島津家久譜
年月日未詳 / 冊子 281~282頁
『島津家久譜』の記事。十一月十八日の海戦後、乗船を焼かれて南海島に取り残された騎歩約五百人の救出経緯を記す。伊勢貞昌らが島津義弘・忠恒父子へ急報し、樺山忠征・島津久高・吉田大蔵・竹内兵部らが、生死をともにする覚悟で釜山浦へ救船を求めた。寺沢正成の提案を受け、小西・松浦・大村各氏が船を出し、敵中に孤立した将兵を収容した功労を称える。
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年月日未詳 / 冊子 281~282頁
『島津家久譜』の記事。十一月十八日の海戦後、乗船を焼かれて南海島に取り残された騎歩約五百人の救出経緯を記す。伊勢貞昌らが島津義弘・忠恒父子へ急報し、樺山忠征・島津久高・吉田大蔵・竹内兵部らが、生死をともにする覚悟で釜山浦へ救船を求めた。寺沢正成の提案を受け、小西・松浦・大村各氏が船を出し、敵中に孤立した将兵を収容した功労を称える。
年月日未詳 / 冊子 283頁
『新納久宣譜』の記事。新納久宣が島津義弘に従って朝鮮へ渡り、三年間軍務に従事したことや、太守父子の出動時に遅れず随行した十七人の一人であったことを記す。帰朝時の海戦で南海島に約五百人が孤立した際、敵船を恐れて救援船が退くなか、久宣だけが先に島へ到着し、後続船を導いて全員の帰帆を実現した功績を称える。
年月日未詳 / 冊子 280~281頁
『島津家久譜』の記事。慶長三年冬、撤兵を察知した明将陳璘らが大船団で海口を封鎖したため、島津義弘・忠恒父子が立花・高橋・寺沢勢とともに、順天の諸将を救うため十一月十七日に南海島岸へ進んだとする。翌十八日、鄧子龍・李統制らの水軍と銃砲・火器を交えて戦い、敵将を討ち、朝鮮船四艘・大明船二艘を斬捕した一方、島津・立花・高橋勢にも多数の戦死者が出た経過と氏名を記す。
巻五/冊子 79~84頁
泗川勝利後、明・朝鮮軍に包囲された小西行長・大村・五島・有馬・松浦の五家を救い、日本へ撤兵した経過を記す。義弘・忠恒は、五家を見捨てれば日本軍全体の威信を失うとして、立花宗茂・高橋直次・寺沢広高らと軍船を整え、順天方面へ向かう。海戦では火器・矢石が飛び交い、多数の戦死者を出しながら敵船へ乗り移って首級を得、三艘を奪って包囲を解いた。途中、樺山忠征・大野久高ら五百余人が南海島に取り残されるが、伊勢貞昌が主命を得て危険な海路を渡り救援を実現する。秀吉死去後、十一月十五日を期限に撤兵する命令が届き、諸大名は釜山浦で同時に帰国する約束を破って先に去る。義弘父子は孤立するが、忠豊が釜山城に残って迎え、無事に博多へ帰還する。伏見で五大老に秀吉の死を弔った後、泗川の功によって出水・高城・加治木などの知行、義弘への正宗、忠恒への長光と少将任官が与えられ、詳細な知行目録が掲げられる。七年間の朝鮮軍役の終結、同僚軍の救出、撤兵時の危機、帰国後の恩賞を一体として記す記事である。
年月日未詳 / 冊子 299頁
島津家久譜が朝鮮からの帰航経過を記す。十一月二十五日に牧島を出帆し、島津忠豊と同じ航路で対馬の鰐浦・細泊・白賀を経て鴨瀬へ着いたが、逆風により足止めされた。さらに十一月十八日の順天海口・南海島付近の戦闘で戦死・負傷者が出て、帝都へ向かう者と帰国する者について朝鮮で定めた上下の人員編成が大きく欠けたため、島津忠長ら老臣が現地の家屋を借りて協議し、欠員を補充・再編するため鴨瀬浦に滞留したとする。
年月日未詳 / 冊子 300頁
島津義弘譜が、十一月二十五日に牧島を出帆し、島津忠豊とともに対馬の鰐浦・細泊・白賀を経て鴨瀬へ着き、逆風で停船した帰航経過を記す。義弘父子が帝都へ赴く一方で帰国する士卒もおり、十一月十八日の順天海口・南海島付近の戦闘による戦死・負傷で当初の人員編成が大きく欠けたため、島津忠長ら老臣が現地で協議し、欠員を再補充するため鴨瀬浦に滞留したとする。