吉利氏系図
年月日未詳 / 冊子 68頁
吉利忠澄の天文十八年誕生、永禄元年十二月二十七日の初吉利、文禄四年の没年を記し、娘が伊集院忠棟室となったこと、忠棟誅殺後の一族の処遇を載せる系図記事。
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年月日未詳 / 冊子 68頁
吉利忠澄の天文十八年誕生、永禄元年十二月二十七日の初吉利、文禄四年の没年を記し、娘が伊集院忠棟室となったこと、忠棟誅殺後の一族の処遇を載せる系図記事。
天正十年八月八日 / 冊子 716頁
新納忠元が伊集院忠棟へ、近衛前久の書状を持って帰国する長持寺僧を熊本から大口経由で安全に同行させるよう依頼した書状。僧が京都情勢を直説するとし、羽柴秀吉が中国方と和談して明智方を討ち、信長の仏事を行ったと報じる。一方、細川藤孝戦死の風聞を惜しみ、秋の出勢について吉利忠澄の進言も伝える。
天正十二年四月 / 冊子 893頁
天正十二年四月、北郷忠虎が吉利忠澄・伊集院久治とともに肥後の敵勢を討ち、首級六十余を得た。
天正三年三月十七日 / 冊子 431~432頁
天正三年三月十七日の犬追物手組で、義弘・吉利忠澄・本田董親・歳久・喜入季久らの射手、射犬数、検見・喚次を列挙する。雨天のため当初予定から延期された回の記録である。
天正六年十月廿日~十一月十二日 / 冊子 553頁
大友宗麟・義統の十万余騎が高城を包囲すると、島津家久は山田有信・吉利忠澄・鎌田政近・比志島国貞らと守った。十一月十二日、義久軍が根白坂で大友軍と戦うのに呼応して城内から突出し、疲労した敵を深淵へ追い込み、家久自身も単騎で敵中へ突入して将十余人を斬った。耳川まで追撃し、戦後に佐土原を与えられて移った。
天正三年 / 冊子 393~394頁
天正三年の島津氏の動向を編年で記す。年始儀礼と椀飯、三度の犬追物、琉球使節の接遇、近衛前久の来薩、山田・入来境界の処置、肝付家の後継争いと高城・櫛間・志布志をめぐる伊東勢の動向、島津忠良の豊後帰還、近衛前久の出水到着などを載せる。
天正三年三月十五日 / 冊子 430~431頁
天正三年三月十五日の代始犬追物の手組で、義久が二十九疋を射たのをはじめ、各射手を角ごとに配し、射犬数と検見・喚次を記録する。終了後は桟敷で三献を行い、川上経久に馬・太刀を与え、射手を手組順に召して酒を賜った。
天正三年三月廿四日 / 冊子 431~432頁
天正三年三月二十四日の犬追物手組として、四角に分かれた射手、各人の射犬数、検見・喚次を記す。犬を射終えた後は桟敷で三献を行い、一所衆・諸地頭も太刀を持参した。
天正三年四月廿一日 / 冊子 435頁
琉球使節慰労の犬追物手組で、義久・歳久・征久ら射手の配置と射犬数、検見・喚次を記す。琉球衆の桟敷を馬場西北の犬橋辺に設け、雪辱和尚も同席した。天界寺南叔が漢詩を作り、雪辱・東雲以下が和韻し、義久ら一族は和歌を詠んだ。本文日付は天正三年四月二十一日と読める。
天正三年十月廿一日 / 冊子 440頁
加世田で犬百匹を射立てた天正三年十月二十一日の犬追物手組。四角の射手、各人の射犬数、検見と喚次を記し、島津歳久・家久、新納忠元、島津忠長らが参加した。
天正四年四月九日 / 冊子 474~475頁
近衛前久の台覧に供した天正四年四月九日の犬追物手組。四角に配した射手、各人の射犬数、検見・喚次を記し、島津征久・歳久・忠長、喜入季久らが参加した。
