩領内でも入念に探索・警戒するよう求めた三名連署の廻状。
(明暦元年)七月十二日 / 冊子 262頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0572
久頼・久茂が役人五人へ、相良主税は役目を終えて暇を得たが供の者が多く病んだため盆過ぎまで出立を延ばすこと、大窪市左衛門の到着を報じる。前日に上使下曽根三十郎を介して雲雀を拝領したとも伝え、その旨を機会に綱久へ申し上げるよう求める。
(万治元年)七月十二日 / 冊子 370頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0795
島津久茂・久頼が国元の役人へ、将軍の機嫌伺いの使者には岩元清左衛門を出す予定なので国元から召し上げる必要はなく、冬の機嫌伺い使者は時期を見て命じるよう伝えた連署書状。
(万治二年)四月廿九日 / 冊子 380頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0838
島津光久が島津久頼・新納久詮へ、国中の支配が近日中に決着するとの報告を喜び、仁太の件も入念に速やかに解決するよう申し付け、詳しくは鎌田蔵人が述べると伝えた直書。
二月五日 / 冊子 73~74頁/原整理番号 115-2
北郷久加・喜入忠政・島津久賀が島津久頼・肝付兼屋・東郷昌重・吉利忠張へ、全員が急いで渡るよう命じる。荷物は船、人は徒歩とし、陣屋道具を余計に積まないこと、渡り終えるまで吉利忠張・東郷昌重が残ることを指示する。山狩奉行の長谷場兵右衛門・肥後内蔵助には狩りの結果を報告させ、有馬へ伝えるため早く来るよう求める。
年月日未詳 / 冊子 256頁
島津光久譜の記事。寛永二十年九月二十七日に女帝が譲位し、新帝が即位したのは徳川家光の執奏によると記す。光久は島津筑前久頼を京都へ派遣して品物を献じて祝賀し、さらに江戸へ赴かせて酒肴を献上し、皇位継承を祝った。
慶安四年四月二十一日 / 冊子 191~192頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0378
将軍家光の薨去を国元へ急報し、公務停止、城内警固、役替えや雑説への戒めなど、非常時の心得と対応を指示した連署状。
慶安四年六月二十六日 / 冊子 193頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0383
家綱の将軍襲封と拝謁・献上、諸役人の叙任、病気・交代、家中の参府と帰国など幕府・江戸の動静を国元へ詳報した連署状。
慶安四年八月二十一日 / 冊子 202~203頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0396
家綱の将軍宣下と官位、諸大名の拝謁、能興行、幕府の褒賞・取次ぎなど江戸の儀礼進行を国元へ詳報した連署状。
慶安五年四月二十八日 / 冊子 217頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0431
光久の江戸発足が五月五日に定まったと飛札で知らせる。当日、帰国の暇を与えられ、例年どおり袷百・銀子千枚を拝領し、阿部豊後守が上使となったことを報じる。江戸発の日限を重ねて確認し、大坂まで来たら消息を伝える旨を述べる。封面に五月二十一日朝の飛脚持下という注がある。
明暦三年九月十一日 / 冊子 350~351頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0751
島津久通らが、運賃船への私荷積載、琉球からの女性連行、武具・商品売買、船頭・水主の祝儀や酒宴、帆・木綿等の不正、琉球と領内間の無断往来を禁じた船舶取締定書。
年月日未詳 / 冊子 376頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0822
島津光久が三家老の新納右衛門久詮・島津筑前久頼らに領国の境界を正すよう命じ、三名の花押を据えた条目で命令したと記す記事。
年月日未詳 / 冊子 436頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0925
島津光久が万治四年三月三日に参勤のため出発し、日向国細島から乗船して大坂へ着き、四月二十五日に江戸へ到着した。家老島津中務久茂と島津筑前久頼が供奉し、上使・就任礼や献上品は明暦三年と同様だったと記す記事。
慶安二年六月十九日 / 冊子 153頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0279
六月九日夜、京都の薩摩藩蔵屋敷で火災が起こり、土蔵の道具を含め屋敷が全焼したが、隣家への延焼はなかったことを国許へ知らせた三名連署書状。
