上野隼人覚書
年月日未詳 / 冊子 415~416頁
上野隼人は、伊集院幸侃の成敗後、源次郎が庄内十二城に籠もって島津家に反したため、慶長四年六月に軍勢が催された経過を回想する。須木を発して村尾源左衛門入道・長介が幟を整え、上野隼人と逆瀬川豊前が二組を率い、夜道で高崎から庄内へ入り、楠牟礼口・津間霧島などで戦った。火矢・鉄砲・濃霧・風雨のなか敵城へ攻め込み、負傷者を出しつつ戦い、のち志和地城に対して塀・堀などを構えて長期に備えたという。
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年月日未詳 / 冊子 415~416頁
上野隼人は、伊集院幸侃の成敗後、源次郎が庄内十二城に籠もって島津家に反したため、慶長四年六月に軍勢が催された経過を回想する。須木を発して村尾源左衛門入道・長介が幟を整え、上野隼人と逆瀬川豊前が二組を率い、夜道で高崎から庄内へ入り、楠牟礼口・津間霧島などで戦った。火矢・鉄砲・濃霧・風雨のなか敵城へ攻め込み、負傷者を出しつつ戦い、のち志和地城に対して塀・堀などを構えて長期に備えたという。
年月日未詳 / 冊子 220~221頁/原整理番号 156
『上井覚兼日記』天正三年正月からの記事。吉野や瀬崎野の馬追、捕えた馬の披露と贈答をめぐり、藩主や家臣の間で使者・書状が往来したことを記す。御馬追の日程だけでなく、取駒の選定と進上を伴う行事として伝える。
年月日未詳 / 冊子 74頁/原整理番号 63の7
大村重頼自記から、天正十八年の北条不服と太閤の小田原出馬に伴い、又市郎殿が正月十一日に飯野を発った経緯を引く。久保が石田治部少輔の陣で太閤に仕合を披露する話、有川雅楽助らを挙げた300人の賦、伊集院右衛門太夫のほか御小童・御道具・御馬取衆を含む鹿児島からの動員を記す。
年月日未詳 / 冊子 408頁/原整理番号 141
義弘を御太将として、歳久・右馬頭・圖書頭・河上上野守・北郷一雲らの名を列挙する自記の抄録。新納武蔵守、伊集院右衛門太夫・美作守、新納越後守も記載される。前後の耳川合戦の記事は省略したと注記されている。
(寛永9年)6月21日 / 冊子 13~14頁/原整理番号 13
江戸を六月四日に出立した右馬頭の早打が十六日に佐土原へ着いたこと、加藤肥後守父子の改易が五月二十九日に酒井雅楽頭の屋敷で申し渡されたことを記す。肥後守は酒井宮内預けで出羽庄内へ、豊後守は金森出雲守預けで飛騨へとする。上使・目付の六月十日江戸出立を町の伝聞として伝え、加藤右馬頭の案内と、隈本・八代の城番予定者も列挙する情報覚書。
天正4年7月・8月16日、天正8年閏3月 / 冊子 262頁/原整理番号 107
本文で『上原氏系譜地取』と題し、上原隼人佐・筑前守尚信の由緒二件を記す系譜。天正四年七月、近衛前久が麑府を去って京都へ帰る際、八月十六日に『箱崎八幡大菩薩』の七字を揮毫し、上原家へ与えたと伝え、今なお蔵する旨の傍注を伴う。天正八年閏三月には島津義久が尚信(記事では隼人佑)へ薩州加世田津貫名牧壇門の采地九町二杖を与え、御老中の伊集院忠棟・村田経定・上井覚兼・平田光宗・本田親貞が坪付を裁許して授けたと記す。家蔵の書画伝承と具体的な知行給付を一代の系譜注記として結び付ける点が特徴である。
〔天正14年〕9月17日ほか / 冊子 341~343頁/原整理番号 130-30