天正四年四月十二日 / 冊子 475頁
天正四年四月十二日の犬追物手組。四角の射手と各人の射犬数、検見・喚次を記し、前久台覧のもと島津征久・歳久・忠長、喜入季久らが射芸を披露した。
天正五年十一月十三日 / 冊子 521~522頁
鹿児島馬場で行われた天正五年十一月十三日の犬追物手組。四角に配した義弘・歳久・家久・久隅・征久・喜入季久らの射犬数、検見・喚次を記す。
天正五年十一月十五日 / 冊子 522頁
天正五年十一月十五日の犬追物手組。義久の検見のもと、義弘・歳久・家久・征久・久隅・喜入季久らを四角に配し、各人の射犬数と検見・喚次を記す。
天正六年十月十四日以後 / 冊子 551~552頁
天正六年十月二十日、大友宗麟・義統の大軍が日向高城を包囲し村落を焼いたが、山田有信・島津家久らが籠城した。城内は水不足となったものの古橋陰から泉が湧いたとする。大友方は伊東残党と三納村の蜂起も図ったが島津方が鎮圧し、家久の作戦報告を受けた義久は二十五日に大軍を率いて日向へ進発し、夢中の句を勝利の兆しとした。
天正六年八月十八日~十月十九日以後 / 冊子 591~592頁
大友軍は八月十八日に耳川を越え、十月十九日に十万余騎で新納院高城へ進み、野頸・内原・田間・松原などに布陣した。山田有信ら五百余人と三州の交替兵、家久を大将とする六千余騎が籠城した。大友方は城外を焼き包囲したが、城中では古橋の陰から水が湧き、数千の兵が渇きを免れたことを義久の徳による奇瑞とする。
天正六年十月九日~二十四日 / 冊子 597~598頁
大友軍が高城を包囲する一方、伊東旧臣らは日向四十八外城へ廻文を回し、十月十日に一斉放火して都於郡へ攻め入る計画を立て、警固船も折生迫へ向かわせた。しかし一味の一部が島津方へ内通したため九日に企図が露見して関係者が誅伐された。二十四日には平野・三納勢が放火と都於郡攻撃を試みたが、連判勢が失われて千人ほどに減り、島津方に撃退された。
天正九年十二月以後~天正十年 / 冊子 745~746頁
相良義陽が三船へ出兵して甲斐親乗に討たれ、八代が騒動したため、新納忠元が大口など九か所の地頭衆を率いて直ちに八代へ入り、諸城の番を固めた記事。八代古老の要請で八代が島津領となり、地頭は後に伊集院忠棟が務めた。また大口衆らに日比良城を忍び落とさせ、安楽城も退去させたこと、合志・甲斐・有馬・田尻各氏の帰属を記す。
年月日未詳 / 冊子 215~224頁
上井覚兼が八月朔日から晦日までを記した長大な日記。岩屋城攻めで負傷した覚兼は帰路と療養の様子を記しつつ、立花・宝満・筑紫方面の処置、豊後出兵をめぐる評定、諸将・使僧・寺社との面会を続ける。書状や使者の往復、降伏者・人質・知行の扱い、兵糧・酒・贈物、医師の治療や負傷者への見舞いまで日々記録する。北部九州攻略後の占領統治と次の豊後侵攻準備が、覚兼自身の傷の痛みや日常生活と並行して進む様子を伝える陣中・軍政日記である。
年月日未詳 / 冊子 224~233頁
上井覚兼が九月朔日から月末までの動静を記した長大な日記。療養を続けながら出仕・宿所移動・帰陣を重ね、立花・筑紫・秋月方面の処置と豊後侵攻の進発計画を諸将・使者と協議する。書状・起請文・使僧の往復、船・兵糧・武具の手配、降参者・人質・知行をめぐる判断、戦死者遺族や負傷者への対応を日々記録する。茶・酒・贈答、寺社参詣、病状など私的生活も併記され、北部九州攻略後の軍政と次期作戦を支えた情報伝達・家中調整の実態が分かる。