米良勝右衛門尉差出
文禄4年6月28日 / 冊子 892頁
米良勝右衛門尉が、高城左京亮・新納狩野介の承知事項や、高麗で久保が借り上げた銀子の処理、上地田数、延命寺分、太平寺への付分などを石高別に列挙した差出。 総石高を三百二十九石二斗七升一合、そのうち上地分を七十四石七斗九升三合と算出する。朝鮮出兵時の貸借を在地の土地・寺社領勘定へ組み込んだ経過が分かる史料である。
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文禄4年6月28日 / 冊子 892頁
米良勝右衛門尉が、高城左京亮・新納狩野介の承知事項や、高麗で久保が借り上げた銀子の処理、上地田数、延命寺分、太平寺への付分などを石高別に列挙した差出。 総石高を三百二十九石二斗七升一合、そのうち上地分を七十四石七斗九升三合と算出する。朝鮮出兵時の貸借を在地の土地・寺社領勘定へ組み込んだ経過が分かる史料である。
年月日未詳 / 冊子 296~297頁
天正十五年四月二十五日、豊臣秀吉が川内の太平寺へ着陣し、西国諸将の大軍と舟橋で人馬を渡した。平佐城へ降伏を迫ると、城方は「賢人は二君に仕えず」と旧主への忠義を理由に拒絶。二十八日には城門・藤崎小路で激戦となり、高木帯刀・谷山紀伊守らが奮戦して京衆・在地衆を感嘆させた。
年月日未詳 / 冊子 302頁
五月上旬、島津義久・義弘らが豊臣秀吉の陣へ供奉し、太平寺で召見を受けた記事。義久が剃髪して竜伯と称し、服属の意を示したのち鹿児島へ帰ることを許され、国中が安堵したと記す。島津家の豊臣政権服属を象徴する儀礼である。
年月日未詳 / 冊子 305~306頁
山田越前入道利安らが豊後から帰国する途中の動向と、戦後に龍伯のもとへ出仕した経過を記す。太平寺で召し出され、諸家臣とともに御供・拝領を受ける記事が続き、敗戦後に家臣団の秩序を立て直す主従関係が具体的に表れる。
年月日未詳 / 冊子 306~308頁
太平寺で島津義久に近侍した「御供七人」について、姓名と人物関係を考証した伊地知季安の注記。伝承によって人数・顔触れ・通称が異なることを示し、古記・家譜・口伝を照合しながら家臣名を確定しようとする史料批判の跡が分かる。
年月日未詳 / 冊子 327頁
町田氏の梅久・忠栄・久徳・久倍らの系譜と官途を掲げたうえで、久倍の奉公を詳述する。久倍は島津義久の豊肥筑六国への出兵に従軍し、九州征伐後は伊集院地頭として太平寺へ向かう義久の道中警固を担当、二子忠綱・久幸とともに供奉した。さらに義久の上京にも父子で従い、聚楽第で秀吉に拝謁した際には伊集院幸侃ら少人数のみが近侍したという。系図と服属期の随行履歴を併記する記事。
年月日未詳 / 冊子 327頁
町田久倍の長男・町田忠綱が、天正十五年五月八日に島津義久の太平寺での豊臣秀吉への降参に供奉したことを記す短い譜記事。父久倍・弟久幸とともに義久の服属儀礼を支えた町田氏一族の役割を示す。
年月日未詳 / 冊子 327頁
十六歳の町田久幸が、太平寺で豊臣秀吉へ降参する島津義久に供奉し、義久の太刀を捧持した。義久の帰城後も人質として秀吉のもとに残され、拝謁して羽織を賜う。のちに義久が上京した際にも供奉したことを記し、若年家臣が服属儀礼と人質役を担った具体例を示す譜記事。
(天正15年)5月16日 / 冊子 330頁
福智三河守長通が桑山修理亮の側近へ、二通の書状を披露したことを伝え、兵庫頭に翌日参上するよう返事を出すべきだと相談する。兵庫頭を同道して太平寺へ赴き、豊臣秀吉への礼参が遅れている件を協議するよう求めており、島津方家臣の出仕と礼儀を豊臣方が具体的に調整した書状。
年月日未詳 / 冊子 331頁
伊集院に退いた島津義久が、豊臣方から厳しく人質提出を迫られ、娘を差し出した経過を記す。娘はいったん鹿児島へ戻されたのち五月十五日に川内へ向かい、親子の離別は言葉に尽くせないものだったという。義久が秀吉への拝謁を終えて無事帰ると一門・城将が祝賀に集まった。さらに五月十八日、秀吉が太平寺から平佐・山崎方面へ進み、島津歳久が九尾付近の険路を案内したため軍勢が苦しんだことを続けて記す。
年月日未詳 / 冊子 333頁
天正十五年五月十八日、義久が太平寺から平佐城へ移った後、新納忠元は島津家が秀吉へ降参したことを「何より口惜しい」と強く反発した。義久は、家久の降参や伊集院右衛門大夫を介した和平がすでに進み、従わなければ島津家滅亡の原因になると説得する。忠元はやむなく降参し、秀吉から長刀一振、さらに道中で道服と扇を直接与えられた。敗将の抵抗感と秀吉による厚遇を伝える逸話的な覚書。
年月日未詳 / 冊子 343頁
豊臣秀吉が太平寺から平佐城へ本営を移した後、島津義弘が山崎・鶴田を先導として秀吉に拝謁したことを記す。義弘は父子へ大隅国と日向国真幸院を与えられた厚恩に謝し、飯野へ帰還した。九州国分直後の義弘の所領安堵と服属儀礼を示す。
文禄四年六月廿八日 / 冊子 32頁/原整理番号 246
米良勝右衛門尉が、高麗での見次・引渡し、久保による銀子借上げ、上地・寺領などの石高を列挙した差出。惣都合三百三十九石二斗七升一合、うち上地七十四石七斗九升三合と集計する。文禄四年六月廿八日付。
年月日未詳 / 冊子 320~323頁
肥後からの退陣時、白仁に在番した島津歳久勢が岡城主志賀道輝らの追撃を迎え撃ち、新納忠元・伊集院久春らが谷山・高城・水引などの防備と撤収に奔走した経過を詳述する。追撃戦や九鬼水軍との交戦、城兵・船の配置、戦死者を記したのち、島津義久が伊集院で剃髪して龍伯と号し、太平寺で豊臣秀吉に出仕して刀二腰と薩摩一国安堵の台書を受けるまでをたどる。九州征伐終結時の軍事・政治両面を連続して示す重要な譜記事。
年月日未詳 / 冊子 325~326頁
豊臣軍の九州進攻を受け、府内にいた島津方が軍を日向路・肥後路の二手に分けて撤退したことから説き起こす。島津忠長は義久・義弘に従って根白坂の豊臣方陣地を攻めたが、島津忠隣ら三百余人を失って敗北し、伊集院忠棟を人質に和議を結んだ。その後、義久が剃髪して龍伯と号し太平寺で秀吉に出仕したこと、忠長も剃髪して紹瑛と号したことまでを記す。
年月日未詳 / 冊子 343頁
豊臣秀吉が6月12日に太平寺から平佐城へ移り、祁答院・菱刈院・牛屎院を経て肥後へ出て、筑前博多から帰京しようとした経路を記す。15日には島津義久が鹿児島を発って秀吉を追い、京都の聚楽へ赴き、島津忠長も随行した。降伏後の義久らの上洛過程が分かる。