島津氏老臣連署状
天正六年正月廿四日 / 冊子 537頁
伊集院忠棟・平田光宗・喜入季久が土持親成へ、旧来の幕下筋として本領回復を望んだことを受け、まず日向国の石塚と三か名百町余を与え、時機を見て門川の城・所領と振り替えて必ず宛行うと約した連署状。本文年紀は天正六年正月二十四日と読める。
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天正六年正月廿四日 / 冊子 537頁
伊集院忠棟・平田光宗・喜入季久が土持親成へ、旧来の幕下筋として本領回復を望んだことを受け、まず日向国の石塚と三か名百町余を与え、時機を見て門川の城・所領と振り替えて必ず宛行うと約した連署状。本文年紀は天正六年正月二十四日と読める。
(天正六年)二月十一日 / 冊子 538頁
吉岡鑑輿が土持親成へ、日向錯乱後も大友方への報告がなく、土持相模守を島津家へ遣わしたと聞いて懸念を表す。相模守を帰国させ、親類とともに豊後へ参上して薩摩方の事情を詳しく言上し、島津勢が出動すれば直ちに応戦して忠節を示すよう勧めた。
(天正六年)二月十一日 / 冊子 538頁
佐伯宗天が土持親成へ、日向錯乱について報告せず土持相模守を島津方へ遣わしたことを不審とし、親類を添えて相模守を豊後へ参上させ、薩摩方の形勢を報告するよう求めた。島津勢が動けば早々に応戦して忠節を示すことが家の長久につながると説く。
十二月六日 / 冊子 424~425頁
土持親成が伊集院右衛門大夫へ、豊州から南蛮国へ派遣された船が帰帆時に島津領内で風破したことを伝える。両国関係を損なわぬよう船と積荷の処置を求め、豊州へ戻った後の補償・調整にも協力を願った書状。
十二月廿六日 / 冊子 425頁
土持親成書状。掲載頁では本文を再録せず、『旧記雑録後編』所収文書と同文である旨のみを注記する。巻末目録の年月日・分類・標題を採用し、本文内容は参照先に委ねられている。
天正六年二月二十三日 / 冊子 591頁
県領主土持親成は従来豊後の指揮下にあったが、島津方の内略を受けて島津へ出仕した。このため豊後と三城の往来が断たれ、土持勢が三城近辺まで動いたので、二月二十三日に門川方が県へ出撃し、物頭五人まで討ち取って豊後へ勝利を報告した。
天正六年四月十五日 / 冊子 591頁
豊後と日向門川の通路が自由にならないため、大友方は土持一族を討つと決め、四月十五日に大軍で梓山を越え、夏田の村社ヶ原へ陣を取った。門川から新名方面へ進んで南口から攻め、土持親成を生け捕りにして豊前へ流した。
天正六年 / 冊子 532~534頁
天正六年の島津氏の動向を編年で記す。年初の日向諸氏からの服属・進物、石城をめぐる攻防と土持氏の滅亡、琉球との進物往来を載せる。十月以降は伊東氏復帰を掲げた大友軍の高城攻め、耳川合戦での島津方の大勝と大友軍の多数の戦死・溺死、日向再平定を詳述し、年末には足利義昭・毛利氏による大友攻撃構想への返書を収める。
天正六年正月~三月十九日 / 冊子 576~581頁
天正六年正月から三月十九日までの日記。年始儀礼、土持・天草・相良らの祝使、伊東旧臣の移配と所領処分、日向諸城・寺社への対応、豊後側の侵攻情報と番衆配置を記す。二月以降は門川への豊後船到来、三城・三納方面の動揺、海江田衆の反乱鎮圧、穂北での伏兵準備など国境警備を強化し、義久が都於郡から鹿児島へ帰陣するまでを載せる。
天正九年十一月廿日 / 冊子 702~703頁
八木正信が土持弾正忠らへ、先年の親成と相州の懇切を後代の証とし、両家に諸役が命じられる際は親成・久綱の一筋を左、正信の一筋を右に置き、他の土持名字より公儀上の上位とするよう求めた書状。
天正十二年五月二十二日~二十九日 / 冊子 894~897頁
天正十二年五月二十二日から二十九日までの日記。折宇迫湊口の普請後に宮崎へ帰り、吉野牧の駒を拝領した。秋月種実から龍造寺との和睦仲介に関する弁明書状を受け、返書を作成したほか、築地上屋普請のため諸地頭を招集する命令、御頭役、山伏の護摩・入峯をめぐる紛議、上洛者の通行依頼などを記す。