米良重良書状
文禄元年9月15日 / 冊子 595頁
米良重良(石見守)が米良勝右衛門尉へ、懇望を受け、互いが同姓であることを理由に、続く米良氏系図を書き写して送ると伝える。 書写は後日の証拠に備えるための一筆であり、ほかの者には決して見せないよう念を押す。同族の系譜情報が、閲覧を制限しながら内部で伝授された事情を示す書状である。
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文禄元年9月15日 / 冊子 595頁
米良重良(石見守)が米良勝右衛門尉へ、懇望を受け、互いが同姓であることを理由に、続く米良氏系図を書き写して送ると伝える。 書写は後日の証拠に備えるための一筆であり、ほかの者には決して見せないよう念を押す。同族の系譜情報が、閲覧を制限しながら内部で伝授された事情を示す書状である。
年月日未詳 / 冊子 595頁
島津義弘が米良勝右衛門尉へ、予定していた当月の参陣は「此表」の軍事行動が翌春へ延期されたため、ひとまず延引すると通知する。 ただし内々に出陣準備を整え、改めて知らせが届いた際には油断なく渡海するよう命じる。朝鮮出兵に向けた待機と動員準備の具体的な指示である。
文禄4年9月3日 / 冊子 911頁
財部の米良家に伝わった証状で、宮里一所を打ち替え、石高三百五拾九石余の土地を米良勝右衛門へ給与する。 返地分を差し引き、残余は京都で石田三成と相談して配分するという、領国検地後の所替えと知行算定の実務を示す。
文禄五年十二月二日 / 冊子 56頁
伊集院幸侃が米良勝右衛門尉に、薩州大口内の柳田村・大儀寺村にある土地を石高別に充行った領知目録。
文禄4年6月28日 / 冊子 892頁
米良勝右衛門尉が、高城左京亮・新納狩野介の承知事項や、高麗で久保が借り上げた銀子の処理、上地田数、延命寺分、太平寺への付分などを石高別に列挙した差出。 総石高を三百二十九石二斗七升一合、そのうち上地分を七十四石七斗九升三合と算出する。朝鮮出兵時の貸借を在地の土地・寺社領勘定へ組み込んだ経過が分かる史料である。
(慶長三年)三月七日 / 冊子 198~199頁
新納為舟忠元が貴島弥兵衛尉へ、長い在洛の労をねぎらい、前年冬に忠元が薩摩へ在国していたため無音になったことを詫びた書状。黒木廣顔済に関わる件について、留守中でも伊東平右衛門尉と相談し、次郎兵衛尉・弥太右衛門尉の内談がまとまり次第、武庫へ内々に申し上げて納得を得たいと伝える。追而書では、病気の次郎兵衛尉を隈本勝右衛門尉が親身に世話したと聞いたため、十分に礼を述べるよう依頼する。
文禄五年十二月二日 / 冊子 31頁/原整理番号 244
米良勝右衛門尉に対し、薩州大口の柳瀬村・大儀寺村、合計五十石七斗二升九合を領知させた目録。高麗の後陣までの奉公に対する加増として与え、伊集院幸侃が署判する。文禄五年十二月二日付。
三月十九日 / 冊子 33頁/原整理番号 248
伊集院幸侃が米良勝右衛門尉に、弥六の上洛と龍伯への拝謁が首尾よく済んだことを祝い、当地と龍伯以下が平穏・健勝であると知らせた書状。三月十九日付。
文禄元年七月十五日 / 冊子 31頁/原整理番号 242
米良重良が、家の系図を求められたため同姓同流であることを証する写しを送った書状。他見を慎み、後日の証拠とするよう申し含める。文禄元年七月十五日付。
三月八日 / 冊子 31頁/原整理番号 243
当月予定の出陣が春の仕寄の延引により延期されたことを伝え、高麗奥陣以来の苦労をいたわりつつ、静かに養生して出陣準備を整え、時節の通知を待って油断なく渡海するよう命じた島津義弘の書状。三月八日付。
文禄四年九月三日 / 冊子 31~32頁/原整理番号 245
薩州伊佐郡羽月の柳瀬村・下殿村・宮里をめぐる知行替について、惣高三百五十九石二斗一升五合八勺九才から返上分三百三十九石二斗七升一合を差し引き、残る十九石九斗四升四合八勺九才を別所で宛行うと証した連署状。両殿の意向による処置で、正式目録は追って出すとする。文禄四年九月三日付。
文禄四年六月廿八日 / 冊子 32頁/原整理番号 246
米良勝右衛門尉が、高麗での見次・引渡し、久保による銀子借上げ、上地・寺領などの石高を列挙した差出。惣都合三百三十九石二斗七升一合、うち上地七十四石七斗九升三合と集計する。文禄四年六月廿八日付。
二月廿五日 / 冊子 65~66頁
川上久國が帖佐長右衛門尉に、琉球から取り寄せる馬や数寄道具の調達状況と各種進物を知らせた書状。水指・籠・福昌寺の達磨図と梅図・金襴切などを送り、光久様の交替・下向の有無も尋ねる。
年月日未詳 / 冊子 539頁/原整理番号 547の4
諸大名から派遣された使者の討死と働きを列挙する覚書。小山田蔵之助、坪内勝右衛門、伊藤十之允、横山助之進の戦死を記す。国司下総は後殿を務め、混乱した足軽を静かに退かせ、死傷者を陣へ収容した働きが諸人に称賛された。
〔天保八年〕四月十一日(年は目録による) / 冊子 4~5頁/原整理番号 10の2/整理ID 10-2
近藤隆左衛門が央様に、島津斉興の代替わりの誓詞差出に関する伺書を提出した経過を報告する。御用番の代理を務める水野越前守の用人柴田勝右衛門に伺書一通を持参し、説明して提出したところ、受領された旨を用人から聞いた。追記では、前夕に半田嘉藤次が越前守の用人松元弥右衛門へ伺い出たが思し召しがなかったため、今朝近藤が動いたことを説明する。四月十一日付。