〔天正十四年〕九月十七日の上井覚兼日記。覚兼が瀬戸山大蔵丞宅に泊まった夜、山田越前守の使者から、五日前に美々津から来た者が四国の兵船の豊後渡海と京衆下向の確実さを伝え、市来川上省伴・家村隼人佑の出家した二子が持参した書状にも同趣旨が記されていたと聞く。御家中に策動へ加わる者が多いとの風聞を受け、油断すれば重大だとの警告を了承したと記す。付随系譜では、忠家が菱刈合戦の馬越取合で永禄十年正月二十四日に戦死したこと、十二代包家が天文五年生まれで永禄十二年の渋谷一揆時に祁答院長野口で三十四歳にて戦死したことと多数の子女・僧を列記する。十三代忠宅は永禄七年生まれ、母を貴島氏女とし、大蔵姓から源姓川上へ改め、豊州撤退の夜戦で深手を負ったが本田淡路守親存に救助された。のち市来地頭本田氏との争論で伊集院忠棟(幸侃入道)の権威に押され十三年間牢浪したが、比志島紀州の上聞により赦免され、慶長年間の日州高岡外城取立時に移住して三十二石八斗を加増され、内山之城本丸に居住し与頭役を務め、正保三年正月十八日に八十三歳で没したとする。
年月日未詳 / 冊子 382頁/原整理番号 99
肝付方に属していた祢寝重長の降参について記す。肝付方との戦いが厳しくなった時、寶持院へ遣わした八木昌信を通じて重長へ密かに和睦を勧め、忠元・伊集院久治・上原常尚らも面談した。十一日に三人が誓紙を渡し、十六日に貴明の判物と家老らの誓文を遣わすと、翌三月に重長が降参した。十日には征久・忠長の大軍を祢寝城へ出して肝付方と戦い、所領を得た。忠元らの当初からの功労を記す。
(天正四年)十一月六日 / 冊子 402~403頁/原整理番号 133
鎮尚が喜入・河上・村田・平田・伊集院の五名に、言上への懇意と取合、贈馬を喜んで礼を述べる。別途の談合内容は秘蔵して他言せず、薩州側との和談については忠元へ相談するよう伝える。今後も深い意向を聞き、諸事を指導してほしいと願う。伊集院への進上と記す上包、本文到来日の付記がある。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):同年九月三日 補記(正文と別層):(文禄四年) / 冊子 149頁/整理ID KW1-G000122
太閤秀吉公の台命により義久公・義弘公が命を下し、重張の旧領祢寢院を改め、薩州日置郡吉利郷などの地を与えたと記す。 伊集院幸侃・本田三清の証帖の目件を左に掲げる。
(天正元年)十一月五日 / 冊子 320~321頁
島津義久が在陣中の伊集院忠棟・平田昌宗・村田鑑定に宛て、軍労をねぎらい、勝利が肝要であると述べる。遠境の動静が不明なため飯野へ赴いて相談したことを知らせ、安心するよう伝える。
(天正二年)四月九日 / 冊子 338~339頁
相良方の老臣が、久しく無沙汰となったことを詫び、隅州方面が島津方の勝利となったとの知らせを祝う。今後も親密な関係を望み、詳細は福田寺が口頭で伝えるとする連署状で、差出人らの花押と裏書を伴う。
天正二年 月 日 / 冊子 341頁
肝付兼亮が先非を改めて島津方を頼ることを述べ、廻・市成を献上する代わりに残る所領の永代安堵を願う。今後の無二の奉公、北郷・禰寝などから攻撃された際の救援、讒言があれば相互に知らせ弁明させることを求める起請文。
二月十八日 / 冊子 151頁/原整理番号 268
島津久元・川上久国・伊勢貞昌・三原重庸が市来宗友へ、薩州様から伊豆守・越中守へ送る書状を御道具衆に持たせたので両所へ届けるよう求めた。木下右衛門太夫宛の書状と、琢庵からの三通もそれぞれ届けるよう命じる。
年月日未詳 / 冊子 160~161頁/原整理番号 43
菱刈氏嫡家十二代の家督重時から始まる略系図。重時を左兵衛佐、重衆を右兵衛佐とし、女子が肥州阿蘇惟永、島津出羽守忠明、相良伊勢守長皎へ嫁いだ婚姻関係を示す。重副は大和守で両院を知行し嫡家を継いだ。重政は次郎・伊勢守を称し、父重時の命で大口地頭職に補され大口に在城、法名を徳翁道盛居士とする。重根は兵庫頭で大口地頭職を相続し、法名天真道龍居士、天龍寺葬。重清は右衛門太夫で花北氏の猶子となり、肥州久木野で戦死した。重昌は四郎・越後守を称し、嫡家の大和守重猛が所知を島津義久へ献じて降った際に同じく旗下へ入り、曽木一所を賜ったのち花北へ替地され居住した。末尾は、この処遇について国老伊集院忠金・川上忠克(意釣)・三原重秋が新納忠元へ送った書簡を次文書として導く。