慶安二年九月十四日 / 冊子 492~493頁/原整理番号 626-3
山田有栄・北郷久加・島津久頼が、八月十四日に長崎へ入津したオランダ船が洋中でパードレ二人を乗せた南蛮船に遭遇したとの江戸命令を伝える。津々浦々の番衆に従来の定めを堅く守らせ、南蛮人を上陸させず、南蛮船らしい船を発見した時は直ちに鹿児島へ報告するよう、山川から秋目までの御曖衆へ命じる。編者は『旧記雑録追録一』289号と同一文書と注記する。
慶安四年八月九日 / 冊子 195~196頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0388
先月下旬の江戸の一揆企図について、百人余りが召し捕られ、噂の段階から明白となったと国元へ知らせる。雑説を聞いても、もはや心配はないと伝え、企図に関する書物を別紙とし岩切六右衛門便で送る旨を述べる。後便で経緯を報じるとし、松平能登守が隠岐守預かりとなったという件は、詳しい実情がまだ分からないと断る。
慶安四年十二月二十六日 / 冊子 208~209頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0416
前日の登城を経て、久平の元服が当日首尾よく整ったと国元へ報じる。光久は大隅守・少将となり、久平は御字を拝領して松平薩摩守綱久と称し侍従に任じられ、双方が腰物を拝領した。進上物の書立を別紙とし、年改め後にさらに諸慶を伝えるという四名連署書状。封面に十二月二十六日江戸発・翌年正月十三日持下の注がある。
承応二年十二月四日 / 冊子 240頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0497
鎌田政有・新納久詮・伊勢貞昭が国元の島津図書・島津筑前・町田勘解由へ、北郷佐渡の留守居役、当地の殿様・奥方の無事、霜月十八日に上使斎藤佐源太を介して御鷹之鶴を拝領したことを伝える。奥方等への伝達を依頼し、来七日の催しや松平隠岐守の御家等への伝達にも触れる。書状は十二月四日付、封面は承応二年十二月二十五日持下。
明暦三年九月十一日 / 冊子 351~354頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0752
島津久通らが、南蛮船・唐船・異国人への対応、漂着船と荷物、琉球往来、在番衆、船頭・水主・乗客、武具・貨物・女性、密売買・私渡海・不正運賃等を詳細に禁じ、違反時の届出と処罰を定めた連署掟書。
慶安五年正月十一日 / 冊子 210頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0420
嶋津右馬頭の奥方が正月六日から病み、亀庵法印の療治を受けたが、八日から疱瘡と見られ駿河玄勝とも相談したこと、祈念の験もなく十一日昼に他界したことを町田久則が報じる。別件として町田助太郎が落馬により遠行したとの飛札を得たと記す。
慶安五年正月十四日 / 冊子 210~211頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0421
江戸在勤の軍役・人員配置、拝領品や使者往来等を国元へ報じ、別紙に松平薩摩守家来の証人名と拝領品配分を列記した書状。
明暦三年九月廿四日 / 冊子 340頁/原整理番号 23
植木の私的な売買を禁じ、必要な木は役人の許可を得て扱うよう命じる。杉を含む用木が勝手に伐られたり売られたりするのを防ぐ。
慶安四年二月二十日~四月五日 / 冊子 189頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0369
島津光久が二月二十日に鹿児島城を発し、薩摩西岸から解纜して大坂を経由、四月五日に江戸に着いた参勤の経過。島津久頼・新納久詮らが随行した。
慶安二年五月十七日 / 冊子 152頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0276
御姫様と嶋津右馬頭の縁組について、老中への内証を経て一昨十五日に城で許容を承ったことを国元へ報じ、慶祝を述べる三名連署書状。差出は島津久通・新納久詮・伊勢貞昭。封面に五月十七日付の状を六月二日に亀山主馬が持参し、姫様・右馬頭の縁与の件を仰せ出された旨の注がある。
慶安二年八月廿九日 / 冊子 492頁/原整理番号 626-2
新納久詮・伊勢貞昌・島津久通が、八月十四日にオランダ船が長崎へ入津し、沖でパードレ二人を乗せた南蛮船に遭遇したとの幕府情報を伝える。南蛮船はゴアへ商売に行くと称したが日本を目指す偽りの可能性もあるため、津浦の番手を油断なく置き、来着しても南蛮人を上陸させないよう命じる。後記は丑年十月十八日に有馬左近の廻状時に写したとする。編者は『旧記雑録追録一』287号と同一文書と注記する。