肝付兼政・兼直連署契状
永享六年六月廿四日 / 冊子 366~367頁
肝付兼政・兼直が山田殿へ、世情が変転しても島津好久のため一味同心して奉公し、無理な訴えには同調せず、境目所務などの紛争では互いに相談・協力し、大小の事を隠さず伝えることを神仏に誓った連署契状。本文年紀は『永享六年六月廿三日』。
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永享六年六月廿四日 / 冊子 366~367頁
肝付兼政・兼直が山田殿へ、世情が変転しても島津好久のため一味同心して奉公し、無理な訴えには同調せず、境目所務などの紛争では互いに相談・協力し、大小の事を隠さず伝えることを神仏に誓った連署契状。本文年紀は『永享六年六月廿三日』。
元禄十年六月 / 冊子 29–30頁/整理ID 91
日向国の御代官所之覚写として、宮崎郡・那珂郡・諸県郡の村々を列記する。庵屋村・船引村の別記・合記の扱いを、郷村帳・内証・郷帳・割付との関係で注記する。那珂郡の江田・新別府・吉・下別府などには郷村帳上の郡所属との異同を付し、同名の南方村についても領主・所在の注記を記す。松永村は郷村帳に見えないと注記する。元禄十年丑六月、今井九右衛門印で、兼直の傍注がある。
成立年未詳(系譜内に嘉祥3年などの年紀) / 冊子 557~561頁/原整理番号 62
鹿屋氏を天智天皇・大友親王から伴姓の余那足・善名・善男へつなぎ、仲用・仲兼・兼遠・兼行以下の多くの枝を図示した系図。善男の嘉祥3年の流罪、兼永が高城で宮方の攻撃を受け兄弟らと討死した記事、兼雄の鹿屋院長谷山城での合戦、忠兼の島津殿惣奉行・鹿屋下城の奪取など、系線に軍事・奉公記事を添える。兼好の加治木・千本などでの合戦と河野辺内五町の給付、兼直の平田との関係と弟の子の猶子化、兼健が幼時に伯父兼直の養子となり高隈を領した経緯、兼家の鹿屋での討死も記す。女性の新納氏・祢寝氏への婚姻、伯父から三俣院を譲られた兼重、鹿屋・肝付・河内・平田などへ広がる諸流の官途・法名・養子・没年を収める。これらは各人物に付された系図上の伝承・注記であり、成立年月日や一つの発給行為を示す文書ではない。
文化2年歳次乙丑11月吉旦給(本文) / 冊子 257~258頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0828
票と題し、薩摩州鹿児嶋郡万徳山千眼禅寺の開山は若沖禅師、現住は大幻禅師とする。檀命を承け、当寺を本山に送り入れて永く末寺とすることは、既に堂頭頂和尚の允許を蒙ったので、後に憑拠がないことを避けてこれを照として立てると記す。文化2年歳次乙丑11月吉旦給、黄檗山朱印。署列は知客大休・監寺全之・知客雙中、兼直歳の丈侍恢天・兼副司の丈侍東岳・兼衣鉢の丈侍玄道の六名で、各朱印を表示する。出典は重豪公御譜中、正文在千眼寺、署列は冊子258頁上段へ続く。前827の末寺願と、本票の允許を受けた証明を区別し、吉旦を特定日に補わない。
成立年未詳(系譜内に嘉祥3年~安永8年の記事) / 冊子 561~566頁/原整理番号 63
天智天皇・大友親王から伴姓の善名・善男を経て鹿屋氏に至る系線を掲げ、兼俊を肝付城高山の領主、兼任を萩原、俊貞を安楽、行俊を和泉、兼高を梅北とする諸分流を図示する。宗兼が父兼石から鹿屋院の弁済使職を譲られ、鹿屋を家号としたという名字の由来が中心記事で、日州三俣院の領主領阿との関係も記す。永和の乱に宮方へ属した兼永と高城での戦死、兼雄の鹿屋院長谷山城での戦闘、忠兼の島津元久の家老職、兼好の加治木・千本方面での軍功、幼い兼健が伯父兼直の養子となり平田兼宗の口添えなどを経て高隈を領した経緯を添える。弘治2年8月17日の日州国合原の北郷氏・肝付氏戦では肝付氏に加勢した兼豊が戦死し、幼い兼清は鹿屋を離れて日州志布志に住んだことも記載する。後半は日州・隅州の地頭職、改名・法名、婚姻・養子と各家への分岐を追い、元禄・正徳・享保・宝暦・安永期の出生・死亡・居所まで記す。系図中の古い祖系・軍歴は本文に記された家伝として扱い、文書全体の成立年とは区別する。