長谷場越前自記
永禄十一年三月廿三日 / 冊子 195~196頁
永禄十一年三月二十三日、球磨・大口・入来院・祁答院・東郷勢が曽木城を攻めたが、城将宮原景種・越中守と佐多勢が防いだ経過を記す。敵は曽木を退いて市山城へ向かい、負傷療養中の新納忠元が出陣して白坂口を守った。さらに永福寺口で本田掃部兵衛尉・河野玄蕃允・長谷場菊四郎らが防戦し、敵将を鉄砲で倒して退却させた。
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永禄十一年三月廿三日 / 冊子 195~196頁
永禄十一年三月二十三日、球磨・大口・入来院・祁答院・東郷勢が曽木城を攻めたが、城将宮原景種・越中守と佐多勢が防いだ経過を記す。敵は曽木を退いて市山城へ向かい、負傷療養中の新納忠元が出陣して白坂口を守った。さらに永福寺口で本田掃部兵衛尉・河野玄蕃允・長谷場菊四郎らが防戦し、敵将を鉄砲で倒して退却させた。
永禄十一年三月廿三日 / 冊子 196~197頁
永禄十一年三月二十三日、相良・菱刈・入来院・東郷・祁答院勢が曽木城を攻めた際、宮原景種・越中守と佐多山城守らが防戦したことを記す。敵は攻めあぐねて市山城へ転じたが、手傷を負っていた新納忠元が白坂口へ出て迎撃し、永福寺口でも本田掃部兵衛・河野玄蕃允らが戦ったため退いた。
永禄十二年五月六日・廿五日 / 冊子 217頁
永禄十二年五月六日の大口戸神尾・稲荷山伏兵戦に参加した島津一門・諸将を列挙する交名。島津義久・貴久・家久、新納忠元、肝付兼寛、大野駿河守、宮原景種、前田豊前守らを掲げ、同月二十五日の祁答院長野城攻めで勇功を挙げた比志島氏、新納久鏡、鎌田政年らも付記する。
永禄十二年十二月廿八日~永禄十三年正月五日 / 冊子 222頁
川内方面を島津方へ入れるため、鎌田政年・宮原景種・猿渡大炊入道が密談し、東郷重尚を通じて入来院・祁答院を味方へ誘った経過を記す。永禄十二年十二月二十八日に訴願させ、翌永禄十三年正月五日の帰順につなげた。
永禄十二年十二月廿八日~永禄十三年正月五日 / 冊子 224頁
真幸・菱刈が征服され、相良氏も多くの兵を失って退いたため、渋谷一党は孤立を悟った。鎌田政年・宮原景種・猿渡大炊入道が東郷重尚を説得し、祁答院能重・入来院重豊も同心して忠節を申し入れた。永禄十二年十二月二十八日の訴願を受け、前科を許して各氏には居城だけを残し、その他の領地を差し出させた。
天正四年十月三日 / 冊子 505頁
伊集院忠棟が宮原景種に、去る晦日の石城攻略を祝し、七月の石口での子息の働きも比類ないと賞する。義久へ報告すると約し、現在の平泉見舞いも外聞・実儀とも申し分ないとして、面会時の詳談を望んだ書状。
永禄十一年正月廿日~三月廿三日 / 冊子 186頁
永禄十一年正月二十日の羽作瀬合戦で戦功を挙げた将兵を中心に、その後の大口・曽木方面の戦闘参加者を併記した交名。義弘・歳久の退却を支えた遠矢良堅、財部盛弘、入来院筑後守、伊集院久治ら、二月二十八日の小苗代原で戦った忠元・兼寛ら、三月二十三日の曽木城防衛・永福寺口守備の人々を列挙する。
永禄十一年二月廿八日~三月廿三日 / 冊子 192~193頁
永禄十一年二月二十八日、小苗代原で敵が不意に出た際、新納忠元が薬師堂の板に詩句を書き終えるまで動かず、家臣久保勝八に引き退かされた直後、竹添丹後守の鑓で左脇を突かれた逸話を載せる。忠元はなお敵三人を討ち、自身も六箇所の傷を負ったため、貴久から使者を通じて感賞と見舞いを受けた。三月二十三日の曽木・市山攻撃では、未平癒ながら出陣し白坂と永福寺口の守備を指揮した。
永禄十二年三月~元亀元年六月 / 冊子 214~215頁
羽月城救援後、新納忠元・肝付兼寛が島津家久と相談し、永禄十二年五月六日に戸神尾・稲荷山・白木河内へ伏兵を置いた。家久が兵糧輸送を装って敵を誘い、前後から挟撃して百三十六首を得た。八月の大口包囲と九月の降伏後、忠元は大口地頭・菱刈両院惣押となった。さらに喜入季久の家存続を願う伊勢・愛宕への立願、忠元のもとへ飛来した鎌を祀る飛諏訪大明神、菱刈両院の地理・名称由来も記す。
天正十一年九月十七日~十月二日 / 冊子 759~760頁
天正十一年九月十七日の堅志田城への忍び三十人の潜入失敗から、同二十日の城氏・合志氏の和睦願い、二十七日の秋月・龍造寺和平案、十月一・二日の八代評議までを詳述する記事。阿蘇領攻撃の可否、甲斐宗運の真意と人質、三船出兵を議し、堅志田偵察隊が敵五人を討ち取って首を八代へ持ち帰った。
年月日未詳 / 冊子 209~211頁
長谷場越前の回想。七月十四日に武蔵方面へ陣を移し、天拝山を経て岩屋城へ迫った島津軍の配置と、二十七日の総攻撃を詳述する。鉄砲・石火矢・弓・長刀が飛び交い、城戸口や岸壁で敵味方が入り乱れ、長谷場配下も多数の死傷者を出した。高橋紹運方の頑強な抗戦、城内突入と落城、戦後の戦功・死傷確認に加え、安楽寺・太宰府天満宮などへの参詣や筑前での行動までを載せる、攻城参加者側の具体的な戦場記録である。
年月日未詳 / 冊子 337頁/原整理番号 26
貴久が清水にいた時の吉田城合戦を漢文で記す。諸城主が背反したため、忠元・三原・山田・宮原・長野らを吉田攻めに出した。三月十七日に敵兵を退け、四月八日には興慶寺前で大戦となり、忠元は大刀を持って敵を攻め、上原長門らと敵将を追った。馬場某も奮戦して功を争ったが、忠元は大刀を持つ者が先鋒だったと述べたという。